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108.空飛ぶ博物館

2004.3.9
【連載小説108/260】

チャンギ国際空港で出立前の静かな時間を過ごしている。

午前0時30分発の関西国際空港行きJAL便に充分なゆとりをもって22時に空港入りした。

改めて居心地の良い空港だと思う。

喧騒が常の国際空港であるにもかかわらず、ここでは時間がゆったりと流れている。
優れた観光国家シンガポールは、旅立つ者が最後にその身を委ねる空間にまで手を抜かないということなのだろう。

搭乗手続きを済ませた僕は、大きなミュージアムを見学するかのように空港内をゆっくりと歩き回り、滞在中のあれこれを思い返していた。

そして、ふと思い付いた、あるアイデアのために近くのコーヒーショップに席をとった。
手荷物の中からサインペンとホテルでもらってきたレターセットを取り出し、一通の手紙を書いたのである。

もはやキーボードが身体の一部であるといっても過言ではない僕が、肉圧でもって手紙を書くことは珍しい。

珍しいがゆえにそれは特別な意味を持つ。

電子メールが届かぬ環境の相手が存在するか。
電子メールでは伝えきえない特別な思いやメッセージがあるか。

何れの場合にしても、頭の中で言葉を慎重に選択し整理しながら書く手紙にはキーボードを通じて入力、変換、決定を繰り返して組み立てるデジタル文面にはない情操がある。

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先程、空港のサービスカウンターで投函を済ませた手紙には、eメールの届かぬ相手の存在と手紙でなければ伝達不可能な思いの双方があった。

宛先は、他ならぬ僕自身、それも30年前の少年の僕に対する手紙を書いたのだ。

過去の自分に手紙を書こうなどと思い立ったのは、昨日訪れたシンガポール切手博物館の影響によるものだろう。

20世紀初頭に建築された学校を改装したこのミュージアムには世界各国から集められた膨大な量の切手が幾つかの歴史的切り口で展示され、他の博物館同様不思議な異国情緒と知的体験を楽しめる優れた施設だった。

切手を通じて人類の文明史を考察してみようとする試みは的を射たものだ。

一定の国家に属して時代ごとに発行される切手は、時空の交差地点に位置する歴史の生き証人である。
加えて無数に存在するその一枚一枚が世界中を飛び交って、これまた無数のメッセージを運んできたのだから、その役割は極めて報告者的、若しくは証言者的であるといっていい。

さらに付け足しておけば、切手とは数センチ四方のスペースに表現される優れたデザインワークの産物でもある。

我々は、eメールの登場が奪った手紙文化の大きな要素のひとつとして、このアート性を忘れてはいけない。
その芸術文化性ゆえに切手博物館は美術館にもなりうるのだ。
(この先、人類がどれだけeメールの歴史を積み重ねても、その先に博物館や美術館は登場しないだろう)

僕の心を捉えた一例を挙げれば、航空機をモチーフとした切手の展示ゾーンである。

20世紀前半期には、様々な小型飛行機の描かれた切手が各国で発行されているのだ。
手紙が陸地配送物から海外への航空輸送物へと飛躍した時代を反映してのものであろう。

『星の王子様』を書いたサンテグジュペリがフランスの郵便パイロットであったことは有名な話であるが、軍事目的で発展した飛行機が民間利用へと移行する黎明期において郵便飛行が果たした役割は大きかった。
(彼の『南方郵便機』や『夜間飛行』はその体験をもとに創作された作品である)

安全面における機体の信頼度が低く、短い航続距離に対して受け入れ基地整備が進んでいなかった1920年代から30年代、自らの生命リスクを背負って名も知らぬ人々の手紙を単独飛行で運び続けた当時の民間パイロット。

時には砂漠に不時着し、命からがら帰還する。

現代から見ればかなりの高い確率で失われる同僚の存在。

ひとつの路線が安定すると与えられる新路線開拓のミッション…

以前に、僕の少年期の憧れが郵便配達人と航空機であったことに触れたが、今思えば当時の漠たる浪漫はこれら航空切手の中に凝縮された世界だった。
第20話47話

利便性と効率性を求めることで、現代人の中で「浪漫」は次第に風化していくのだろう。

が、いかに電子メールが進化しても人類が手紙という伝達手段を捨て去ることはないはずだ。

その意味において、手紙とはヴァーチャルへと雪崩込む現代において、リアルな時代の名残を失うことなく我々に繋ぎ止めてくれるある種の抵抗勢力である。

今この瞬間、世界のどこかで誰かが一通の手紙を投函している限り、細々と、しかし朽ちることなく継続する遺産として切手は人類史に対して意味を持ち続ける。

僕が過去の自分に対して書いた手紙という戯れの一通でさえも、その歴史を支える清き一枚なのである。

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搭乗案内がコールされた。

ひとまずはこのミュージアム国家への初訪問を終えることにしよう。

「初訪問」と記したのは、再訪を確信してのことである。

前々回、アジア文明博物館への訪問後、僕は「博物館に佇むことで人は歴史に試される…」というようなことを記したが、シンガポールという国家との出会いそのものが今後の僕を試すことになりそうだ。

こうして、この国に関するドキュメントを残す作家であることにおいて。

トランスアイランドという実験的国家から来た文明観察者であることにおいて。

僕は既に、今同じくこの国を去ろうとする多数の旅人とは異質な存在である。

今回の訪問で得た幾つもの発見と疑問を心と頭に宿したまま他所を巡り、その旅の中で時折シンガポールのことを熟考し、新たな発見と疑問を整理したうえで再び少し次元の高い検証のためにこの場所へと戻ってくるだろう。

もちろん、これは特別なことではない。

旅を人生の住処と決めた僕にとっては転々とした先々の全てに同様の初回訪問があったのだから…

ところで、先程投函した手紙の中身だが、「君の人生という長旅は30年を経て今日も順調だよ…」といった内容のことを書いた。

日本における僕の連絡先宛に送ったから、少し時間をかけて転送されてトランスアイランドに届くはずだ。

島に戻る僕とどちらが先になるだろうか?

------ To be continued ------


※この作品はネット小説として20年前にアップされたものです。

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【回顧録】

博物館マニアを自称する僕にとって、シンガポール切手博物館は特別な存在です。

一見すると切手マニアやコレクターの聖地のような施設ですが、展示される切手の個々をアート作品と捉えれば美術館であり、それらの背景にある史実の多様性を知れば博物館になるわけです。

僕にとって「切手」という存在が魅惑的であるのは、それが手紙に貼り付けられて投函される機能的な役割を持っているからです。
この小さなアート作品は安価であるにも関わらず世界各地を旅することができる「コスパ」の高い存在です。

さらに、切手なくして「送り手」が手紙に記したメッセージは「受け手」に届かないという仕組みには不思議なエージェント性があります。

毎日多数のメールを送る生活に軸足を移して、どれほどの時間がたったでしょう?僕の人生にとって「手紙の時代」より「メールの時代」の方が既に長くなったと思います。

この連載小説の再発信を重ねながら「コトバという価値が随分軽くなったな…」と思うこと多々です。

ここで僕は「利便性と効率性を求めることで、現代人の中で浪漫は次第に風化していくのだろう…」と記していますが、そんな気付きまで風化してしまっているのが現実です。
/江藤誠晃

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