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手で語るはなし。

文字のはなし


昔から文字を書くのが好き。
いや、書くのが好きというより、文字を”綴る”のが好きです。

ペンを使って紙に書くのも好きだし、こうしてPCと向き合ってキーボードを打つのも好き。とにかく、自分の言いたいことを可視化して、吐き出すという行為にとても魅了されている。

気がする。気がするだけかもしれんけど、昔から取りつかれたようによく文字を書く子供だった。


書くことはなんでもよくて、例えばお気に入りの歌詞をひたすら書いてみたり、教科書に載っている名作を書き写してみたり、今思っていることを書き出してみたり。

ムカついた人の悪口をひたすら紙に書いて、それを破って捨てるという行為が幼いころのストレス解消法だった。
それを捨て忘れてよく母親に怒られた。

お気に入りの歌詞を書く、という話をしたけどあれは高校生くらいになっても続いていて、お気に入りのコクヨーのCampasというリングファイル。あれに歌詞を書いたルーズリーフをたんまりとためこんでいた。

たまに英語の歌詞もあった。言語は何でもよくて、とにかく書く。それもボールペンやカラーペンで、綺麗に書く。書き間違えたら一からやり直す。そういう超地道な作業を授業中にひたすらやっていた。


要するに文字と向き合うというのはわたしにとって究極の暇つぶしで、究極の癒しだった。書いてる最中は無になれるから。書いてるものは自分だけのものだから。


とはいえ、書いてるものをこうして投稿してみたりしているというのは、結局誰かに胸の内を理解してもらいたいという思いがあるからだと自覚している。

文字というのは暇つぶしであり癒しであり、私の本音そのものだった。

それは成人した今でも変わらない。


むしろ昔よりもさらに「本音」の比率が多くなって、より自分の心を口からではなく手から吐き出すようになった気がする。

2人ならいい。会話するのは相手か私かしかいないから。

でもそれ以上になると、基本的に黙ってることが多くなる。

話す、という行為には一種の快楽があると思う。
誰かに自分の考えを感情にのせて話し、その場でそれに対する反応を貰う。それが良い反応だったら誰だって高揚する。

その「共感」こそが会話の中毒性だと思うし、それを求めるから人は人が恋しくなるんだろうと思う。


ただ残念ながら、私はその共感を得るというよりも、複数人が私の話を黙って聞いているという状況がものすごく苦手だ。と、最近気づいた。

もちろん相手は相槌をうったり、きちんと聞いてくれているんだけど。なんだかすごく耐え難くて、口早にしゃべり、そして相手に話を持ち掛けて会話のキャッチボールから抜けようとしてしまう。

しかもそのキャッチボールを外から見ながら、言いたい言葉は頭の中できちんと出てきていて、それを殺す作業に独り勤しんでいる。

まったくもってタチが悪い。

…そしてかえって寝る間際に、次会った時のことを想像しながら言う練習をするのである。
嘘のような本当の話だ。めっちゃ恥ずかしい話をしている気がするけど、そういう話もこうして饒舌に出来てしまうのが文字の怖いところだと思う。


でもこういう人は意外といるんじゃないかなと思っていて、だからこうしてnoteに書いてみたりしているわけです。


文字は良いね。

実際口から出したら恥ずかしいような言葉も、なんだか芸術性があるように感じられるから。

『話す、という行為には一種の快楽があると思う。』…なんて、だれかに口で言えます?いや言えないね。言ってカッコよく聞こえるのはテレビのインタビューくらいでしょうよ。


本当は口で言いたいことはたくさんある。

会話の最中、ビュンビュン脳内を駆け巡る言葉は光速で査定され、何を発すべきか値踏みされている。

そして何の変哲もない、文字通り他愛のない言葉だけが私の口から発せられる。


そのたびに、なんて軽薄な人間なんだろうと空しくなる。


ぶっちゃけ人と会話するのが嫌いだ。
嫌いだけど、そうやって値踏みされて消えた言葉を伝えたくて割と頻繁に人と会う。

でも結局いつも思ったことの2割も言えないので、会ったその日の夜、相手のスマホを鳴らす。
話したかったこと全部を、厳選した文字で伝えるために。



プレゼントのはなし


最近自分の異様な行動の原因について考えていた。

本当に、しょっちゅう、人に贈り物をすることだ。


なにかにつけて贈り物をする。適切なタイミングでの贈り物もあれば、「なんかいいと思ったから」と何でもない日に送ったりもする。

まさに何でもない日のお祝い。
たしかに不思議の国のアリスは好きだけども、残念ながら黄金の昼下がりにヨットに乗るような優雅さを持ち合わせていなければ、野生のウサギを追いかける脚力もない。
50m走のタイムは聞かないお約束だ。


プレゼントを考えるのは好きだし、出かけた先で「あの人によさそう」と思うこともたしかによくある。あるけど、だからといってみんなこんなに人に贈るものかなとちょっと不思議になってきたのがここ1年くらいの話。


色々理由を考えてみた結果、行きついたのが「目に見える愛のカタチ」だった。

これこそ口では言えない言葉である。
言ったことを即座に実践していくのは素晴らしいといえよう。


先に述べた通り、本当に口で言葉を伝えるのが苦手だ。

たぶんプレゼントを贈るという行為は、わたしの「文字で本音を伝える」というのに並んで「愛情を伝える」という行為なんだと思う。

思う、というのは肯定するとなんだか恥ずかしいからそういってるだけで、ほとんどそれが答えだったりする。


言葉で伝えることから逃げている、と言われたらもう言い返せないのだけど、これが自分なりの方法なんだと思う。

だからどうか、わたしからプレゼントを受け取った人間は喜びむせび泣けばいいと思う。文字ではこういうことも言えるのである。


本当は愛情を手紙で伝えたいという願望もあるけど、愛情までくるとさすがに文字ですら恥ずかしいから「もの」に変換されている。

本当はあの…なんだっけ‥‥蝋で封をする…シーリングスタンプ?あれで封をした手紙を貴族風に渡したいくらいなんだけど、残念ながらシーリングスタンプを持っていなければ手紙を渡す瞬間のことを考えて顔が焼けただれそうなので「もの」が一番いい。


問題は、その愛情が伝わってるかなんだけど‥‥。


ぶっちゃけ伝わってないと思う。
いや伝わってるだろうけど、たまに2割くらいしか伝わってないかなって思うときはある。口で発するのと変わんないって気づいてしまったけど、それはおいておこう。

諸君。

本当に本当に伝えたい一言は、口で言った方がイイゾ。


ここまで文字、プレゼントという、口で言えないことを形にして伝えるということについて話してきたけど、個人的には「話し言葉」、口から発せられる言葉にはやっぱり力があると思う。


言の葉、というのは本当にその通りで、やっぱり文字にかくのと口で言うのは重みがちょっとだけ違う気がする。

実現させたいことを口でまわりに宣言しろ、というのも、やっぱり手からペンやキーボードを伝って線で読ませられるより、相手の声の抑揚や表情で感情を上乗せさせられる声は印象が違うし、自分も耳で聞くことになるから再認識できるという点もある。


わたしがここまで口で言うことを拒むのも、口で言うことがどれだけ難しいかをおのずと理解しているからだし。わかってるよ…口で言える人ほんと凄いんだよ…。


でもだからといって、文字や贈り物を軽視したいわけではなくて。

文字で伝わってくるものは、口から伝わるものに比べてより純度が高い気がする。
なんていうのかな、そこに筆者のどんな思惑があれ、伝わるのは黒い線から成された言葉なわけで。そこからどう受け取るかは全部受け取り手次第。

言葉は表情・抑揚で大体の感情はダイレクトに伝わる。あんまり解釈の余地がない。

文字はその点、広い幅を持っているなと思う。
それは時にSNSなどで悪い方向に働き、時にいい方向に働く。


プレゼントだって、悪意をもってプレゼントするのは本当に頭がおかしいと思うけど、みんな「もっと伝えたいこと」があるから贈る。

相手のことを考えながら選ぶ時間はいとおしいし、送って喜んでもらえたら幸せだ。

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口で伝えるのは難しい。会話って国家資格かと思うくらい難関に感じられる。

思ったことはたくさんあった。伝えたいなぁと思うこともたくさんあった。それらが言えなかったせいで伝わってない相手への愛情もたくさんあるだろう。


それをなんとか伝えたくて、今日もわたしは手紙を書き、LINEを送り、出かけた先で友人たちの顔を思い出す。






日本生まれのイタリア大好き漫画家です。好きすぎて留学してました。漫画をきっかけにイタリアに興味をもち、5年以上とあるカフェでバリスタとして勤務していました。