【紀行文】天竜川西岸の古墳時代を通じて古代の人々の信仰を考える 浜松市立博物館
ナウマンゾウと浜北人で有名な古代浜名湖周辺
静岡県西部、天竜川流域を北上し、古代人の足跡をたどる旅。前回は井の国があった遠州の天白磐座遺跡や龍潭寺の記事をあげた。
次に向かったのは、浜松市博物館。貝塚で有名な蜆塚(しじみづか)古墳の近くにある。浜松市内の出土品が時系列できれいに展示されており、佐鳴湖や浜名湖で出土したナウマンゾウや原人、そして貝塚の展示がやはり特徴的だった。
また水田地帯であったことから、一般的には腐食しやすい木製の製品が、大量に水中に集積され、比較的形をとどめて出土するようだ。木製の農具や一部呪術儀式用の道具が見つかっている。
弥生期の水稲技術を推し量ったり、呪術的儀式から精神性や思想を想像することが出来る、そんな貴重な資料だ。
常設展には、近世以降の今川氏関係や武田氏関係の資料も当然数多くあり、見どころは多いようだった。常設展もよかったのだが、今回はこちらの企画テーマ展がメインのため、そそくさとテーマ会場へ。
テーマ展 天竜川西岸の古墳時代を見る
この浜松市博物館で最も有名な、見返りの鹿と呼ばれる、後ろ振り返った形の鹿の愛らしい埴輪が展示されていた。
この鹿の埴輪の下部に4つの穴が開いており、そこにテグスが巻かれていた。私はこの穴がテグスで固定するための穴なのか、それともやはり最初から空いていた穴なのかわからなかった。
また近くに展示されていた儀式用の木製品は先端が二股に分かれており、洗練された形になっているが、どうやらこれが鹿の角を象ったものらしいと言う断片的な情報を聞いた。
なぜ鹿の角なのだろうか?
館長さんとの貴重な対話機会
実は今回、ある縁でこちらの館長さんと面会できることになっており、館長室に伺った。浜松市博物館の館長さんは、気さくな、そして発想が面白い方でとても話が面白かった。
先日も、この館長さんが仕掛けたある「企画」がX(旧ツイッター)でバズっていた。
館長さんが、展示を見てどう思われましたか?と水を向けてくれたので、先程の埴輪の穴の件と儀仗用の二股に分かれている理由を聞いた。
回答としては、まず埴輪の穴に関してはやはり最初から空いているようだ。これが製造過程の必要によるものなのか、どうかそれについては分からない。ただ最初から空いていたようだ。
次に儀仗用の杖が鹿であると言う比定についてだが、これはやはり農耕に関わること、稲作に関係する儀式に使われたものであるようだ。
鹿の角は生え変わり、生まれ変わる様が稲の生産力の豊穣につながると言うような想像につながり、鹿の角が儀式化、様式化されたのであろう、ということだった。
なるほど。
さらに、なぜ「鹿」なのかと尋ねた。縄文の土器には蛇と蛙と猪が表現されている。しかし何故か鹿は現れないと聞いた。鹿が現れるのは銅鐸に描かれる頃からだ。人々が描く動物にどうして変化が現れたのか、不思議だった。
これについても解説をしていただいた。
この儀仗が使用された時期においても、鹿や猪は貴重な食糧であり、狩猟も並行して行われていた。しかし、鹿は稲を荒らさないが、猪は時に人を攻撃し、場合によっては畑を荒らす「害獣」であるととらえられたのではないだろうか。
そのため、猪が神聖視されなくなり、繁殖力の高さや角の再生を神聖視したため、鹿が大事にされ始めたのではないかということだった。
私はついでに、諏訪信仰との関係(御頭祭)も聞いたが、諏訪信仰の成立はもっと時代が降るであろうと言うことだった。
縄文と弥生の時代で神聖視する動物が異なると言う指摘が面白かった。先日、南アルプスの資料館で、縄文時代には鹿も猪も同様に狩猟対象であったはずだが、鹿が神聖視されなかった、少なくとも土器には描かれなかったと言う解説をいただいた。
当時の人々には、猪の多産性、蛇や蛙の脱皮が、生まれ変わりの象徴として人々には自然の驚異を身近に示す、大事な信仰の対象であったということなのかもしれない。
その時代の人々にとって切実な祈りは何か、これを捉えると、その時の精神性や思想、思考が分かってくる。現代人の感覚や知識のみで見てはならないのだ。
国指定史跡 蜆塚古墳へ
館長から丁寧なお話を聞いたのちに、敷地に隣接する蜆塚遺跡を訪れた。この蜆塚遺跡は、縄文時代後期~晩期(約4000~3000年前)の貝塚であり、約1000年間も維持された集落跡だ。
貝殻による酸性土壌の中和で、数多くの骨や骨製の道具が残って出土している。日本の土壌が酸性土壌で、骨を基本的には溶かしてしまうという考古学的には致命的なものなのだが、こうして奇跡的に残っている場所がいくつかある。以前立ち寄った、信州の栃原岩陰遺跡では、幾層にも積もった灰が中和作用を担った。こうした偶然がなければ、今私たちは古代人の財産いあうことはできないのだ。
蜆塚遺跡のすぐ西側には佐鳴湖がある。
蜆塚遺跡以前の約6000年前には、縄文海進により蜆塚のすぐ近くが入り江となっていたようだ。海が引いて、佐鳴湖は汽水湖となりシジミをはじめとした魚介類の宝庫となり、蜆塚周辺の人々の生活を支えることが出来るようになったようだ。
自然環境の変化が人類を大きく動かす
旧石器時代、新石器時代、縄文時代、弥生時代、そして古墳時代と歴史の教科書で区分を習ってきたが、いずれも道具の発達や民族の移動により、つまり人の手によって歴史が動かされてきたという、そういう価値観であったと言える。
しかし、こうして遺跡をみていくと、古代において人が大きく動くのは環境によるものだと思わざるを得ない。所詮人は、自然の一部なのだ。
縄文海進による海面上昇、その後の海退期による浅瀬や低湿地の登場は、大いなる自然のなせる御業で、その後人が適応していったに過ぎないのではないか。
人は自然に立ち向かうのではなく、その恵みと大いなる御業に対応する従順さで暮らしていくべきではないか。
遺跡を巡り、古の思いを巡らす中で、最近つとに思うことである。
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