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聴く女(ひと)

目の端で捉える数字が、一つ飛ばしの連番で増えていく。それに反比例するように、カフェラテの温度は失われていく。読むともなく本を眺めていると、聞くともなく声が耳に入ってくる。隣では神妙な面持ちで二人の男性が向かい合っている。今後の進退についての相談だろうか。下世話な好奇心から青年の悩みが気になったが、聞けども聞けども一向にわからない。なぜというに、話しているのは相談の「聴き手」だからだ。聴き手が話しているようでは、相談なんてできたものではない。

よい聴き手となるのは簡単なことではない。それはよい語り手になるよりもずっと難しい仕事なのかもしれない。カウンセラーを名乗るのに資格が必要なのも、そういう事情からだろうか。聴き手の本来の仕事は、語らせることだ。

私たちは「聴く」という営みを軽く考えすぎてはいないだろうか。聴くというのは、誰にでも、いつでも、どこでもできる仕事ではない。勉強し、訓練し、相手がいて、相手との信頼を築き、相手に対して愛情をもってはじめて可能となる仕事なのである。人間性に富んだ、尊い仕事なのである。

ギリガンは、自らを「聴く女」と名乗った。もうひとつの声を聴く。そのもうひとつの声とは女の声であり、人間の声である。つまり人間の声を聴くという仕事。人間の仕事。女とは、実のところ差異の代名詞なのである。差異は善悪でも優劣でもない。自分の中にもう一人の自分を認めること。それが聴く女(ひと)になるということであり、聞くという営みの本質である。

私たちは聴く女(ひと)にならねばならない、と言い「聴く」という行為を女という性に絡めると、女性性と受動性を結びつけているとか、性別役割分業的な発想だと非難されるかもしれないが、そうではない。男と女という概念はいかにも二元論的・二項対立的な概念だが、それは物事を単純化しすぎだ。ある人は男で、ある人は女。男は女ではないし、女は男ではない――そうではない。「私達の雌雄の概念は、本来遥かに複雑な人間の状態を超単純化したものではないか」(『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』238頁)。これは茸の性の多様性からの類推である。茸の性は人間の性とそう違わないが、一種類の茸に約80タイプの雌と、約180タイプの雄がいるそうだ。ある組み合わせでは繁殖可能だが、ある組み合わせでは殖えない。人間だってそうではないか?人間の場合、茸でいう組み合わせは「相性」という言葉に還元されているだけのことである。多様性を謳う以前から、世界は果てしなく多様だったのだ。

「聴く」という仕事の複雑さは、私たちの身体のメカニズムからも理解可能である。私たちの耳はうまくできていて、脳と接続し聞くべき音を選り分けているのだ。こう言われてもピンとこないかもしれないので、逆の場合、つまり音の価値がすべて等しい世界のことを考えてみよう。具体的には、補聴器を考えてみてほしい。補聴器というのは音のルーペである。耳に入る音のすべてを拾い上げ、すべてを均等に拡大する。つまり、隣の席の無関係な話し声、遠くの席の咳払い、窓の外の踏切の警報、風の音、鳥のさえずりさえすべてを同じ価値を与え伝える。これは想像するよりも煩わしいことである。しかし補聴器の例など挙げたところで、健康な若者にはその不便さはイメージできないかもしれない。そんな場合には実際に体験してみるのがいい。電話をかけてみたまえ。家族でも、友達でも、好きな子でもいい。ただし、駅や人ごみなどの騒がしい場所にいる相手を選びなさい。そうすれば音の価値が等しいとはどれほど恐ろしいことかわかっていただけるだろう。聴くべき音の選定は補聴器やスピーカーの仕事ではない。脳の繊細な仕事だったのである。

上で述べたように、私たちは無意識のうちに耳に入る情報をふるいにかけ、取捨選択している。これはカクテルパーティー現象とも呼ばれる。そしてこの情報の取捨選択の塩梅こそが、「聴く」という行為が単に受動的な行為ではないということを意味している。私たちが聴くものは、私たちが既に判別した後のものなのである。

聴くという営みは受動的であるどころか、極めて積極的な他者との関わり方である。なぜなら、他者の声を聴くことは既に関係が生じていないと不可能であり、さらにそこから関係を深め発展させてゆくことも可能な、可能性に満ち満ちた営みなのである。「語ることは、関係的な行為の極みなのです」(キャロル・ギリガン『もうひとつの声で』26頁)。これは「聴くことは、関係的な行為の極みなのです」と言い換えることもできるだろう。語ることと聴くことは表裏一体である。このことを体現するのは、詩人である。

アリストテレスの言うように、優れた詩人は作品の背後に隠れている。ホメロスがそうだ。ホメロスの生涯や出身について、私たちは何も知らないに等しい。そしてこのことは故無きことではなく、詩人という生き方と密接に連関している。「すなわち詩人は、みずから語ることをできるかぎり避けなければならない。そういう仕方で詩人は再現する者となるのではないからである」(アリストテレス『詩学』1460a)。だが「詠み人知らず」が詩の本質であるとしても、詩人が詩の女神ムーサの声を聴くというのは、詩人が単に受け身に言葉を預かってるというわけではない。他者の声を聴く、すなわち他者の声を引き出すことはわれ一人、かれ一人ではできない。語る側も、誰もいない場所で語ることはできない。独白と目の前の他者に語りかけることとは異なる。独白は文字通り独りよがりだ。語るときには、「この人になら話せる」という感覚がある。その人の前でしか出会えない自分が現れる。語ることも聴くことも、二人で一つの言葉を紡ぐ歴とした共同作業なのである。しかもそれは一回きりの出来事ではない。ホメロスはムーサに選ばれ、預かった言葉をまたさらに承けるのである。そして2000年後の私たちも、また誰かにホメロスを語るのである。

ホメロスは一万行を超える長大な叙事詩を口で語った。文字ではなかった。文字に残るのは無味乾燥な思想の残骸である。文字だけでは、伝えたいことの半分も伝わらないかもしれない。にもかかわらず私たちは本を書きつづけ、本を読み続ける。なぜか。本というのは書かれなければならないと同時に読まれなければならない。これは言葉が語られなければならないと同時に聞かれなければならないということに似ている。そういう意味では声を聞くのと同様、本を読むというのも受動的な営みではないのだ。これは一方的に垂れ流しにされるテレビやラジオの情報を受け取るのとは異なる。本を読むという行為は、客観的にはただ文字を目でなぞっているだけであり、知識を詰め込もうとしていたり、内容を消費しているように見える。しかし私たちはきっと、伝達の媒体として不十分な思想の残骸に、有用さ以上のなにかを求めて本を開く。なぜ本を書き、読むのか。それはまさに文字の背後に存在する人物との対話を求めているからである。ある時は理解できなかった言葉が、別の時には痛いほどにわかる。ある時と別の時の解釈はまた違ったものとなる。そしてそれをまた他者に伝えることになるかもしれない。対話は一度きりではないし、相手との関係によって持つ意味や深みが変わっていく。読書体験とは、実は対話なのである。遁世し孤独に見える哲学者は、彼の本棚に豊かな対話相手を持つ。

私たちは聴く女(ひと)にならねばならない。男も女もである。これこそが人間に人間らしさをもたらす人間の仕事であるから。


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