見出し画像

愛されていなかった、と受け入れることで、愛されていたと気付けるようになること

親が私を殴ったのは、親が私のことをいらないと言ったのは、私が悪い子だったから。親がそんな私のことをそれでも育ててくれたのは、私を愛してくれていたからで、だからあれは虐待なんかではなかった。

虐待、ネグレクトされていたと認めることは、子供にとってとても難しい。なぜなら、それは愛されていなかったと認めることになるから

自分は親に愛されていなかった、というのは子供にとっては死刑宣告のようなものだから、子供は必死で親のための言い訳を考えて、それを信じ込むことで幼少期を生き延びる。

ずっと自分にそう言い聞かせて生きてきた人は、大人になり、本を読んだり、自己理解を深めたり、暖かい人間との触れ合いで癒されていくと、幼少期に自分を守るために凍り付かせた自分の一部を、もう溶かしてもいいのだといつか気づく

もう子供でないから、親がいなくても生きていけるのだから、もう真実に向き合っても大丈夫なのだと気づく。

そしていつか、あれは虐待だったのだと受け入れる。私は親に愛されていなかったのだと、身を裂くような痛みを感じながらも、自分をずっと『親に愛されていた』という嘘で守ってくれていたパーツを開放してあげられる。

沢山辛かったことを思い出して、親に対する怒りも感じる。どうしてちゃんと愛してくれなかったのだと憤りを感じる。

けれどそうして自分に寄り添っていると不思議なことに、少しづつ自分が必要としていた形ではなかったにしても、親がしてくれた小さなことを穏やかに思い出せるようになる。

今まで親に対する怒りや悲しみを抑圧するために使っていた労力が開放されて、親もただの小さな子供であったのだと気がつけるようになる。

親を親という役割から開放することで、初めて親をただの人間として見られるようになり、親は愛し方を知らなかったけれど愛してくれていたのだと思えるようになる…かもしれない。そうでなかったらそれでもいい。

ただ自分を開放してあげられたら、今自分で自分を愛してあげられたらそれでいいのだと、その頃には思えるようになっていると思う。

そんなある意味、『もうどうでもいいのだ』と軽やかに思えるようになることが、暖かな『許し』につながっていくのだと思う。

ただ一つ思うのが、幼い頃の自分の痛みや怒りに寄り添うことなしに、親を許せることはないと思う。単にもう過去のことだと言い聞かせることで許せるようにはならない。体の中に今も泣いている子供がいるのだから、まずはその子供を迎えに行ってあげなければならないと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?