028.島の未来に光はあるか?
2002.8.27
【連載小説28/260】
ワークショップ報告(4)
「観光」とは産業の一分野ではなく、本来、一種の概念的な言葉だ。
その語源を辿れば、読んで字のごとく「光を観る」で、人がその活動の中に何がしかの光明を見出すことに、かつての「観光」は位置づけられた。
だとすれば、旅するというプロセスそのものが観光の重要な部分であることに間違いはないが、そこに「なぜ旅立つのか?」という動機や「なにを求めて旅するのか?」というスピリチュアルな動機が明確にセットされて、旅ははじめて「観光」活動となるはずだ。
未知なる大陸発見の旅も、過酷な聖地巡礼の旅も、いにしえの旅は「やむに止まれぬ」事情のもとに命を賭して行うものであり、そこに、長い時間をかけた末に「必ず帰る」という前提はなかった。
つまりは、旅=冒険、だったといっていい。
では、「現代の」旅はどうか?
文明化は、我々から未知なる領域を奪うことによって旅を冒険と切り離し、移動速度の劇的進化は彼方の異国訪問をも、お手軽な娯楽にしてしまった。
では、既にそこに「光」はないのか?
いやそうではない。
マーシャル観光の未来には小さな明かりが見えている。
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オルタナティブ・ツーリズムなるものが提唱されている。
大規模開発、大量誘致型のマス・ツーリズムへの疑問視から生まれた、もうひとつの道という意味での観光の概念である。
近年よく聞くグリーン・ツーリズムやエコ・ツーリズムなどは、このオルタナティブ・ツーリズムを特徴化させた形態と考えていい。
ワークショップのオブザーバーである未来研究所のスタンには、彼の専門分野である観光マーケティングの分野から、このような体系分類でジョンのマーシャル観光構想を概念的にわかりやすく誘導してもらった。
彼によると、「環境」と「開発」を相反するものと捉える中に21世紀の観光はないということになる。
自然、文化、生活的な破壊を可能な限り削減し、受け入れ側には経済効果を及ぼし、旅する人には充分な満足を与える…、そんな相互依存の観光実現を目指さなければならないということだ。
自らの知恵と肉体を駆使し、海という大自然と語らうアクティビティ。
そんな伝統的な航海術としてのカヌー観光には、スタンによると以下のようなツーリズム実現の可能性が内包されている。
エコ・ツーリズム:
自然環境の保全を目的とする観光。
エスニック・ツーリズム:
多様な異民族文化を鑑賞する観光。
ルーラル・ツーリズム:
都市生活で失われた自然や伝統文化と出会える観光。
ローインパクト・ツーリズム:
自然環境への過剰負担や自然資源の過剰利用を行わない観光。
加えて重要な概念が、サステナブル・ツーリズムだ。
「持続可能な観光」と訳されるこの概念は、地球サミットの中心テーマとして世界的な地球環境保全活動に不可欠なキーワードとなっている。
いかなる取り組みも、無理なく未来の世代に向けて蓄積可能であることがその前提にあるべきということだ。
さて、ジョンのトランスアイランド滞在も早いものであと少しとなった。
次回は少しずつ見えてきたジョンの未来を紹介しよう。
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伝統的航海術が完成するまでの長い時間に思いを馳せよう。
おそらくそれは、幾たびもの失敗航海とそこに生まれた犠牲者の歴史だ。
必ず帰ることが前提にない冒険は、一方で、無事なる帰還の際に当事者はもちろんのこと、それを迎える民に大きな勇気と夢を与える。
そして、人は数少ない成功体験の中に冒険の精度を高めるヒントを見つけ、その蓄積の中に汎用的な手法、つまりは「術」を編み出す…
今は体系だった航海術も、その成立過程には生身の人間のドラマが無数に眠っている。
それが本来の「観光」の意味するところなのだろう。
小さなカヌーに身を任せ、荒波をのりきった果てに小さな島影を見つけたとき。
同じ危険を再度繰り返して、愛する者の待つ故郷に戻ったとき。
海の民は水平線の先に、まさに大きな光を観たはずだ。
21世紀の水平線の向こうには、幾つの、そして、どんな光があるのだろう?
360度を海に囲まれた島で、僕は今日も未来の光を夢想する。
※この作品はネット小説として20年前にアップされたものです。
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