見出し画像

緑のフィーカの会(第6回2024/04/07)〜己を見つめ直し、自然との関わりを見つめ直す〜

今回は4月で季節もよくちょうどお花見の季節ということで新宿御苑でのお花見をしながらの特別会でした。

そんなお花見会にぴったりな人物として石黒燈さんを今回ご招待してお話しを進めてきました。

石黒さんは「人と人との間に森のような関係性を」というテーマで森林浴や対話、グラレコ等を通して自分の感覚や感情を大切にする体験を届けるような取組をしています。

人と人との間に森のような関係性とはなんと美しい響きでしょう。せっかくなので、森林浴を体験させてもらい、レジャーシートをひいて、お菓子をつまみながらまさにフィーカとしてゆるりと人と自然の関係について深めてきました。


森林浴

御苑に入ってから人が歩く方向とは真逆の森の方に向かいました。普段とは違う森の歩き方です。実際に我々がやったのは下記です。

①立ち止まって五感で感じる
②焦点を絞る

普段森を歩いている時なかなか立ち止まらないですよね(歩いているのだから当然か)ちょっと立ち止まってみる。目を閉じて、耳を済ます。そして自分の心地よい場所や向きを探る。そこからそれがなぜ心地よいのか考えてみる。そこにはどんな風景が広がっているのか想像してみる。匂いや肌に触れる空気の感覚にも意識を向けてみる。

そんな感じで森に目を向けてみると、今までは見えていなかった景色が見えてきたりします。虫の音に気付いたり、ちょっとした花の存在に気付いたり、自分の中の知らなかった感情に気付いたり、自分の内と外に対して観察するということなのだと思いますが、自分にも自然に対してもいろんな気付きが得られます。

次に焦点を絞るです。片目をつぶって、片手を望遠鏡のようにして焦点を狭めます。同様にどんな気付きがあるかを探っていきます。

なかなか面白いワークでした。同じワークをしていても人それぞれ感じること、見え方が全く異なっておりそれもまた気付きになります。これは一度体験いただくしかない。


人はどう自然に向き合うか

ここからはトークセッションです。歩きながらもお花見をしながらも色々な角度からお話をしました。

ゆるりと真面目にお話します

人が歩いたり、関わったりすると空気の澱みや逆に空気が通るみたいなことが起きる。我々は持ってる野性の勘みたいなものがあって、ここは空気が通るとか、海から山の繋がりを考えて、そこに空気を通すことを考えたときには、ここめっちゃブロックになっている。沢が途絶えていたら、それはどこに詰まりがあるのかっていうのは、見ていくとなんとなくわかる。

今見ている景色と、その景色がある周りの状態っていうのもわかっていると、ここに空気が通るんじゃないかな。こうした方が行きやすいんじゃないかなとかがわかるようになる。

あと、生えてる植物にはそれぞれ役割があるから、この植物が生えているということは、土はこういう状態。 それがこれぐらいの期間ずっとあるということは、そろそろ終わってもいいかなとか。より専門家になるとそうなっていく。

だから、植物ごとによって土に対して果たす役割は違う

あとは、森に手を入れる人が言っているのは、自分が手を入れることで、 それが自分本位なのか、森に想ってやっていることなのか分からない。でも、自分が手を入れるってことは、その生態系の一部になるという覚悟を持って手を入れるっていうことだから、そこに関わり続けるっていう意志でもある。

その感覚はを持ち合わせる人が減ってきたら、やっぱり日本の森を存続することは難しいのかもしれない。

どちらかというと森に入る人が、減っている状態では。一部の森はたくさん人が入ってるかもしれない。それで、逆に伐採すぎとかもありそう。

ここが自分の森だっていう場所が増えるっていうことは、それを持ってる人が増えるってことは、大事だと思う。

動物保護だと、こう、なんか人間から見て可愛い動物ばっかり保護されるみたいなことあると思うんですけど、森林でも、なんか人間にとって都合のいい 森林だけが、よく手が入るとか、そういうのもあったりするのかな。

あると思う。アクセスしやすいところとか。

結局、他の生き物と一緒に住んでるんだっていう、感覚がすごい大事なんだと思う。


自然や地元との関係づくり

1次産業に関わる人に人を案内するツアーをやっているということだけど、そこに観光客を入れることは産業そのものに悪影響が出ないのか

大規模でできることじゃない。そこはできる範囲でやっている。人手が足りないから受け入れる側の1、2人ぐらいしか受け入れていない。

ただ、やっぱり バランスは難しい。縄文杉も一時期オーバーツーリズムで森が荒れて縄文杉が死にそうになったので、縄文杉を 遠くから見るスタイルに変わった。

人が来れば来るほどお金になってた時代はやっぱりそうなってしまう。それもあるから多分 国がルールを決めたりとかするんだと思う。でもかと言ってそこに人が来ないと そこに住む人いなくなっちゃうから、その森を守る人もいなくなってしまう。

ただ1つあるのは、その関係性作りをちゃんとすること。ただ屋久島に行ってリフレッシュして、また都会で頑張ろうみたいな人を増やすんじゃなくて、屋久島の森が豊かでよかったら自分も嬉しいなって思える人を増やしていく。

そうすると、ただ自分がリフレッシュしたいがために来る人って、ゴミとか全然出してしまうが、島の森が豊かになることが自分の豊かさでもあるっていう感覚な人はゴミは出さない。そういう案内の仕方をちゃんとする。


屋久島に来る、屋久島の豊かさがこう自分の豊かさに繋がるっていう感触を持てる人を増やす。それができたらなんか理想だなと思うんですけど。それはどうやったら増えるのだろうか。

忘れられない感動体験を届けること。縄文杉は行きたいリストに入ってくるが、それに行って満足ではなくて、忘れられない風景をその人が持ち帰ることができたら、じゃあその風景が残ってた方がいいよねってなる。その風景はガイドさんらが整備していたりするけど、人が手を入れてるんだよってところまで繋がっていくと、自分が手を入れることで、自分が心から感動した風景は自分が手を入れることで守れると気づくことができる。

時間はかかる、1回1回でできることではない。だからもう1回来やすくなる関係性をとっていうのは大事。そういう意味では人が行く目的になると思う。

まるまるさんっていう人は、屋久島に住んでたら、まるまるさんに会うたびに屋久島に行くしかなくて、そういうのを繰り返してるうちに、その人が見てる屋久島がだんだん自分の中にわかってきて、自分が見る屋久島にだんだんなっていく。


屋久島の特徴、集まる人たち

屋久島はもともと屋久杉の伐採が江戸時代からされていて、屋久島は年貢の代わりに屋久杉を治めていた。

それが大事な産業だった。それで食べている人がたくさんいる中で、世界自然遺産になっていき、保護の運動も同時に起こっていって、すごい葛藤があったと思うんですよ。自分のお父さんはこの杉の森を守ろうって言ってるけど、友達の家族はそれで食っているというような葛藤で、おそらくいじめもあって、でもそれを超えて世界自然遺産になって、それに共感する人が集まってるっていうのがやっぱりすごい特徴だなと思う。

屋久島の特徴は川と海の繋がりが、どこも繋がってるんだけど、コンパクトなので、午前中に山行って川の源流を見て、 夕方海に戻ってその川が終着する地点を見ることができるぐらい小さい。

だから、その巡りの意識がある人がすごい多い。それをどうやったら次の世代に繋げられるんだろうかと考えている。

屋久島は確かに巡りがわかりやすい。長野だとでかすぎちゃって、多分北 アルプスが源流なのだろうけど、川が今の自分の地域に流れてて、それが下って多分名古屋とか、もしくは新潟の方に流れてくみたいな感じで川の流れが大きすぎて、そこの繋がりが見えづらい。


移住の方と地元の人は考え方が違うか。行き違いは起こらないのか。

外から来た人がああだこうだ言うと、いやいや、ずっと守ってきたのかなってなる。そこのバランスがすごい難しい。

20年住んでもそこの人だと思ってくれないか。3代住まないといけない。

一応観光で成り立ってるから、 ほかの田舎よりは人慣れしている。ただ、地元の人からすると、山岳信仰していて、昔から春と秋の2回、 町から山に登って、山の神様にお祈りするけど、いっぱい人が来て荒らしてというのはいい気がしないと思う。

それは案内する側の、その間を繋ぐ側がそこの経緯をちゃんと知って、そういう大事な場所ということを伝えることが必要。

山でも事故があるし、海でも事故があるけれど、地元の人からすると、海で事故にあったって聞くと可哀そうだねって言うけど、山で事故にあったら、そりゃそうだ、神の域に行ったのが悪いとなる、 それぐらいこう、染みついている。


山岳信仰はどうやって起こるのか

イースター島は森があったけれども、人間が伐採しすぎて、 で木がなくなって、人口の9割が減ったという場所なんですけど、そういう信仰があれば、そういうことにならなかったのかなと思う。

日本は結構アニミズムみたいなのは割と一般的な感じがするんですけど、世界的に見るとそうでもないのかな。なんでそれが最初にこう染み付いたのかなというのは疑問。

先住民族は持っていたのではないかな、アボリジニーの人とか。西洋の植民地になったとこは、失われているかも。日本は植民地の歴史がない。自然と関わって生きてたらそこに神を見いだすのは割と自然なことだと思う。

イースター島もチリから人がいってそうなったのでは。根ざしていた人が必ずいたはずで、その人たちが守り手だったんだけど、そこの土地に根ざしていない人が結局荒らしてしまう。

学校の部室が新入生に荒らされるのと一緒だと思う。いやいや、先輩が守ってきたんだよ。数日しかいないじゃん。みたいなのと多分一緒だと思う。やっぱりその部室を守ってきてくれた人への敬意がないといけないと思うし、そこを理解していく必要がある。

土地に根ざすということは外せない要件だなっていうか。下手にこう外部からこうした方がいいとか言い出すと、そこにある、目に見えないつながりとかを崩してしまう可能性がありそうだなっていうのを思いましたね。

結局、外からこうした方がいいと言って、それをするのは誰となったら、それをする人の意思が尊重されてないといけない。けれど、逆に外の人ができることもある。

中の人だけだと言いづらいと思っていた言い出しにくいことを外の人は言うことができる。中の人はそれを言ってしまってもその先もここで生きていかないといけないが、外の人は言って嫌われて帰ることができる。

その時は嫌われるかもしれないけど、ほんとに必要だなと思ったら外の人がそういう役目を負うことができる。


対話の可能性

この世の多くの人は、自分が本当に何をしたいかとか、何が大事かよくわかってないで突き進んでるが故に困ってることが多いなって。自分も含めて。

頭で考えるいいことではなくて、心や体が喜ぶいいことっていうのは、ほんとに追求していったら、多分自然の一部として人間に戻れると思っている。

NVCというのは、相手を評価したり決めつけたりするのではなく、「自分が抱いている感情」や「自分が必要としていること」に耳を傾け、それを肯定的な言葉で相手に伝えることで人生をより豊かなものにする方法で、感情は大事にしたいことを教えてくれる。ポジティブな感情になるってことは、何がきっかけなのかなど。

既存の社会システムの中で回ってると、感覚とか感情を置き去りにして、でも目標はこうだからとか、こうするべきだしという形でエネルギーが流れる。なんか違和感があったり、なんか違うなって思って立ち止まることで、ほんとはもっとこういう方がいいんだと立ち止まることができる。

例えば残業が多くて、その社会システム上、もうそこから抜け出せないよってなってるけど、多分全員嫌だと思って。いやだと思ってるのは、人間としての健やかさとかがどう考えても欠如しているからで、 もし、みんながそうだよねってなったら、それを改善するためにはどうしたらいいんだろうって本気になれるんだけど、なんか、嫌だと思ってはいけないとか、働くのが良いとか、だって働かないと終わらないじゃん、要領が悪いやつがいけないとか、なんかいろんなことを言ってると、そこにはたどり着くことができない。

人が長く働くから環境が悪くなると思っている。人がどこからエネルギーを得てるかというと巡り巡って自然から得ている。電気もそうだし、 食べ物もそうだし、便利にするために使ってるものも全部自然資源が由来。

本来の人間らしくある仕事だったら多分そんなに食べる必要はない。働きすぎたり刺激が強すぎるからいっぱい食べないと満腹にならないみたいになってしまう。本来の人間の感覚だったら1日3食は多いって言われていて、今それ以上に働いてるからいっぱい食べなきゃいけなくて。だから効率よく生産し、いっぱい食べないと足りないから、そのために機械化していっぱい作れるようにして。みたいなことが起こっている。

多分、人間が働かなくなったら搾取する分も減っていくかなと思っていて。ペースをスローダウンしていく時に最初のきっかけになるのが、自分の感覚かなと思っている。

今から残業しないでとか言っても、はあってなるけれど、あなた疲れてるよね。嫌だって思っているよね。ちょっとやめてみない。だったら立ち止まることができるかもしれない。

そういうプロセスを踏んで、人間が人間の体にも無理ない状態に戻っていった時に 初めて自然にもいい、ちょうどいい負荷になるんじゃないかなと思っている。

人間にとって心地いい状態が、実は自然にとっても心地いい状態に繋がってくるということだよね

頭で楽したいとかではなくてほんとに心地いい状態。多分1ヶ月楽して何もしない生活をしていたら、 なんで生きてるんだろうってなる。人は何か役割を持って生まれてきているから、なんでこんなことしてんだろうとなる。

現代はできれば楽したいみたいな思想が多いけれど、楽してても幸せではない。

人間はほんとに幸福を得る心地いい状態の時の要素として絶対自然って入ってくる気がしている。それをほんとに獲得しようと思ったら、自ずと自然を守ること、関わることにつながって、 そのように自然に関わるということが、結果として生態系のバランスの中で人間がすべき役割を勝手に果たしていくっていうことになるんじゃないかなと思っている。


対話の好事例として公共事業的に除草剤を巻こうという話があった。一時期その話があった時に、その集落でエコビレッジをやってる人がやめてほしいって言って。いや、でも草を刈る人手がいないし、生えてきたら危ないし、だから除草剤を巻きたいと 話していた。

除草剤がいい悪いの話をしていたら喧嘩になったんだけど、人手がいなくて困っているから除草剤を撒きたい、じゃあ私たちがやればいいんだということになって、除草剤を撒いてほしくない人でチームを組んで草を刈った。

除草剤を撒くことで作業を減らすか、除草剤を巻かないことで作業するか、2択なんだよ。作業もしたくない、除草剤もまかないという選択肢はなくてお互いが歩みよって着地点を見つけられた好事例。


自分の感情と向き合うこと

自分の感情と向き合うことって、日常生活にない。

この体が1番身近にある自然だから、それが発してるサインは意外と当たってる。

そういう意味では、今のSDGsとかは真逆だと思う。人間が作った目標に対して、猛烈に頑張らせる。みんなで協力して、体を犠牲にして頑張って、実際持続可能な社会を考える上で最初にすべきことは、あなた元気ですか。ということ。

海外で、それこそSDGs推進で著名な方が屋久島にきた。数字上でどうしたら良い地球かっていうことは言えるし、書けるんだけど、良い地球が何かをイメージしたことがない。
それで森に案内した時に、 本当に心地いいってこういうことなんですねって言った。私からすると、それなしによくそんなに頑張れたという感じ。


都市はすごくデザインされて作っているけれど、人間がお互いにコントロールしようとして、それに疲れている。

地球の大きな歴史の中で、あんまり不要なものって生まれてないから、都市にも何か役割があって、 何か生み出す必要があって生まれてきてると思う。ただ、違和感を感じる人が多くなってきてるんだとしたら、その都市の機能は終わってるってことだから、次に移行しないといけない。

都市の機能としてあるのは、やっぱり人が集まることによって創造性が高まること。人工密度が高まるほど特許の生産は増えるし。でも同時にエイズとか感染症の患者数も増える。

止め方をわきまえる、これはもう役割終わったんだなっていう感覚が大事。

多分みんな違和感を感じていて、ただ、電車はもう走ってて、 なんか違和感は感じてるけど、もう途中下車できない状態になってるんだろうなと思う。

途中下車できないとみんなが思ってる。でも、みんなが、ちょっとここで止めてくださいって言ったら、電車止まるじゃん。非常停止ボタン押せばいい。でもみんなそれはできないと思い込んでいる


社会の進化は生産性をいかに向上させるかっていうところにこれまで重きを置いていて、それによって技術も発展してきたし、街も先進的になってきたと思うんですけど、スマートシティとか世界各国で割とそういうプロジェクト立ち上がってるんですけど、あんまりうまくいって。で、それはそこに理由があるんじゃないかなと思って。というのは、 人の繋がりとか、人の感情とか感覚とかっていうのをあんまり意識せずに、テクノロジーとか町のデザインとか、そっちありきで進めてしまったがために、本質的にはやっぱ人の心地がいい街じゃなくなってきている。

それはそのスマートシティだけじゃなくて、他も結構いろんな事例があると思うんですけど、大切なのはその人間の感覚というか感情なんじゃないかなって思います。


自分の心地よいってどうやってわかるのか

水泳でどうやって筋肉を動かしたら泳げるってわかるんですか。って聞かれているようなものでなかなか説明できない。身体知って呼ばれるもの。

どれが心地いいなのかって聞かれても、私のこれが心地いいなっていうのと多分違うから、それは、屋久島みたいな自然に触れたりだとか、自分の感覚に向き合うみたいなことをするしかない。

走るのが速い人にどうやって足を動かしてるんですか。とか聞いても上手くならないと感じと一緒かも。1回この感覚なんだなって体感したら、体は結構覚えているし、 多分別に忘れているだけで心地いいを体験したことがないわけじゃないと思う。赤ちゃんの時に子宮の中にいる時って多分すごい安全で心地よかったはず。

遺伝子レベルでは、多分昔からの記憶が受け継がれてて、昔の生活に近づければ、結構取り戻せるんじゃないかと思う。

日の光で起きて、暗くなったら寝るとかしたら、なんか変わる気がするんだよ。

朝起きて、日の光を10分浴びるとかでも全然違う。ずっと建物の中にいると気温も、風景も変わらないので感覚が研ぎ澄まされない。


仕方がないを請け負うこと

これは環境再生の 人が映画の中で言った言葉なんだけど、自然界に全てが満たされてる存在っていない。みんななんとなくちょっとどこか仕方がないか思いながら生きてるんだけど、仕方がないかを全員が請け負うことによって、全員が辛くない状況が生まれてる。

1つの種だけが全てが満たされるってことはなくて、みんなちょっとずつ仕方がないかを背負いながらやっている。昔の地域の結いも多分そうだったんじゃないかなと思っていて、毎年、 今年はこの家の修繕をしましょう、来年家の修繕をしましょうって。

今の感覚でいたら、なんでやねん。なんで隣の人の修繕をうちがしなきゃいけない。ってなるけれど、仕方がないから、大事なことだし。そうやっていくことによって、10年後、自分の家をみんなで修繕してもらえる。

それが多分、資本主義になっていくにつれて、その仕方がない嫌な部分を切り取ってお金に変える、行政に任せる、全部丸投げみたいな感じになってるから、その仕方がないやを負うことに対して、嫌なことっていう印象が強い。

その仕方がないやを自分が引き受けるから、その繋がりの中に存在できるということもあるんだけど、そこの感覚が、ずっと都市暮らしだと欠如するけど、 地域の暮らしにちょっと足を踏み入れると、それはすごいあるなと思う。

奉仕作業とか、日曜日の朝6時半から全員で草刈りするんけど、マジなんでやねん。ってか、 もうお金払うからやってくれよって思うんだけど、でも、それをやることで、地域の人に顔を覚えられて、またきなさいねとか言ってもらえる。その瞬間は嫌だけれどね。

そういうことがあるということを私は知らなかったし、知らない人が多いんだと。

不快感っていうものについて深く考えるってのはすごい大事。不快なものから絶対に逃げられなくて、でも、だからどの不快感を選んで生きていくのかかと。


この間マリ共和国の話を聞いたんですけど、日本に来て結構びっくりしたことの1つがそれで、迷惑をかけちゃいけないっていう、空気感みたいなのがなんでこんなに強いんだろうって。

マリはみんなもう迷惑かけながら生きているのが当たり前で、 見返りはあんまり期待してない長期の貸しを作るというコミュニケーション。そうやってみんなが一緒に暮らしているっていうのがあるから、すごい気軽に、助けてとか手伝ってとか言える。

やっぱお金をはさんじゃうと、なかなか助けてって言いづらくなる。金で解決できるじゃんという感じになってしまう。

本当は、隣の人の家に行って、具合が悪いから車出してくれないかみたいなことができたら、救急車待つより早いかもしれない。

公助じゃなくて共助感覚を もつことが大事かも。

ちょっと人口が増えたというのもあると思う。人間としてコミュニティの意識を保てる人数決まっていて、150とか。150人まではあの人は何々をしてくれる人、この人は何々をしてくれる人、この人に何をしてもらったってわかるんだけど、それを超えた瞬間に誰が何しているかわかんなくなってくる。

そういう時に、誰が何したのかがわかる方法としてお金がよく機能してた。お金がなかったら150人ぐらいまでとしか コミュニティは作れない。

そういう意味では、それができるようにテクノロジーを使うのだと思う。


長野の泰阜村では、20人ぐらいの子供が1年間山村留学できる。ご飯作りもお風呂も全部自分たちでやる。お風呂もあえて薪で炊くようにしていて、その1個のお風呂を20人でシェアする。

もうちょっと増やしたりとか、機械でできるようにしたらもっと便利じゃんって言われるんだけど、あえて不便な状態にしている。なんでかって言うと、不便であることによって、人のコミュニケーションが生まれ、 今日誰がやるの。とか、ちょっと今できない。じゃあやっとくよとか、お風呂入った後も、次の人が使った時に気持ちいいようにっていう風呂掃除をちゃんとしてから出るとか、次入ってっていう声かけをする。

これがもしすごい便利になってて、1人1つシャワーがあったら、そのやり取りって生まれなくて、そのやり取りから学べることがいっぱいあるから、あえて区別してる。

所有し切らないことで生まれるコミュニケーションがあるね。それが次のテーマなのかな。めんどくさいけどね。

仕方なさを需要する力がやっぱ弱まってるよね。便利な社会だから。


仕方なさはなんか大企業で結構よく、残業もお金もらえる、なんかみんなやってるから仕方ないか。みたいな。仕方ないっていうワードはよく聞くけど、なんか仕方ないの定義が違うような気がした。

なんかやりたいことなくてもお給料もらえるから仕方なくやるかみたいな、そういうニュアンスで聞くことはすごく多かった。

誰かの顔があるという仕方がないかもしれない。はあ、めんどくせえ。この掃除すんの。でも次の人が入った時にこういう顔をしてほしいから、仕方ないと請け負う。


人の役割

アフリカのある村で、そこは自然と調和した暮らしがある。その村の人は生き物にはそれぞれ役割があると言っていて人間の本来の役割ってなんなんですか。って聞いた時に、花がどんなに美しいものを 咲かせても、植物がどんなに美しくなろうとも、それを見てあなた素敵だねって言ってくれる人がいないとやりがいがないと。

それをするのが人間だっていう風に言っていたという話があって、それはすごく面白い。

花はさ、綺麗じゃん。ほんとに。でもさ、別にあれを見て綺麗だなって思ってくれるのに人間ぐらいで、他はおいしい蜜をご馳走になるぜ。みたいにしか思っていない。創意工夫をして、その形作ってる生き物たちに対して、目を向けて、それに愛を注ぐ、素敵だねっていうメッセージを送るっていうことが人間がする役割という話があって、私はそれを信じている。


実際に起こったことなんだけど、竹藪のところに向けて窓を作っていて、その窓から、ずっと景色を眺めていたら、その竹藪が枯れていって消えたの。

目を向けられるということによって起こす影響があるんじゃないかって。これは量子力学の話になるんだけど、それは実際に言われてて、その人が見てる時と見てない時で光の動きが違うっていうのは言われてる。
で、それがそこでも起こっていたんじゃないかっていう話をしていて、その話はだいぶ面白かった。

多分、見ているから気になってちょっと出かけて見に行ったりとかそういうことも含まれていると思うんだけど、でも、意識を向けるっていうことでそれぐらい変わる風景が変わる。

ずっと見られてこなかったから鬱蒼としていって、その陰の気が溜まってたと思うんだけど、そうやって、窓をわざわざつけてもらって飾られたら美しく見せようみたいな。何か美しくしてなってほしいというメッセージが送られて、そういうことが起こった。


まとめ

かなり重要なメッセージが散りばめられていたように思います。私にとって心地よい状態が自然にとっても心地よい状態に繋がってくるというのは、かなりヒントになるメッセージだと思います。

少し話を広げるとウェルビーイングの議論でも「わたし」が一人で作り出すものではなく、「わたしたち」が共に作りあうものとされてきています。

「わたしたち」というのが非常に大きなポイントになる気がします。内なる自分に気づくこと。それは、巡り巡る自然とのつながり、宇宙との一体感に繋がるかもしれないし、もっと身近な自分の感情や、腸内細菌との共生の意識から始まるかもしれません。

私は「私たち」だった。その意識がこの社会を変えていく大きな原動力になるように思っています。

いつも記事をご覧いただきありがとうございます。感想を頂けたらそれが一番の応援になります。 本を買ってくれたら跳んで喜びます🙏https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/210YM6JJDGU2A?ref_=wl_share