死を受け入れるということ
朝ドラ「おかえりモネ」の今朝放送分を見ていて、新次さんが取り押さえられている姿に胸が痛みつつ、「仕方ない」で片付けらない想いはあるよなぁと思いながら、今年の夏が来る前に逝ってしまった祖母を想った。
はじめに断っておくと、彼女の死因は老衰でした。
数年前に少しずつ足腰が弱っていき、ある日部屋のベッドから落ちて動けなくなっているのを同居していた母が見つけ、救急車を呼んで搬送してもらい、退院後そのまま施設への入居が決まった。
その時も本当に悩んだ。
祖母は大柄な人で、母一人で祖母の介助をするのは難しい状況だった。仕事が忙しい父も妹も、他県に住んでいた私も、誰も母を日常的に手伝うことはできない。
母は引き取ってどうにか家で面倒を見る手段を考えていた。でも、私には、それは無理だとしか思えなかった。
祖母は、決して素直に人に感謝できる人ではない。否、これだと語弊があるな。
「家族に対して」決して素直に感謝できる人ではなかった。
他人に対しては、とてもしおらしく、照れ屋で、シャイで、可愛らしい人だった。その一面も確かにあった。嘘ではない。
でも家族に対しては、コンプレックスをつつきまくり、自分が母にとっての一番じゃないと怒り、母が楽しそうにしていると不機嫌になり、呪いのように過去の失敗を唱え続けるような人だった。引き取り同居で祖母を大切にしている父のことも文句ばかり言っていた。
食事も、出掛けるときも祖母中心で、いつも祖母の顔色を窺っている母に、なぜそんなに怖がるのだろうとずっと思っていた。
祖母を置いて父の単身赴任先に泊まりに行き、家族四人で食事してお酒を飲んだ帰り道、母が酔ってふらふらになったことがある。私と妹で支えて帰った。母のそんな姿を見るのは初めてだった。祖母の目がないと、この人はこんなふうに甘えることができるのだ。甘えてくれて嬉しかった。
自宅介護で思うように動けない祖母が、母を追い詰めるだろうことは容易に想像できた。
私は主張した。
「一度自宅介護になったら、施設に入るのが難しくなるかもしれない。私たちも手伝えない。母の体、心、とにかく心配だから、もし施設に入れるのなら、そうしてほしい」
父も妹も、母と同じでどちらかというと自宅に帰る方向で考えていたと思う。
でも、祖母がこうなる前の二人を見ていて、手伝えるとも思えなかった。どちらも介護があるからと、仕事を減らせる環境にはないのだから。あの時はそう考えていた。
結果、とんとん拍子で施設が決まり、祖母は施設に入居することになった。
逆に言えば、要介護度はそれほどまでに高い状態だった。
幸い、祖母の入居先はとてもよくしてくださるところだった。環境もきれいだった。
ただ、祖母は他人に対して愛想がよく、とてもおとなしい人。本音が言えず、とても窮屈だったと思う。
会いに行くと、「帰りたい」と何度も繰り返した。甘いものが好きな祖母のため、せめてもの思いで母はこまめに差し入れをした。「あまり行くと、自分で介護したらいいのにと言われてしまうかな」と気にしていた。それでも可能な限り会いに行っていた。
母から祖母の様子がLINEで届くたびに、これでよかったのか、自問自答を繰り返した。
それから数年して、コロナの流行が始まった。
母は祖母に会えなくなった。
その前から、インフルエンザなどの流行があると面会はできなかったけれど、これにより祖母の認知症は日増しに悪化していった。すこしずつ食事の量は減っていったけれど、おやつだけは食べられるのだと聞き、母は差し入れと手紙を届け続けた。
そんな中、世間では高齢者のワクチン接種が始まった。祖母も順番を待っていたが、接種はやめたほうがいいと主治医から診断が出たのが、亡くなる一週間ほど前のことだった。
そして施設から、いつどうなるかわからないので、会いに来てあげてほしいと言われるようになった。検温、消毒、マスク着用などから、換気、ビニール越し、短時間。最大限の対策をした上で、会いに行った。
あの大柄だった祖母が、別人のように小さくなって、車椅子に座っていた。
ビニールを挟んで、祖母に語りかけた。あれだけおしゃべりだった祖母はなにも話さずに、ただじっと私を見つめていた。
いけないとはわかっていた。
自分の手に消毒液をバシャバシャかけて、ビニールをすこしだけめくった。「会いに来れなくてごめん、ずっと会いたかった、やっと会えた」と言って、祖母の手を握った。祖母はかすかに頷いた。
どこまで祖母に聞こえていて、どこまで理解できているかわからないけど、ただただ話しかけた。面会終了時間になり、「また来るね」と席を立とうとした。
祖母は私の手を離さなかった。握る手の力は強かった。
正直、あのあたりの日々は、敢えて祖母のことを考えない時間を作らないとどうにかなりそうな心境だった。私が祖母をこうさせたのだと自分を責めた。
ある日職員のかたが「かわいらしい方ですよね」と言った言葉に、「そうなんです」と妹と二人で答えながら、涙が出た。素直じゃないけど、正直で、わがままで、かわいい人だった。
母はぽつりと言った。
「あの人がああなのは、自分に自信がないことの裏返しなの。劣等感とか、コンプレックスのかたまりだったんだね」
「自宅に引き取っていたらと思わないことはない。そうしたらもっと生きられていたかもしれない。家族と過ごして、もっと話ができていたら、違っていたのかもしれない。
それでも、こうしていい思い出ばかり浮かぶのも、最期に精一杯なにかをやってあげたいと思うのも、あのとき施設に入れて、離れて暮らしているからかもね。四六時中家にいたら、どうなっていたかわからなかったね」
そして数日が経ち、祖母は母に看取られながら、静かに息を引き取った。
葬儀でお棺に体をおさめるときの、その細さ、小ささ、軽さが、家を出てからの時間を思わせた。別人のようだった。
祖母とはたくさんケンカした。
「なんでそんなこと言うの!?」と怒ったことは数えきれない。
でも、自宅に帰れば祖母が必ずいたこと。
部活で疲れて帰ってソファに飛び込んだ私に、部屋からのっそり出てきてオロナミンCをよくくれたこと。
絵を描いていたら「めろこ(女の子、の方言)描きばっかりして」と言いつつ、私が授業で描いた昭和天皇の肖像画を部屋に飾って客人に自慢していたこと。
何かのテレビを見て不安になって祖母の部屋に行き「死なないでね」と泣く私を抱き締めてくれた夜。
病院の送迎の帰りに、一緒にラーメンやアイスを食べたこと。
寄り道して嬉しそうな祖母の顔。
死の間際に会った小さくなった祖母の姿よりも、今思い出すのは元気だった姿だ。
コロナ禍にもかかわらず母が祖母を看取ることができたこと、施設の方々には本当に感謝しています。
あれがなかったら、母は祖母の死を受け入れるのに時間がかかっていたと思う。そして、施設で過ごしていたからこそ最期の別れまでの時間がゆるやかに流れたのだとも思う。そう思いたい。
死は誰にでも訪れる。
でも、残された家族がその死を受け入れることに至っては、それぞれの形がある。
そんなことを考えた夏の終わりの朝でした。
あの日の正解は、まだわからない。
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