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東京考察厨#01«レンガ伝いの都心散歩(東京~神田)»


 結局、定刻より30分遅れの9時過ぎに、バスは東京駅・鍛冶橋駐車場で僕を解放した。
 蒸し暑さの近づいてくるタイムリミットを、ビル間に覗く太陽が告げる―それも、僕1人に。
 意外かもしれないが、東京駅前はビジネスマンたちが外を動き回る時間でなければ静まり返っている。人の波が群がっていないビル街は、生気を感じさせないのに意思だけが強く空気に漂ってくるようで、なかなか不気味。殺風景とは何もないことよりもむしろ、何もない場所にそれでも何かがあるという確信を指すことがある。文字通り、人を殺しもするのではないかとすら思えてくる。

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 東京駅周りは、それでもただのビジネス街ではない。というか、純粋なビジネス街というの存続が極めて難しいもので、それはビジネス街が要求する利便性は、そっくりそのままビジネスではないものにとってもやはり利便性であるからである。 丸の内口から皇居前にかけての広場は、夜遅くまでを都心に過ごす若者たちの安全基地であるし、僕も僕で八重洲口から歩いて少しのカラオケ店を使ったことがあったり。

東京駅八重洲口前より、南方

 オフィスビルの意向に沿った飲食店の入居や、高架下に誘致された作り物の歓楽街にとって、本来意図していない客はそれでも、利便性に乗っかって集まり、自由と素直さに従って吸い寄せられてしまうものだ。口にせずとも、その棲み分けや排除を意図しているのは、各業務地区の再開発計画の数々や、あるいは看板の無い、のっぺらぼうをしたガラス張りのビルそのものを見れば瞭然である。
 東京駅の機能性が社会の中枢にとって便利なものになればなるほど、それは中枢を担うもの以外にとってもやはり便利であり、制限されないうちは雑多な消費行動が集積していく。ビジネス街の持つ権威に依っているはずの界隈性は、いつの間にかかき乱されてゆく。とても健全なことである。
 (その点完全に近いビジネス街と言えるのは、むしろ大阪のCBDかもしれない。JR線や私鉄があまり入り込んで行かない碁盤の目のエリアは、周囲をターミナル駅や生活者向けの繁華街が砦のように取り囲み、自然な棲み分けを促している。これはなにわ筋線の開通以降、大きく変化してゆくことかもしれない。)

 とはいえ、一等地はやはり権力の独擅場だ。丸の内口の前から北上していくと、視界にはランドマーク性も人間の等身大さも感じさせない、のっぺらぼうの殺風景が広がっている。
 都道402号線に指定されているこの道路は、古くは大名小路と言って、その名の通り江戸時代には親藩の大名屋敷が軒を連ねていたそうな。外堀通りからJRの高架をくぐるのをそのまま、鍛冶橋を渡って外郭へと入域することに重ねてみる。この近辺を巡る精神的な印象は下手したら数百年、変わっていないのかもしれない。階数こそ大きく違え、1区画を1、2個の権力が占めてしまう驕奢の極みが1km、続く。日生、三菱、野村…
 狂気はしかし、大名小路の延長、終点である鎌倉橋で唐突に終わる。日本橋川として現役の水場である江戸城の外濠を北へと渡り切れば、なんでか本当にハイソサイエティからうんと離れられた気がしてくるのが、一駅離れた神田エリアの南辺である。一気に容積率が、そして人をおとなしくさせてしまう威圧が和らぐのを、首都高をくぐって最初に見る景色で感じる。
 1階の間口は1テナント分。コンビニから和菓子屋、不動産会社の事務所まで。様々に凝った戸口の形…古き良き雑居ビル!

 道行く人を建物へと誘う看板の数々が久しいように感じ…そう、さっきまでのうんと巨大なビルは持たなかった、赤や青をしたサインたち。当たり前の物ではないのである、決まった人だけを迎え入れる方がむしろ好ましい建物ばかりだったのだから。
 神田は―と言っても、有名な神保町とは大きく離れた神田駅エリアであるが―都心に最も近い中・低層エリアの一つであり、汎用繁華街であり、地価公示価格も500万円を下回ってくる地域だ。ビルの多くは1960年代竣工。高度経済成長期に続々と立地していたことが窺える。
 言葉で言えば、それはそれで殺風景にも思えてくるが、看板や壁の色、道路に対する凸凹さだけでも生き生きとして見えるし、あるいは古さのマジックによる部分もあるかもしれない。

神田より、都心のビル街

 そして、建物そのものとは少し離れたところで言えば、丸の内にあるような今の巨大ビルの周りはすごく清潔だ。清潔だから、人が歩かなければそこに人がいないのと同じことになってしまう。人がいないと時は流れない。
 に対して、神田はといえば…ほら!晩には客席に並ぶ魚が店先の見世物水槽を泳ぎ、その脇では昨晩の宴の残り物をカラスが突っついている。この街は生きている!何も、田舎のシャッター街のように、人が立ち去ることだけが街を殺すのではない。

  午前10時前の静かな表通りを駅の方に歩いて行くと、黄色のひときわ古びたテントサインを被るカフェ「コーヒーハウス ロフト」がある。東京に行くときは必ず寄るのだが、ここはただでさえ雰囲気の古い神田界隈にあってなお際立つ、少し古びた一戸建ての作りをしている。どうやら近辺に同じような場所は無さそう。そして、古いカフェの中でも、昨今の古いもの好きの風潮からも少し外れた古さである。少なくとも、外から見る限りは…。
 店内はといえば、気の利いた薄暗さをしていて、扉の脇の窓からはグリーンカーテン越しの日光と、焦れて高明度な表通りの路面が覗く。文字通り、都会のオアシスである 。
 ギリギリ10時を過ぎていなかったので、マスターさんにモーニングを注文してから一番窓際の席に座る。学生の身分で生意気だが(そして東京にわざわざ来ていながら)キャピタルシティの忙しない標準の側ではなくて、オアシスに身を置いている時間というのは、とても心地よい。マスターさんが僕のために鳴らす調理音を聞きながら、夜行バスでの10時間の疲れを癒す。ここではただのお冷やすらも格別だ。わかるでしょう?

モーニングセット

  モーニングトーストはマーガリンがたっぷり染み込んだ1枚の4等分と、黄身のしっとり感をちゃんと残した仕上がりの茹で卵、そしてあっさりめのコーヒー。さっきまでは都心の巨塔群と比較し、絶賛していた神田の風景ですら、早くも色褪せてしまうほど。こんな安らげる空間にいて、外界とを隔てる葉っぱは瑞々しく…。
  そうそう、こういう喫茶店のオフタイムって、マスターさんとの会話も楽しいものだ。他のお客さんを待たせない頃合いを見計らいつつ、追加の注文のタイミングで話しかける。 マスターさんもマスターさんで、多分お一人様の大学生は珍しかったのだろう。ちょうど一服が済んで会計していった隣席を片付け、そこに座りだした。じっくり話してくれそうだ。

 結局小一時間、都民目線での東京の小話を含めて、色んなことを教えてくれた。
 外国人観光客の団体さんが来たのを頃合いに、「ロフト」を退店。予想より日はうんと高くなっていて、少し暑い。
 何線に乗ろうかと思案しながら神田駅周りの通りを当てもなく歩く。ここらの高架橋を見かければ延々と続いているレンガ壁は、意外にも最初から鉄筋コンクリートを隠すお化粧としてのレンガらしい。道理でレンガアーチらしき造りには、鉄橋の重さを支えていた雰囲気がまるで無い。
 神田駅付近の最初の鉄道計画は1884年、当時の東京の南北ターミナルである新橋-上野の直結建議において登場する。以降、計画は京浜線と東北線の直通と都心への乗り入れに加え、ベルリンをヒントにした山手線の環状化、更には市街化に対応した高架鉄道として、まとめて実施される運びとなってゆく。
 しかし、予算の都合上、帝都の中心駅たる東京駅と横浜や東海道方面との直結を優先するため、東京駅以北は後回しとすることに。呉服橋駅(仮の東京駅)開業から9年遅れた1919年に、それも中央線が東京駅に乗り入れる途中駅として、神田駅はようやく開業することとなる。秋葉原駅方面と、後の京浜東北線や山手線で結ばれるのは更に6年後の1925年である。
 …失礼、僕はなにも鉄道の歴史を事細かに解説したかったのではない。神田駅周辺の高架橋の話だ。

神田駅付近の高架橋

 建設時期のズレから、神田駅周辺の鉄道には最新技術である鉄筋コンクリート橋が導入された。それでも、レンガアーチの東京駅以南と景観を揃えなくては、と言って橋の側面にペタペタと貼られたレンガを、今目にしているのである。だから逆に、有楽町側の高架は今でもアーチの内側をコンクリートで補強した過程が、外側からも分かる見た目である。両者は一見同じに見えて、実のところ月とスッポンなのだ!
 当時の政府が、いかに帝都中枢の完成度へ精力を注いでいたか。それが端的にわかるエピソードといえよう。

 その鉄筋コンクリート橋をくぐると、鎌倉橋ほどではないが、雰囲気がガラッと変わる。南東側は先ほど見た通り中小の雑居ビルが並び、1階のテナントがコンビニだったり、一杯引っ掛けていく(そしてその材料が水槽で元気に泳いでいる)居酒屋だったりするわけだが。
 多町大通りを西へ抜けると、そこは分かりやすく、ハッキリと「夜の街」なのだ。左側にはカラオケ店。右側はといえば、一番手前に無料案内所!

多町大通り

 ちょうど、大阪の西中島南方も東西で同じ変化を見せるが、この手のダイナミクスは東京において、延々と繰り返されるのだ。凡な居住空間としての街は、都心から数えて何駅も離れたり、川を越えたりしないと現れない。だから千代田区の人口は最小だし、逆に今ある住宅地は何らかの訳で住宅地であり続ける。

 その観点で東京を見るとき、関東大震災は大規模なジェントリフィケーションの引き金として映る。語そのものが生み出される40年も前の出来事であるものの。
 東京という大都市がその機械としての機能を完成させようかというタイミングで発生した大地震。1923年は、さっき見てきた京浜東北線・山手線の開業の2年前である。そして象徴的なことに、東京駅以北はともかく、以南のレンガ橋も大した被害を受けなかったらしい。旧来のレンガ造り建築の多くが倒壊したのとは対照的である。
 後の文豪たちを含む当時の高所得でない東京市民が、安価な家を求めて中央線沿線等へと流出したのは有名な話だが、そのころ政府は後藤新平を旗頭に帝都復興案を打ち出している。計画は縮小されたものの、今にもつながる街路建設や公園造営が、東京市の広い範囲で行われた。
  1920、1925、1930年の国勢調査からは、震災前後でも東京府全体の人口は安定して増加していたこと、そして東京市の人口は17万人減った上に地震から7年経ってもなお10万人少ないままであったことが読み取れる。震源直上の横浜市ですら、統計時点では増加しているのに、である。
  都市生活者向けの住宅供給事業である同潤会アパートの建設も、同潤会本部が併設された虎ノ門アパートメントを除けば、郊外(主に江東五区)を中心に立地。震災前より分譲の計画があった洗足田園都市(東急沿線)や目白文化村(新宿区落合)は活況となった。現在は日本屈指のビジネス街である日本橋だって、震災以前は魚河岸でも栄えていたが、復興以降は築地に移された。

田園調布駅

  明治維新以降、一貫して資本が集まり、多くの賃金労働者を抱えるようになった東京。関東大震災はその職住分離を一気に進め、都心を資本と権力の手に完全に引き渡し、土地利用の版図を確定させた出来事のひとつである。その歴史的評価を下す技量など僕にはないが、鍛冶橋から神田までを歩いた印象、空気感で、当時にも由来する隙間のなさを実感した。これが東京という都市において街同士が連なり、一方では人間同士の接する機会、もう一方では東京という巨体を動かす機械を、人の目で見た実像なのだろう。
 こういった実像が都区内、あるいは首都圏には無数に映されているはずで、僕の東京旅行は専らその拾い集めである。

 時刻は午前11時過ぎ。次に行く街が今、決まった。
 都心に対して副都心、強力で個性的な磁力の泉、渋谷である。

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