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宇宙樹

宇宙樹    竹村真一  2004年

16世紀後半から17世紀、ヨーロッパでは魔女狩りの歴史があります。これは、自然と繋がり植物の力を活かすことが出来ると疑われる人に制裁を加えたりした歴史です。
自然と共に生きることを軽視し、非文明的のように考える風潮は現代でもあります。
それはなぜなのでしょうか。

この本の最初にルドルフ・シュタイナーの言葉が引用されています。
「太古の人間は植物界を自分の一部分だと思い、
地球を深く愛していました。
地球は人間の一部分である植物を受け止め、自分の中に根付かせ、
自分の成分から樹皮を作り、樹木を覆ってくれたのです。
古代人は物質的環境のいたるところで、道徳と結びついた評価を行ないました。
牧場の植物を前にしたときは、自然の成長する姿を感じただけではなく、
人間の成長力との道徳的な関係を感じとっていたのです。」

治療とは何か、本来の「工」とは、自然との関係性を考える内容でした。

以下、本文からの引用です。

たとえば解剖学者でゲーテ流の形態学の継承者でもあった三木成夫氏は、動物と植物の 形態形成原理(メタ・デザイン)の特質を「内向性」と「外向性」あるいは「閉鎖系(自己完結系)」と「開放系」という対比的な概念で説明している。

まず第一に、生物としての基本的な構造原理を見ると、動物は消化管を内側に囲い込み、世界とのインターフェイスを身体の内部に持つかたちで、「個体」としての自己完結性を高めていった(もっとも、それゆえに内部に取り込んだものをいかに排泄するかという生物学的難題を背負い込むことにもなった)。また、動物においては体液の循環系が、インプット回路では肝臓、アウトプット回路では腎臓という厳重な関所を介して、外界の循環から相対的に遮断・閉鎖されている。
それに対して植物の場合、外界とのインターフェイスである「葉」や「根」は環境世界に完全に開かれていて、植物の身体と世界のあいだに特異的な関所は存在しない。
また、消化器官や摂取対象を体内に囲い込むのではなく、養分と光を摂取する根や葉が外界へと(外向的に)伸びていって、いわば環境に自己を媒介的にさしはさむことによって循環経路を形成してゆく。
つまり構造的には、植物はいわば動物を裏返したようなものなのであり、動物においては内向的にしつらえられている消化管が外側の体表面にむき出しになっている状態というのが、三木氏の提示する端的なイメージだ。

天地・宇宙全体が樹木のからだ―。
樹木は宇宙を自らの内に抱き込んだ、ホロニックな「環」の結節なのだ。
ということは逆にいえば、植物はその身を宇宙の循環経路として貸し与えている、ないしは、ある特別な物質循環のネットワークをもたらす「宇宙的器官」として、樹木は世界に奉仕していると見ることもできるのではないだろうか?
季節がめぐって花が咲くというより、宇宙が“満開の桜”や“紅葉”といった樹木の姿を借りて自らを表現している。
天体の動きに応じて樹液が昇降するというより、それを含めた「水」の宇宙的な動き、その循環プロセス全体が樹木なのであって、その自己展開を水が演じるプラットフォームとして、樹木は自らのからだを提供している。
樹は宇宙が自己成就する「場」なのだ。これが個は世界全体としてしか存在しえないという形で述べた、“メタ樹木”の核心にほかならない。

自然の支配でも、人間の論理の自然界への拡張でもなく、自然というもっと大きな公共空間の中の調停的媒介者(コーディネーター)としての可能性に、人間の高次元を展望する視点―。
そうしたラディカルな人間中心主義の相対化を、ブッダやイエス・キリストの「空」の思想/「慈悲」の思想は胎胚していたように思う。

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