「これで世界とつながれる」90年代のインターネット体験
「ああ、これで世界中のひととつながれて、いろいろな情報にアクセスできるんだ。」
初めてインターネットに接続したとき、そんな気持ちになったのを覚えている。使っていたのは、出たばかりのマッキントッシュの Performa で、1995年のことだったと思う。
「ワールドワイドウェブ」(www) なんて、今どのくらいの人が意識して使っているのだろう。インターネットのネットワークは、「世界に広がる蜘蛛の巣」という風に説明されていた。
Performa の取扱説明書には、見慣れないことばがたくさん書いてあった。それでも説明通りに操作していくと、なんとかインターネットに接続することができた。使ったブラウザは Netscape Navigator で、Internet Explorer の登場以前は、ずいぶん利用者が多かったと思う。
電子メールが、はがきやファクシミリ、電話と並行していた時代
インターネット以前、わたしはパソコン通信を使っていた。特別にコンピュータに詳しい人を除いて利用者はまだまだ少数派で、ユーザーは基本的には NIFTY-Serve や PC-Van といったネットワークの中で交信をしていた。今のような共通のメールアドレスはなく、ネットワークを超えて電子メールを送るときには、ユーザー名に特定の記号を加えて送信しなければならなかった。
90年代半ば、旅仲間がほしかったわたしは、雑誌で呼びかけて集まった人たちと旅のサークルを作った。言い出しっぺのわたしは幹事役だったので、メンバーに会合の日時や場所の連絡をすることが多かった。
たしか、パソコン通信をしている人はわたしのほかにはふたりしかいなかったと思う。その他のメンバーには電子メールで連絡できなかったので、ファクシミリやはがきを使い、間に合いそうにないときには電話もかけた。
受信側の設備が違うので、一回の会合の連絡をするのに複数の手段を使っていたわけだ。今なら、携帯メールだけで全員に連絡できそうなものなのに。
インターネット登場。しかし、まだ遠い存在だった
立花隆の『インターネット探検』(講談社)が出たのは 1996 年で、ずいぶんと話題になった。
書影は、講談社BOOK倶楽部から。
全貌はまだわからないながら、図書館に行かなくても、インターネットにある「ホームページ」を見ればいろいろなことがわかるらしいと、新しい時代が来たのをなんとなく感じた。
しかし、このころの勤務先では所属部署に一台だけ、旧式のMS-DOSパソコンしかなかった。記憶媒体にはフロッピーディスクを使っていたころの話で、連絡は電話とファクシミリで、データのやりとりにはフロッピーディスクを書留で郵送していた。
インターネット初期のホームページ
だからインターネットは、家のパソコンを使って少しずつやってみるという感じだった。意味もなく、あちこちの官公庁や大企業、外国のホームページを見に行った。
当時わたしの周りでは、「ホームページ」ということばはそういう使い方をしている人がほとんどで、「公式ウェブサイト」とは言わなかったと思う。開設してあるホームページも、そんなに情報が多いわけでもなかったから、正直なところ、この先どんな風に展開していくのか想像がつかなかった。
調べてみたら、日本で最初のホームページは、1992年9月30日に公開されていたらしい。
「ホームページ」を作ったという友だちもちらほら出てきたけれど、内容は、自分の趣味や活動の紹介が多かった。ブログのように頻繁に更新されているわけでもないので、一通り読んでしまえば、その後何度もアクセスして読むような構成でもないことが多かった。みんなまだ、新しい技術を使いこなせていなかったのかもしれない。
2年ぶりに帰国してみたら「浦島太郎」
わたしの世代では、「マイコン」(「オフィスコンピュータ」に対して、個人のコンピュータをこう呼んだ)、ワードプロセッサーを経てパソコンに行き着いた人が多いと思う。パソコンを、それ以前の機器と決定的に変えたのがインターネットの登場だった。
約 2 年国外にいて、わたしが帰国したのは 1998 年のこと。この 不在のあいだの世の中の変化は大きかった。いつのまにかマイクロソフトの Windows が普及していて、帰国後に就職した団体では、職員ひとりひとりが業務にコンピュータを使っていた。
個人的には「2000年問題」以上の大問題
90年代後半に話題になっていたのは、プログラムでは年が下二桁で表記されている関係で、西暦2000年を迎えると誤作動が起きるという「2000年問題」だった。中途入社したわたしの課題はそれ以前で、少しでも早く Windows マシンに慣れることだった。
新しい職場はホームページの作成を急いでいて、入職して間もないわたしがその業務を担当することになった。あいにくなことに、職場には作業手順を教えられる人がいなかったので、わたしは外部の講習会に通って、ホームページづくりを一から勉強することになった。
浦島太郎は竜宮城から戻ってきておじいさんになったが、わたしの場合は帰国するなりのテクノストレスで、一気に白髪になりそうな思いをしながら21世紀を迎えたのだった。
*見出し画像 Copyright
"Globe" by robinpresta is licensed under CC BY-NC-ND 2.0
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