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クミの聖書のお話(週一更新・メンバーシップ特典)

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本物の偽牧師、足袋田クミの聖書のお話 毎週一本記事を追加します 内容は基本的にYouTubeチャンネル「羊たちの夕べ」でお話しするものと同じです。そちらは無料でご視聴いただけ…
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イエス曰く「エモかったらRT」

イエス曰く「エモかったらRT」

イエスの話を聞きにきた群衆へ向けて、イエスは譬え話を始めます。おおよそ、この話がイエスの言葉の導入だと思っていいでしょう。つまり、この話は概論的な位置付けということです。平たくいえば、これを前置きとして言っておきたいので最初に話すわけです。

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イエスの家族になる

イエスの家族になる

まず構造の話から。エルサレムから律法学者がやってきた話の前後から挟むようにして、「イエスの家族」という話題が語られます。これはマルコがしばしば行う手法で、前後の話と間の話の解釈を繋げるように読者を誘導する書き方です。

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言葉を届けるのに適切な距離

言葉を届けるのに適切な距離

ここまで、イエスの活動を見てきましたが、この箇所にもあるように、病人の癒しや悪霊の追い出しがかなりの部分を占めており、パリサイ人らとの論争が描かれたのはそれに付随する形ででした。イエスはこれまでの枠組みを批判する存在ではありましたが、やはり、第一には人々の間に入っていって奇跡を行う、力ある人物だったのでしょう。

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善を励ます

善を励ます

ラビ・ユダヤ教の中であっても、律法の解釈は発展を遂げていて、必ずしも杓子定規なものではありませんでした。つまり、安息日に許されていることの中には、緊急時の命の優先という概念がありました。ですから、もし「安息日に誰かが死にそうだったら労働をしても良いか?」という質問が出たならこんなふうにこんがらがった問題にはしなくてよさそうです。そういう時は人命を優先しなさい、という議論で終わりのはずです。

しか

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人のために規則がある

人のために規則がある

規則は何のためにあるか、と問われて、意外と多くの人は答えに窮するかもしれない。法律は、とか、憲法は、とか、もっと身近に校則は、とか言い換えてもいい。秩序を守るためとか最低限の道徳だとか、もっともらしく答えられそうな気もするけど、イエスの答えは実際納得しやすいものに思えます。「規則は人のためにある。その逆じゃない。」

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する必要のないこと

する必要のないこと

使徒行伝など見ますと、「断食して祈り」というフレーズが見られます。おそらく熱心な祈りを献げるためのアクションとして断食という形が取られたのでしょう。何曜日が断食、というふうに制度化していたわけではないかもしれませんが、祈っていたらご飯を食べ損ねた、というのではなく、意識的に食事を絶って何かに集中することによって結果を出そうとする姿勢に見えます。

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すでにイエスは俺たちの横に着席している

すでにイエスは俺たちの横に着席している

この地の関税は当時ガリラヤを治める領主(テトラルキア)であったヘロデ・アンティパスの懐に入るものでした。徴税はプブリカニ(Publicani)と呼ばれる取税人が請け負いました。あらかじめ決められた税収があり、そこを上回る額が彼らの収入になったようです。

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罪あるいは病、赦しあるいは癒し

罪あるいは病、赦しあるいは癒し

「信仰」と訳されている単語について一言。「信頼」とか「信じていること」などというこの言葉の意味の広がりを考えるときに、宗教的な意味での「信仰」という言葉で拾いきれない部分があります。もっと素朴に、もっと単純に、彼らは「イエスが奇跡を起こしてくれるだろう」と信じていたのでしょう。その気持ちがどうやら実際に奇跡が起こることへとつながっていきます。

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皮膚病の癒しと福音宣教

皮膚病の癒しと福音宣教

まずテクニカルな点から。

本文中のらい病と訳されている、ギリシャ語でレプラという単語は、レビ記でヘブライ語でツァラアトと呼ばれた皮膚病のカテゴリを言い表そうとしているようです。しかし、ツァラアトは現代でいうところのらい病あるいはハンセン病よりずっと広いカテゴリのようで、おそらくここでレプラという単語で示唆されているのもハンセン病とは違う何らかの皮膚病であろうと思われます。ひとまずこの後の話では便

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ガリラヤの原体験

ガリラヤの原体験

宣教を開始したイエスはシモン、アンドレ、ヤコブ、ヨハネを弟子に取ります。ガリラヤ湖で漁師をしていた四人はイエスに連れ立ってカペナウムに到着しました。そこでユダヤ人の会堂、シナゴーグと呼ばれる礼拝所に入ります。安息日、つまり土曜日の出来事です。

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洗礼者ヨハネからイエスへ

洗礼者ヨハネからイエスへ

福音のはじめ、とあります。どことなく創世記の冒頭を思わせる表現ですが、著者はおそらくモーセ五書のオマージュのつもりでこの福音書を書き始めたのだろうと思います。理由は後述しますが、まずは順番に読みましょう。

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