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そこ。

キネシオロジーを学んだのは人の為だった。
初回の授業で課題の分離を学んだにもかかわらず、どこかしら他人のために、と決め込んでいた。なんて頑固なヤツ。
だからカリキュラムを終えたいま、どことなく満たされないような日々だった。
虚無感かな… 違うな~。
燃え尽き症候群かな… あ、それかも。
いざ自分のために生きるとなると、なんにもパワーが出てこなかった。

このところ、心理学の本を読み漁ったり、今まで受けた講座の動画やノートを見返したりしていた。
おさらいをしながら途中で挫折したワークの続きをして、床に蹲って泣き腫らしたこともあった。
その甲斐あってか、今日は一本筋が通った気持ちになり、雑記帳に残しておきたくなった。
すると慢性的に続いていた微妙な霞の粒子が全部結晶して足元にストンと降りてきてくれた感じがしたので、ここにも記しておく。
(徒然し過ぎてちょっと修正加えたけれども、やっぱり徒然。)

***

人のために生きてきて、それが自分の選択だった。
深刻な現状を招いていた。深刻にしたかった。
幸せを禁止してた。それを正しいと思っていた。
正しい道しか進みたくなかった。
楽しいのは間違いだと思っていた。
楽しい局面にいても、それは間違いだから、
深刻なように受け取るようにしていた。
透き通った泉の中で、1粒の砂を探した。

今が一番底だと言い、学びを始めた。
1年経った今のほうがよっぽど底である。
でもコレを底だと思うと、また元の木阿弥な気がする。
生まれて此の方、ずっと「今が底、あとは上がるしか…」と
どれだけ言い(聞かされ)続けてきただろう。
よく考えたら、1年前は「底」ではなかった。
「今よりずっと恵まれていたよ。底なんて言ったらバチが当たるよ。」
そう思ってる今、自分は今を底だと思っている。
でも貯金(不滅口座だけれど)もナクはナイ。

このまま「今が底」を設定し続けたら、ずっと下降路線だ。
だって「今が底」が人生の設定だから。
「今よりずっと恵まれていたよ!」と1年前の自分に言うその口で、
「今は今で恵まれているんだよ!」って思う。

今日の雨の中、雨を庇ってくれる屋根がある。
今を底なんて言えば罰が当たる。
上がらなきゃ!なんて聴こえのいい自己否定だ。
お恵み感謝モードでいればいいと思う、R6年の後半初日。

***

要は、
「今のココの自分はダメ!成長しなきゃ!」
っていう気持ちでいるから、ダメな現状が用意されちゃう、と書きたかったのだろう。
「いっつも無い」が口癖の人に「いや、あるじゃない!」とツッコミたくなる自分がいるけれど、それが思いっきりブーメランだった。

あとは、
「何かを始める動機が自分になければ、結局は変われないよ」ということ。
他の何か、他の誰かを変えようとしたとき、ちょっとは変わったように見えるけれど、結局自分が変わらなければ世界は変わらない。
それを思い知った、ここのところだった。

御跡が宜しくないけれど、少なくともわたしは満足です!

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