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福島から考える現代社会(震災を振り返って)

今から9年前の2011年3月11日、東日本大震災が起きた。

東北地方太平洋沖地震およびこれに伴う福島第一原子力発電所事故による災害を総省して、東日本大震災、3.11などと呼ばれてきた。

当時13歳、長野県に住んでいた私でもただ事ではないと感じさせるほど大きな地震だった。

地震から約1時間後に遡上高14 - 15 mの津波に襲われた東京電力福島第一原子力発電所は、1 - 5号機で全交流電源を喪失した。原子炉を冷却できなくなり、1号炉・2号炉・3号炉で炉心溶融(メルトダウン)が発生。大量の放射性物質の漏洩を伴う重大な原子力事故に発展した(→福島第一原子力発電所事故)。

この事故は国際原子力事象評価尺度で最悪のレベル7、チェルノブイリ原子力発電所事故と同等に位置づけられている。同原発の立地する福島県浜通り地方を中心に、周辺一帯の福島県住民の避難は長期化するとともに、2012年からは「帰還困難区域」「居住制限区域」も設定された(→福島第一原子力発電所事故の影響)。そのほか、火力発電所などでも損害が出たため、東京電力の管轄する関東地方は深刻な電力不足に陥り、震災直後の一時期には日本国内では65年ぶりに計画停電が実施された。計画停電は東北電力管内でも震災直後に実施されたほか、翌2012年の夏前には関西電力管内でも大飯発電所(大飯原発)の再稼働を巡って論議が起き、計画停電の可能性が議論された。 (Wikipedia)

私自身、大学で仙台に来て以来、この3.11が来るたびにいろいろ考えることがある。中には津波で大きな被害を受けた友達もいる。

エネルギー問題に携わる人間として、原子力発電とは避けることのできない大きなテーマです。そんな中、様々なご縁をいただき福島には3回ほど視察で訪れ、事故の起きた第一原発、ギリギリで事故を免れた第二原発、復興に向けて努力している近所の住民たちの話を聞いてきた。

これまでの視察報告をまとめながら話を整理し、ちょうどFukushima50という映画も上映されているが、震災から9年経つ今、改めてこの震災を振り返り未来への教訓としていきたい。

目次
・福島の現状
・福島原発の課題
・福島から見たエネルギー問題
・福島から見た国の在り方
・最後に

福島の現状

放射線についてのおさらい

線量によって重症度は変わりますが、がんや遺伝的影響は、線量を下げても発生する可能性がゼロになることはありません。しかし、がんに関しては、100ミリシーベルト以下では、自然に発生するがんと区別できないといわれています。

そこで、できるだけ被ばく線量を下げるために、職業として放射線を扱う人は1年間で50ミリシーベルト以下、5年間で100ミリシーベルト以下、一般の人は1年間で1ミリシーベルト以下と線量限度が法律で定められています。 

基本的に安全基準の1/100に抑えられるように法律が設計されてるわけですね。

帰還困難区域の現状

福島第一原発の事故により、多くの人が避難を余儀なくされ、故郷から離れることになりました。

以前より帰宅困難区域は減ってきましたが、未だに大きくその被災の影は残っています。

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以下のサイトから福島の現状を理解するには非常に役立つので興味あればご参照ください。

福島原発の現状

福島第一原発を襲った津波は未曽有の大事故として認識されました。

福島第一原子力発電所の概要
詳細はこちらのサイトが多少分かりやすかったので、よろしければごらんください。
すごく簡単に言うと想定外の津波により、原発の下部6Mほどが浸水。外部電源、非常用電源ともに消失。電源消失により核燃料の冷却ができず、冷却水が蒸発し核が解け落ちる(メルトダウン)。蒸発した水は水素となり水素爆発。むき出しになった核燃料は世界中に放射線をばらまいた。

その中で現在、廃炉に向けて大きく問題とされているのが3つ。①デブリの取り出し方法と時期、②増え続ける汚染水への対策、③作業環境のさらなる充実。

課題

①デブリの取り出し方法と時期
デブリとは解け落ちた核燃料のことを指しているが、驚くべきことは全くといっていいほどこのデブリの取り出しが進んでいないということだ。
人が近づける環境でないためロボットによる取り出しを進めているが、あまりに高密度な放射線により、機械ですら壊してしまうようだ。現在は最新の技術を取り入れながら、デブリを掴むことができる段階に移りつつある。

②増え続ける汚染水への対策
これは実際に行くと非常に驚くと思いますが、10mほどある大きなタンクが約1000基ほどあり、福島第一原子力発電所の面積の大部分を占めています。技術の進歩により多くの放射線物質を取り除くことができていますが、トリチウム(水素の一種みたいなやつ)が取り除けないために大きな問題となっています。
これらの保管の限度もあり、汚染水を増やさないこと、汚染水の処理が緊急の課題となっています。

③作業環境のさらなる充実
原発事故当初は本当に劣悪な作業環境だったそうです。放射線が巻き散っている中、命のリスクを背負い、厳重な防護服を装備し、物資も限られている中で、早急な対応に追われていたようです。
現在はこの後詳しく述べますが、給食センターや作業環境の充実のための工事などでだいぶ環境は改善されたようです。
事故当時の作業員たちは”英雄”と呼ばれ、クローズアップ現代でも取り上げられています。

感想

実際に中に入った印象なども少しまとめておきます。
原発はさすがにテロなどの対策もあるため、非常に厳しいセキュリティーでした。ここでは総理大臣でさえ、パスポートや運転免許証などの身分証明ができないと一切中に入れないようです。
当然、撮影も禁止で一部の許可されたカメラだけが中の一部を撮影できるようでした。

入った最初の印象はきれい!広い!海だ!の3拍子です。
作業環境充実のため震災後に新たに作られた施設は、新築ということもあり何も知らずに行けばただのきれいな事務所。震災の影を感じられないほどでした。
そして福島第一原発はすごく広いです。実際に発電している場所は面積のごく一部で、多くは汚染水の保管所になっています。もちろん、それ以外にも廃棄物関連の施設やALPSなどの施設もあり、広大な面積を有しているのがこの福島第一原発です。
そして、本当に驚いたのですが海がすぐ目の前にあるんです。これで津波の影響を考えられなかったなんていう言い訳が効くのかよという感じ。海が近いというより海に接しているの方が正しい表現ですね。正直信じられないです。

なぜ津波のリスクを有しながらも海側で発電しなければならなかったのか。
これは割と単純な話で、冷却水の問題があります。火力発電でも、原子力発電でも海側というのは水を有効に使えるという大きなメリットがあります。確かに世界的に見ても日本国内でみても多くの発電所は海側に建てられています。もちろん貿易的なメリットもあるのでしょうが、冷却水の確保に最も海が都合が良かったようです。
それにしても…と思う点もありますが、安全性より経済性に目が向いてしまうのが、現代資本主義の問題点かもしれません。 

社員食堂

ここでは380円という安価な価格で毎日5種類から選ぶことができます。それもほとんどを福島県産で作っているそうです。そのため社員さんもお昼の時間になるとウキウキした顔で食事を取っている様子が伺えます。
実は震災直後はこのようなシステムはなく、多くの従業員は遠くのコンビニで冷たいご飯を買い、階段でぐったりしながら食事を取っていたようです。

労働環境改善という点で富岡にある給食センターの功績は計りしれないです。
震災の影響で周りには物資も少なく、ほとんどの住民は戻らない中、作業員の人たちが少しでも気持ちよく働けるようにとできたこの給食センター。
働き場がなくなった住民の雇用や労働環境の改善に大きく貢献し、この例を一つ見るだけでも福島の廃炉には多くの人の支えがあって初めて成り立っていることが分かります。
ちなみに給食センターもですが、福島のご飯はめちゃくちゃ美味しいです。地元の愛が込められた食事はやはり何にも代えがたいですね!

その後事故現場の目の前まで視察してきました。もちろん、厳しい身体検査や放射線測定などを受け、安全性は最大限考慮した上での見学でした。
驚くことに本当に原発の目の前まで来れたのですが、実は数分程度であればマスク、ヘルメット、軍手程度の軽装備でもいけるんですね!
これは拡散した放射性物質を最大限除去し、コンクリートで放射線を遮断した結果です。確かに、発電所内はコンクリートで囲まれた建物でほとんどできていました。
実際に目の前に来ると言葉が出ない。ここで事故が起きたのか。水素爆発の影響で天井や壁は吹き飛び、その痕跡は震災当時と変わらない。そしてこれが日本中を混乱や不安を導き、震災関連死という形で多くの犠牲者を出していること。これらのことを考えると非常に心が痛みました。

これらの見学で被ばく量がどれくらいかというとどこまで公表していいのか分からないから少しあやふやに言うんですが、ある場所までの飛行機往復分程度の被ばく量だそうです。レントゲンとかとあんまり変わんないですね。体調に異変があるとかそういうのは全くないです。

福島第二原発(2F)

2Fは現在、冷温停止状態が続き、すでに廃炉が決まっています。
ここも津波の被害を受けましたが、作業員の懸命な働きにより、なんとか水素爆発を避けることに成功しました。そこには多くのドラマがあります。 

第二原発、そしてその周辺地域の様子に伺う機会がありました。そのときの様子を共有します。

周辺地域(飯舘村、南相馬市、浪江請戸地区)

第二原発に訪れる前にいくつかの施設や人にお話を伺うことができました。特に被災されたときに大きな役割を果たしたみなさんです。

飯舘村の村会議員(佐藤さん)
以前も飯舘村にお伺いしたことがありますが、今回道の駅で村会議員の佐藤さんという方にお話を伺うことができました。
飯舘村は原発から約30㎞離れ、全村避難になった地域です。震災直後は国や県からの指示がなく、高い放射線量の中約1か月間、近くの避難民を受け入れながら暮らしてきた地域です。

それが、突然避難地域となり、それは住民のショックはひどかったと思います。
もともとは6500人程度の村でしたが、現在は1300人ほどが戻ってきています。
私が一度訪れたときは約1年前で800人程度が帰村していましたのでそこから500人増えてきたと思うと、少し復興が進んだと思い安心した部分もありました。
村の中心は福祉施設や教育施設が立ち並び、この村がいかに村民を大切にしてきたかが伝わってきました。

現在の課題は放棄された農地の活用法と、若者の確保だそうです。
特に小学生などは福島市やその他の市から通う子も多いらしく、若者の里戻りが進むかどうかは重要なカギだそうです。
村会議員の佐藤さんは非常に強い想いで、飯舘村の復興を支えてきており、地元への愛を感じました。

南相馬(絆診療所)
南相馬市鹿島区の絆診療所。院長の遠藤清次先生は診察中でしたが、事務長の鶴島さんと管理栄養士の鶴島さんにお話しを伺いました。
事務長の鶴島さんは震災時、福島第1原子力発電所で働いており、当時の様子をお伺いしました。
印象的だったのは、原発神話です。原子力発電に関して町の大きな雇用としての役割を果たし、安心安全を信じきっていました。今でも町を訪れればどれだけ原子力が町を支えていたかがわかります。

鶴島さんは技術的なことも理解した上で安全だと考え働いていたようです。当時から安全性には十分に配慮した施策がほどこされ、3段階の安全性を保っていたようです。
やはり、働いている本人らも想定外だったらしく、今考えれば危険だったと思うが、当時は事故が起こると夢にも思わなかったようです。
原発に対しては一瞬の出来事で町を失い恐怖を感じるが、日本のエネルギー事情を考えると再稼働などはやむを得ないのかもしれない、しかし核の廃棄物の処理が決まらないのに進めていいことではないとおっしゃっていました。
事故で本当に大変な思いをしながらも、当時の様子を教えていただき、復興のために尽力しており大変刺激を受けました。

管理栄養士の鶴島さんからは、入院患者の対応から避難の状況をお話しいただきました。
当時、ご年配のための食事として流動食を大量に病院で購入していたようです。その流動食が保存食として大きな役割を持ったようです。
特に普通の食ではのどが通らない人たちへ大きな役割をはたしたそうです。

絆診療所は日本で最も大きかった仮設住宅に、現在の院長が私財をもって建てた診療所だったそうです。特に仮設住宅ではストレスなども多く、周りは十分な医療も受けられない中、この診療所が果たした役割は想像もつきません。
このような地域に貢献する人たちがいて初めて復興が進むということを忘れてはならないと強く感じました。

請戸地区の小学校
請戸地区は福島でも津波の被害の大きかった場所です。請戸小学校の時計は、大津波が襲った3時38分で止まっていました。津波の様子が鮮明に浮かんできた瞬間でした。
実はこの小学校は全員避難ができ、一人も死者を出しませんでした。地震が起きた瞬間は津波が2~3m程度の予想で校長は屋上避難の指示を出していたようです。しかし、近くにいた漁師が潮の引きかたに尋常じゃなさを感じ、小学生を高台まで全員避難させました。
請戸小学校だけでなく、各自治体や施設、人にいろんなドラマがあるのでしょう。しかし、この救出劇は地域に強いつながりがあったから生まれた物語でしょう。津波の危険性もですが、地域そのものの在り方を考えさせられます。

福島第二原発

2Fは1Fよりも断然規模の大きい発電所です。もし、2Fが爆発していたら、仙台もなくなっているだろうと言われるくらい大きな発電所でした。
この2Fも原子炉の完全停止には成功しましたが、津波により冷却水の機能が停止しました。

冷却水を動かすための電源を引かないと1Fと同じような事故(それより悲惨なもの)が起こるということで、作業員が必死になって電源を引きました。本来なら30日かかると言われる作業をなんと30時間でこなし、冷却機能の回復に成功しました。

2Fは約8割が地元の作業員でしたから当然作業している人の中には、ご家族が津波に流された方もいます。遺族、避難者、事故を起こした会社の社員という3つの立場の中で大きな葛藤がありながら事故を防ぐことができたのです。

実際に現場に訪れると津波の被害を受けた機器や作業の後が残っているところもあり、このドラマの大きさを感じました。

今回、実際に原子炉格納容器の中に入らせていただき、1Fで感じることのできなかった廃炉の様子を感覚値で理解することができました。特に格納容器はスペース自体も広くなく、その中でデブリが発生し、その処理の大変さなどは容易に想像ができました。

廃炉処分に関しては、決まったものの処分したものをどこで処理するのか、どの程度時間がかかって、どのように作業員を確保するのかなどまだまだ決まっていないのが現状のようです。問題を深く認識し、適切かつ素早い行動が求められているのは間違いありません。


福島から見たエネルギー問題

ここからは事実から考察をしていきます。

原発が必用な社会

現状として、福島第一原発、第二原発は廃炉となり、その不足分は火力発電で補われています。近年では、CO2の排出に制限をかけるパリ協定というものが発行され、火力発電が世界から強い批判を受けています。

そもそも、福島原発は東電の管轄なので東京にいる人が使う電気を福島で発電し、そのリスクを福島が負うという構造になっていました。

原発周辺地域にはアトム(原子)という名前のお店も見受けられました。どれだけ地域に密着していたのかが分かります。それはもちろん補助金などもあり、多くの雇用を生み、経済が回っていたということでもあります。多くの地域は原発があるからこそ成り立っていたのです。

ついつい原発は必要、いらないの二元論になりがちですが、地域との強い密着があることを忘れてはいけません。当然原発立地地域にも原発賛成の方は多くいらっしゃいますし、そうではない方もいらっしゃいます。

ここで問題になるのは、原発がなければ成り立たない地域ができてしまったことではないでしょうか?

原発が立つ助成金で地域の経済が回る。原発がなければ生きていけない。原発はできればあってほしくないけど、仕方がない。これは正常な状態と言えるのでしょうか?

原発の賛否

二度と福島のような事故を起こしてはならない。これは誰しもが共通の見解であると思います。我々はこの事故を通して何を学ぶのか。
それは原発をこの世から失くすことなのか。はたまた、絶対に事故を起こさないような原発を作ることなのか。事故が起きても安全に対処できる基準を作ることなのか。
原発の賛否だけを議論しているうちは表面的な意見の飛び交いで終わってしまうと思います。
国は最近原発を2030年までのベースロード電源にすると発表しましたが、福島事故を受けてどのような対処をしていくのか。
安全性、経済性、地域のあり方、倫理感、技術的問題、社会からの圧力。いろいろな問題が複雑に絡まって生まれているエネルギー問題ですが、一つ一つの問題を真剣に受け止め、理解することが求められています。

新しいエネルギーの形

このような現状から脱却すべく、福島ではいわゆる地域電力が生まれています。その一つが飯舘電力。

飯舘村は原発の影響で全村避難になった村です。今でも帰還困難区域に指定されているような地域です。
実際に生で見てみると村の現状は悲惨でした。溢れる汚染土の山、中途半端な除染、除染土を削った分削り取った山のあと、不自然に手入れされた土地、大企業が安く買った土地で作ったメガソーラー。
まるで、復興は終わった過去のような雰囲気がありますが、この地域ではようやく復興が始まったばかりです。

それでも、なんとか復興しないと!と立ち上がったのが飯館電力です。
飯館電力は太陽光発電を中心として、ソーラーシェアリング、バイオマスなどで地域が循環するような社会をつくろうとしています。
飯舘電力設立にもいろいろなドラマがあり、本当に多くの人、そして市民の援助があって成り立っている電力会社なのです。

今では地域の電力を100%賄いながら、農業や畜産にも手をかけています。

そんな飯舘電力の最終ゴールは飯舘牛の復活だそうです。
地域で循環した資源や農作物を使い、飯舘がブランドとして残るための努力が今も続いています。

地域が地域のために地域の資源を使う。これが21世紀に生きる我々に生きるヒントを与えてくれるような気がします。


福島から見た国の在り方

車に乗りながら、山奥を進んでいくとだんだんと外の風景に異変を感じてきます。荒れ果てた農地、不自然に整備された土地、ボロボロの家屋、フレコンバックの山(汚染土を包んだシートのこと)。浪江町という小さな町は近年、汚染土を除去し、放射線の状況も改善されたために帰還困難区域から一部解除され少しずつではありますが住民も戻りつつあります。しかし、その割合は数%。同様の状況に置かれていた飯館村は1万人もいかないような小さな村だったそうですが、未だ帰ってきた住民は600人程度だそうです…

この状況は復興とは何か、ひいては近年問題視されている過疎化や豊かさにもつながる話になってきます。

復興の形

復旧は進んだ、復興からはまだ程遠い。これが今福島含めた被災地に置かれた現状なのではないでしょうか。

そう復旧は進んだ。道路は整備され、電気や水道も通り、がれきも片付いている。それでは復興とはなんなんだろうか?

時間の喪失と故郷を失う痛み。

奧に向かう。浪江町の途中からまた、町の雰囲気がガラッと変わってきます。私が感じたのはより山奥に入ったなという感覚です。
実はこれは半分正しくて、半分間違っています。
帰還困難区域の地域です。

入るときに鉄門をくぐり抜けるものだと私は思っていたのですが、工事車両などの都合により、大きな道には鉄門などの仕切りがありません。当然、許可車両しか交通はできませんが。
ちなみに帰還困難区域の定義は年間50ミリシーベルトを超える放射線量かどうかということです。
私の違和感というと、若干正しかったようです。山奥なのは事実なのですが、それまで田んぼが多くあったのが急に森になったということです。
それは何を意味するのか。

震災から過ぎ去った日々、この時間は田んぼを森に変えるには十分な時間だったようです。
田んぼの見る影はなく、森と震災で倒れた家屋だけが残る時間の止まった地域それが帰還困難地域です。
特に印象的だったのは富岡中学校の校舎です。3月11日は卒業式だったのか卒業式の様子のまま、避難所として機能し、ベッドや支援物資などがそのままの様子で残っています。

福島は被災三県(岩手、宮城、福島)の中で最も震災関連死が多い県でもあります。その中でもお年寄りの自殺が非常に多いようです。
それはやはり原発事故の影響が大きいようです。原発事故により、帰宅困難に陥った人々は仮設住宅や、復興住宅のような画一的な家に住まされました。
現場を覗くとわかりますが、原発周辺地域の人たちは立派な家や広大な土地を持つ人たちが多く、4畳しかないような狭い仮設住宅とは無縁の世界だったそうです。
これまで大事にしてきた故郷の消失、これまで築き上げてきたコミュニティの喪失。これは想像以上に重たいものです。
時間の喪失。これが事故の悲惨さをこれ以上なく的確に私たちにのしかかってきました。

帰還困難区域から気づけること

以上のように原発事故は大きな影響を及ぼしました。しかし、これははたして原発のせいだけなのでしょうか?

ほとんどの地方では、共通の課題を抱えています。過疎化、少子高齢化、医療やインフラの不整備などなど…

跡継ぎがいない農家はどんどん耕作地を破棄し、耕作放棄地がますます増えています。

これはまさに帰宅困難地域の実情です。原発事故は地方の課題をより浮彫にしたにすぎません。

福島を考えることは国の未来を考えることだ

福島の現状は地方の課題を10年進めたと捉えることもできます。過去の出来事を変えることはできませんが、今の生き方を変えることはできます。

また、エネルギー問題でも述べたように原発の在り方を考えることは国がどのように産業を進めていくか。そのものを考えることに等しいです。

今私たちは福島から何を学び、何をすべきなのでしょうか?

①放射線教育の重要性

放射線って目に見えないから必要以上にビビッてしまうんだけど、実際は身近にあるものだし、そこまでビビる必要はないんだよね。だけど、福島の事故を通して国や東電の信用がどん底まで落ちてしまい、学者も意見が分かれ、私たちは何を信用していいか分からなくなってしまった。

結局ツイッターやフェイスブックのようなSNSで流れるような情報に頼るしかなく、すごくあやふやな情報しか掴めなくなってしまった。

結局のところ、信じるものは私たち自身でしか決めるしかないが、それでも正しく福島事故を理解するためにも放射線教育は非常に重要な課題だと感じている。

②福島の事故は誰の事故なのか


原発事故は東電の事故ではありますが、東電だけの事故ではないというのがこの視察を通して感じたことです。原発は一つのきっかけに過ぎず、私たち自身が抱えていた問題をありのままに映しているのではないでしょうか。
衰退する地方。過密になり生きる目的を見失う都市。少子高齢化。農業や林業の衰退による、一次産業の自給率の低さ。

あらゆる問題がある中でそれを全部国や企業に押し付け、見てみぬふりをしているのは私たち自身ではないでしょうか。

みんなが福島事故を理解しようとすれば、福島は震災後あんなに一次産業が衰退しなかった。きちんと放射線の安全基準がクリアされているのに福島というだけで売れない。福島で過ごしたからという理由だけで差別される。こういうことが今でも平然と起きているのが事実です。安心と安全は違うということをまざまざと見せつけられた瞬間でもありました。

かの有名な福沢諭吉先生は国のあり方は国民のあり方で決まるとおっしゃっています。誰に責任があるとかそんな低次元の話ではなく、どうやったら復興に近づけるのか、どうやったらこの社会がよくなっていくのか、私たち自身の意識が変わってく必要があると思います。

③事故後の対応の在り方

事故後の国、東電の対応の仕方は問題があったと強く非難されますが、今はどうでしょうか?

たまるばかりの汚染土の入ったフレコンバック、冷却水の処理、被災者への対応、どれをとってもまだまだなのではないでしょうか?

2019年に襲った台風19号では、フレコンバックの山が川に流れ出たというニュースが流れました。冷却水は理論的に流せるの一点張り。誠実な対応ができているとは言い難いです。

もちろん、避難するばかりでは変えられません。私たち自身の考えを提示し、適切な議論することがより求められているでしょう。

④復興のあり方
上述しましたが、復旧と復興は似て異なるものです。ほとんどの人が現場の視点を持てないがためにこのような問題が生まれているのではないでしょうか。最近では千葉大の留学問題がいい例かもしれません。

千葉大学は全員を強制的に留学に送るために授業料を10万円上乗せすることを決めました。客観的に見れば、グローバル化の波に乗り、他大学との差別化に成功し、マーケティングとしても良い選択肢のように思えますが、果たしてそれは学生の立場を考え生まれた考えなのか、学生の自由を奪っていいものなのか。はなはだ疑問に残ります。

同様に震災現場では支援として手紙や千羽鶴のような物資が送られることがあるそうです。これは大変失礼ながら送った側の自己満足にすぎません。震災現場では緊急的な必要物資が優先され、人も足りない中、ボランティアスタッフが手紙の処分に追われることもあるそうです。残念ながらゴミを送っているのと同様な扱いになってしまいます。

これは現場の視点に立てず、一方通行的な支援になってしまうのが原因だと考えます。その地域、その人の立場に考えることを忘れ、ただ客観的、データ的な見方しかできなくなる。

福島も同様にインフラなどは整備され、補助金などもおりていますが、コミュニティは解体され以前のような豊かな暮らしとはほど遠い状況に陥っています。

現場にの視点に立つというのはなかなか難しく、私自身もついデータ的なものの考え方になってしまいがちですが、現場を理解しようという態度が一歩でも復興という状況に近づくのではないでしょうか。

⑤地方の在り方

復興とともに地方の課題が残る被災地ですが、飯館電力にみるように他の地域と比べても進んだ事例が見られるような気がします。

一度大きく崩れたからこそ、立ち上がる強さというものを現場には感じます。人々の強い想いが形になり、地域循環型の社会、医療やインフラの改善に向けた努力が行われています。

そこには都市では感じにくい人々のあたたかみや絆があるように思います。

テクノロジーは人々の生活を楽にしてくれますが、豊かさをもたらしているのか、工学を専攻している私には疑問があります。

地方の不便さ、だからこその助け合いが人々の絆を生み出し、あたたかさを作れるのではないか。そんな想いがあふれてきます。

具体的な地方の形は未だ模索中ではありますが、この福島には来るたびに生きる強さを感じます。

最後に

ここまでで福島の現状。第一原発、第二原発に視察に行ったときのことをストーリー上で紹介し、福島の復興のために頑張る人や会社を紹介しました。
最後に私自身の考察から福島から学ぶべきことを提示しました。

原子力に関しては福島第一原発の事故により、安全基準の見直し、汚染水の処理、汚染土の処理、震災関連死、地域コミュニティの崩壊など様々な問題が生まれ、具体的な対策が求められています。
そして、私たちが使う電気は原子力という不完全なエネルギー、火力という気候変動を推し進めるエネルギーを中心として成り立っているということも頭の片隅にでも置いておかなければなりません。
今後どのような施策が行われるにしろ、私たちは問題を適切に認識し、過去の過ちから学び、具体的な行動を起こしていかなければなりません。

3.11で起きた悲しみはきっと私の想像をはるかに超えたとこにあるのでしょう。それでも、今ここに生きるからには前を向くためにこの悲劇を見つめなおさなければなりません。

日本の諸問題を考え、震災の恐ろしさを理解し、向き合う。この日が一歩前に進む日になればと思います。

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