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【紀行文】大地を貫く巨岩に畏れを抱く 祈りの場所 浜松 天白磐座遺跡

 静岡県西部の中心都市浜松市。ここは現在周辺市町と合併して、諏訪湖を源流として流れる天竜川沿いの地区を包含している。天竜川沿いに、史跡・遺跡が点在しており、特に旧水窪町のあたりには縄文の遺跡が集中している。
 今回浜松から天竜川をさかのぼり、かつて塩の道と呼ばれ、また秋葉信仰においては秋葉街道と呼ばれる道を北上し、信州と遠州の境である青崩峠までを車で旅行した。
 天竜川を遡るにつれ、集落は寂しくなり、山間にわずかに広がる畑や水田から、暮らしの厳しさを想像した。
 しかし各所に古い伝統を守る集落や神社があるようであり、それらが気になった。人がいなくなれば、途絶える伝統や風習があっても仕方ないものであろう。失われることは傍観者としては惜しい、悲しいなどの感情を持つが、それを維持することの苦労や維持するために行う祭の無意味さを考えると、仕方のないこととするしかないだろう。

縄文以前の遺跡が数多くある場所

 出発地となったのは、遠州、井伊谷にある天白磐座遺跡だ。
 ここは、元は井の国といわれた水に纏わる伝承が多い地域だ。天竜川とは水系が異なるが、神宮寺川に囲まれた丘の上にある渭伊神社、この敷地内に巨岩がならぶ祭祀遺跡がある。
 出土遺物は、古墳時代以降のものが多いらしいが、一部縄文・弥生期の土器片が出土しているらしい。周辺の遺跡からは、縄文・弥生期の土器や石器が出土しており、かなり古くから祭祀場、少なくとも当時の人が目的や理由を持って訪れた場所であることは間違いないようである。
 土器だけを見ると東海系が多いようだが、黒曜石や信州式の土器の流通があり、諏訪地方とのつながりもあったと思う。
 調べているうちに、どんどんこの諏訪を発した天竜川の下流域に存するこの古代祭祀遺跡の空気を感じてみたくなり、今回の旅行の起点とした。

旧引佐町にあるこの遺跡は、大河ドラマ「おんな城主 直虎」で人気となった遠州井伊谷の渭伊神社の敷地内にある。渭伊神社は、神宮寺川に囲まれた丘にある。
右上にモロード様というのがあり、何かを調べたら「客人(まろうど)」らしいという説があった。古くは「井の国」と呼ばれていたこの地域。モロード様は客人ではあるが、本来ここにいた産土神ではないかという説もある。ここには、井戸や水に纏わる伝説が数多くあり、そういう意味でも不思議で神秘的な場所だ。
渭伊神社

天白磐座遺跡の雰囲気

一際目立つ巨石が左右に聳える 写真左の巨石の左下がもっとも祭祀の痕跡がある

浜松地域遺産センターで購入した天白磐座遺跡の報告書によれば、この遺跡は古代から長く中世まで使われた祭祀跡であるということだ。
 今回車で訪れたが、カーナビには、住宅地の中を通り、渭伊神社の裏手に案内された。山の中の峻険な場所に立つひっそりとした巨岩をイメージしていた私はいささか拍子抜けだった。
 おそらく近年住宅地になったのであろうが、近くでは、縄文や弥生期の遺跡が多数見つかっているようだ。

すこし引いた磐座全景(南側より) よく見ると辺りには、大きなチャートが露出しており、岩がゴロゴロと転がっている。

 チャートは、堆積岩といわれる非常に硬い石であり、ここに散らばっている石を含めすべてチャートらしい。この巨石群の配置を見ると、巨大な一つの岩が中央で爆発して広がったようにも見える。
 写真でもわかる通り、左右にひときわ大きな二つの岩があり、この左側の巨石の下で主に祭祀が行われていたようだ。皿や鉄鉾などが出土している。鉄の矛と言えば、アメノサチホコつまり古事記の国生みで使われたものがあるが、原初の神々へつながる雰囲気を感じた。

先ほどの写真の反対(北側より) 岩の上に登らないよう注意看板があった

 この巨大な岩に圧倒的な迫力を感じる。尋常ではない、なにか巨大な「大地の力=畏れ」がこのような奇形を作ったのであろうと思う。
 そして連綿と続いてきた祭祀の力、思いがこもっている場所なのか、特別な聖なる場所としての雰囲気を感じた。岩に登ってみたかったが、禁止看板があったので止めた。
 左右に聳える巨石は、先ほども感じたように巨大な一つの岩が割れて二つに裂けたようでもあるし、また二つの巨大な岩の中央に神々が降臨するような気配も感じる。自然の偶然かもしれないが、神々の作為や雰囲気を感じさせる場所である。

南側から見て左手の巨石 その下部の岩陰となったところから、多くの祭祀遺物が出土した
ここがメインの祭祀場だったようだ。ということは、この岩の上に神が宿ると見えたのか。

 考古学としては、ここは古代から中世の祭祀遺跡であり、その後祭祀は中断され、近年に至るまで顧みられなかったという場所、となるのであろう。
 また、この遺跡に関する文献もほぼないようだ。
 私は、ここで何が営まれ、何のために営まれていたのかと言う、その当時の人々の精神性や風習、風俗にに興味がある。考古学的にも、文献史学的にも資料がない中、何が行われていたかを追求するのは、もはや学問ではなく、想像・フィクションでしかないのかもしれない。
 しかし、本当にここで何が行われていたのか、何を目的に祭祀を行っていたのか、考えること、知ろうとすることこそが、意味のある学びではなかろうか。

古代の祭祀を想像する

 川が三方を取り囲む小高い丘の上に、突如として露出する巨岩に驚いた人々がいた。科学的な知識なない中、そこに神々の存在、自然への畏怖を感じた、これは今の感覚でも分かるものだろう。
 ただ、当時の人にとってはインパクトは相当なものだったかもしれない。そしてその岩、または岩から見える景色に神々の姿を見たのだろう。
 実際、今この場所に立ち、北側を見ても、背の高い木々に阻まれ見通せないが、どうやらその木々を取り払うと、姿かたちのいい山容がみえるらしいのだ。神奈備として崇められた山があったのかもしれない。

 弥生以降の集団生活、階級社会が生まれる以前は、せいぜい4~5多くても10軒程度の集まりの中、10~20人程度の集団で暮らしていたと言われる。この少数集団の中で人々が生活していたという状況が、現代と大きく違うところだ。当然全員顔見知りで、つよく結びついた日常生活を送っていたため、文字の発達は見られなかった。文字の機能の一つは、集団に共通の物語を広めることだ。数百人クラスの集団を共通の物語、ルールで維持していくためには、文字や記号が必須だった。

 文字を必要としない閉鎖的な集団が共通の物語を持ち、なんらかの理由でそこを離れた後も、同程度の集団がやはりここを同じように神聖視して祭祀を続けたのではなかろうか。
 このチャートには、線状に堆積した層の跡が見える。これが無数のひっかき傷、もしくは井桁模様に見える。私は、最初見たとき文字か記号(ドーマンのような井桁、あるいは九字のような)に見えたが、どうやらチャートの特徴のようだ。しかし、古代の人が見れば無数の記号に見え、何かしらのメッセージを見たかもしれないと思った。

写真ではわかりにくいかもしれないが、格子状の線が無数に入っている

海と山が出会う場の力に手を合わせる

 しばらくこの岩の周辺を歩き回ってみた。辺りは静かで、蝉の音があたりに響き渡っている。チャートは太古に海で堆積した微生物の死骸の集積であるのなら、ここは海と山が出会う場所だ。 

長い間放置され、木の根が岩を覆っていた。

 私は、静かにこの磐座に手を合わせ、あたりの静けさに耳を澄ました。
静けさの中に、何か大きなものがやってくる感覚があった。こうした感覚は、都会の中に住む我々が感じにくいものだ。自然や神々とつながるその大切な感覚を取り戻しに、今も我々はここを聖地として訪れるのである。
 祭祀跡が見つかったこの岩には、やはり神が降りて来たのだと思う。
 磐座は、神々を下す場所だ。
 そして今でも、神々はここに降りてきているのだろう。
 私はスピリチュアルに傾倒しているわけではないが、こういった自然に訪れる癒しの感覚や何か大きなものにつながる感覚というを感じるときがあり、それを大事にしたいと思っている。

 ここ天白磐座遺跡は、間違いなくこうした癒しの効果が、現代の人間にも作用する、何かがあると思う。

巨大な龍のうろこのようにも見える 人によって見える神々の姿が異なったかもしれない。ただ、いずれにせよ、人知を超えた畏れを感じさせる場所であることは確かだ。

参考資料

 こちらは天白磐座遺跡についてのレポート。読みごたえもあり示唆に富むのでリンクを張らせていただきました。

今回の旅の続きはこちら


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