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その日、わたしたちはバンコクの住人になった

タイは旅行では何度も来ているし、バンコクもなじんだ街だ。
バックパッカーだったころには、ゲストハウスに数カ月くすぶっていたこともある。

けれど、そこには生活が欠けていた。
食事は100%外食、部屋に冷蔵庫もない生活は、南国ではなかなか厳しい。
洗濯こそ自分でしたが、ゲストハウスでは寝具の交換やそうじは人任せ。
いつかタイに住んでみたい、とずっと思っていた。

初めて借りた部屋は、バンコクの中心部から少し離れた、一戸建てが立ち並ぶ閑静な地区にある。
複数棟ある集合住宅の一室で、わたしたちは荷物を解いた。

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ワンルームに台所がついただけの小さな部屋だが、エアコンや最低限の家具はついているから、到着日からなんとか生活は始められた。
その日は簡単に部屋を掃除した後、近くのお店で作り置きのおかずを買って帰り、夕食を済ませた。
ふたりとも飛行機と市内の移動で疲れていたので、到着を祝う余裕もなく寝てしまった。

翌朝は、夜明け前から鳴く鳥の声で目が覚めた。
部屋の窓からのぞくと、目の前の大きな樹に鳥が集まっている。
「あ、リスがいるよ!」
目を凝らすと、リスが枝をつたって走り回っている。
排気ガス臭い大都会なのに、バンコクには意外と生き物がいる。

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まずしなければならないのは、水の確保だ。
バンコクの水道水は飲めない。
住んでいる友だちの中には飲んでいる人もいるけれど、慣れないうちはやめた方が安全だ。
だから、調理や飲料に使う水を買いに行かなければならない。

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買い物ついでに楽しみにしていたのは、朝市。
タイの街には必ず市場があり、スーパーマーケットよりも断然鮮度がいい。
台所つきの部屋に住んでみたかった理由は、料理がしやすいからだ。
夫は、辛いものがあまり得意ではないから、「辛くないと美味しくない」タイ料理はちょっと厳しい。
簡単な調理器具さえあれば、口に合うものを用意してあげられると思った。

6L入りの水のボトルと野菜を買うと、結構な荷物になる。
静かな環境を選んだ分、大通りから離れたところに部屋を借りたから、大荷物のときには少し遠く感じるほど歩かなければならない。
歩くのが嫌いなタイ人なら、迷わずバイクタクシーに乗る距離だ。


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少々困ったのは、この部屋の台所が外にあることだ。
台所には、居間を出て、一度ベランダを経由しないと行くことができない。
日中は30℃を超す暑さだから、部屋に熱気がこもらないようにするためなのだろうけれど、料理を食卓にもっていくまでには、ガラス戸を2回通過することになる。
「おーい、開けてー」
だから、料理をしない方がドアマンのように扉の前に待機することになる。

タイの集合住宅ではガスコンロが使えないので、この部屋も IH だ。
加熱が遅いし火が見えないので、慣れていないとなんだか加減が難しい。
フライパンがちゃんと温まっているのかを確認しながら、料理をする。

洗濯機はない。
別の棟にコインランドリーがあるのだけれど、8階からいちいち洗濯物をもってエレベーターで上下するのも面倒なので、わたしたちは大家さんにたらいを借りて、手洗いで洗濯を済ませることにした。
2時間もあればすぐ乾くから、脱水機がなくても大丈夫だ。

ホテルではないから、そうじも自分たちでする。
タイの家は石の床なので、ほうきをかけてモップで水ぶきをする。
素足で歩くとひんやりとして気持ちいいが、冷房を入れると足からぞくぞくと冷えるので、室内用のサンダルを買いに行った。

買い物に行く、ごみを出す、シーツを洗う、部屋のそうじをする。
ひとつひとつを体験するのが、なんだかとても楽しい。
なにしろ、いちいち勝手が違うから、どうしたものかと思うこともあって、そのたびに夫と相談して、知恵を出し合う。
生活スキルなんて大げさなものではないけれど、少しずつ、ここでの暮らし方を覚えていく。

市場の人たちが、顔を覚えてあいさつしてくれるようになった。
買い物の行き帰りに通りすぎる屋台の人が、毎日声をかけてくれる。
アパートメントの近所の人と、世間話をするようになった。

そこに居所を定めて眺める街は、旅人だったころに目に映るのとは違う表情を見せる。
十年以上一緒にいるから、もう新婚とはいえないのだけれど、バンコクで部屋を借りて暮らした月日は、まちがいなくわたしたちの新生活だった。

はじめて借りたあの部屋で、わたしは、知っているはずのバンコクと、夫の新しい顔を見つけた。


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