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誤解が世界を変えていく

夏休みの楽しみといえば?
プール! 旅行! 海! 花火! フェス!
って、いろんな答えが返ってきそうですが、今年の僕の楽しみは、夏フェス。

そう。「ALLけテぶれFesta」です。
「なんじゃそりゃ?」と、はてなが浮かぶ人も多いと思います。
簡単に言うと、全国から150人もの人が集まり、模擬授業や実践発表から学ぶ教育イベントです。

今回のnoteでは、そのイベントの中身の話ではなく(違うんかい)、そういったイベントやセミナーに参加した後の話をしようと思います。

発信せよ

本を読んだ時も、何かを体験した時も、イベントやセミナーに参加した時も、それを本当の意味で学びにしようと思うのなら、発信することを避けて通るわけにはいきません。

自分用にメモをしたり、記録したりすることももちろん大切です。
しかし、他の人の目を意識して、読まれる前提で書くことはその何倍も大切です。

誰かに伝えようと思ったら、客観視することが求められます。
言葉を、内容を、取捨選択する必要があります。
その過程で、インプットしたことをもう一度、自分の言葉で捉え直すことができるのです。

学びは発信することでより大きくなるのです。

こういう話をすると、よく言われるのが、
「読んでもらうような価値のあることが書けません」とか、
「間違ったことを言ったり、誤解させたりしたらどうしよう」ということです。

でもね、これには明確に「違うよ」って言えるんです。

発信する勇気がないとか、発信したことがないという人。「発信、これでいいのかな?」って、ちょっと不安になっている人は、続きを必ず読んでください。
いや、全員読んでください。

完璧から進歩は生まれない

自分の体を完全にはコントロールできないからこそ、新しいことができるようになるのです。

「体はゆく」伊藤亜紗

できないことができるようになるには、これまでにやったことのない体の動かし方をしなければなりません。
そのためには、正しい動きをイメージしなければならない。
でも、やったことがない動きを正しくイメージすることができない。
正しくイメージできないから、実行がうまくいかない。

もしも体が完璧にコントロールできるとするなら、できないことは永遠にできないままなのです。

つまり、完璧なものから進歩は生まれないということです。
何か新しいことができるようになるには、どこかにイレギュラーが必要なのです。

完璧な発信を目指す必要はありません。

これは、技術や思考でも同じです。
新たな技術が生まれるのは、今ある技術が完璧ではなくゆらぎがあるから。
新たな思考が展開していくのは、自分の考えに違った視点が入ってくるから。

では、そのきっかけになるのは何か。
それが誤解です。

誤解は新たな可能性

自分の意図したことが100%確実に伝わるなんてことはあり得ません。
だからこそ、新たなものが生まれる可能性があるのです。

あなたが発信することで何が生まれるか。

今回のけテぶれFestaでは、けテぶれ提唱者の葛原先生の模擬授業や、実践発表、ポスターセッションといった発信がありました。
ここからあなたが学んだことを発信することで、発表者は新たな視点を得られるのです。
自分の発信がどう受け取られたか。何が伝わり、何が伝わらなかったのか。どこに誤解が生まれたのか。
そのフィードバックこそ、発表者が求めていることです。

誤解があっていいのです。わかってなくていいのです。
誤解があるから、新たな視点が得られます。
わかってもらえないから、伝え方を工夫できます。
対話が生まれます。

発信することで、相手にとっても自分にとっても、大きなプラスがあるのです。
あなたの発信で、世界が少し前に進むのです。

同じことがあなたにも起こります。
発信することで誤解が生まれ、新たな視点が生まれ、あなたの世界が広がるのです。

誤解してもいい。
それが相手の世界を広げるから。

誤解されてもいい。
それであなたの世界が広がるから。

誤解を恐れずに発信してください。
大丈夫。
あなたの言葉には価値があります。

けテぶれが広がっているのは?

けテぶれという学習法がなぜここまでの広がりを見せているのか。
Twitterで一人の教師が始めた発信が、なぜここまで大きなムーブメントを起こし、さらに大きくなり続けているのか。

色々な要因があると思いますが、僕の考える1番の要因は、
実践者それぞれに解釈ができる懐の深さがあるからだと思います。

誤解は言いかえれば新たな解釈です。
開発者の意図を100%くみとるのではなく、それぞれがそれぞれの答えを出してそれを磨いていく。
それに耐えうる懐の深さが、この実践の強みです。

時代を超えて読み継がれる本には、例外なく解釈の余地があります。
唯一の正解があり、それ通りに読むのではなく、それぞれが誤解できる幅があり、それぞれの誤解をもとに対話が生まれ、新たな解釈がなされていく。
古典と呼ばれるものは、もれなく誤解の余地がある作品であり、それぞれの読み手が豊かに誤解することで世界を拡張してきたのです。

同じことが、けテぶれでも起こっているように、僕は感じています。
実践者それぞれが豊かに誤解しながら実践を進める過程で、自分の実践になっていくのです。

誤解の集大成とも言える本。

発信しなければ、ないのと同じ

僕の仕事は小学校の先生です。
子どもたちが自分の可能性を最大化できるようにするのが仕事です。

だからこそ、教室でも発信することを求めます。
これからインターネットに接続せずに生きていくことはほとんど不可能に近いでしょう。
インターネット上では、発信しなければ存在しないのと同じです。
自分の思いも考えも感情も、出さなければゼロ。誤解の余地は生まれません。
どこかから聞きかじったことをそのまま出しても、そこに解釈の余地はありません。

新しい何かが生まれる可能性は、あなたの思いや感情や考えにこそあるのです。
なぜなら、そこには誤解の余地があるからです。
違い=価値なのです。

教室をなんでも発信できる場にすることが、可能性を最大化させる前提条件だと思います。

大人も同じです。
発信しなければないのと同じ。
一歩踏み出すこと=やってみることが全ての始まりです。
150人が集まり生み出した熱を、現場で、教室で、職員室で、そしてインターネットを通して世界中に発信していきましょう。

未来のためにできること。
それは、あなたが、あなたの言葉で発信することなのです。

誤解されていきましょう。
誤解を歓迎しましょう。
新たな何かを生み出すということに挑戦していきましょう。

それでは。
Good  Luck‼︎

発信者たち

ぜひ読んでみてください!
共に熱を伝えていきましょう!

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