#20 帯広 帰還兵
18時過ぎ。ようやく帯広駅前に近いあたりに着き、ホテルを探すためにバイクを停めた。凍えながらなんとか辿り着いたという状況で、安堵したせいか、急に手先がブルブルと震えだした。指が思うように動かず、スマホの操作に手間取る。
ビジネスホテルなら8,000円程度の部屋がすぐに見つかるだろう高をくくっていたが、想定外に満室が多く、選択肢は少なかった。
予約したホテルは、ここから駅に向かって2ブロック先を曲がってすぐだった。すぐ近くではあるが、再びバイクに乗るには、心も体も重い。濡れて冷たいグローブをはめるのも嫌だったし、濡れて太ももにじっとりと張り付くようなジーパンのせいで、バイクに跨るために足を上げるのも重労働に感じた。
ホテルの1階にはカフェ&バーが併設されており、3組の客が温かそうな服装でお茶やコーヒーとともに談笑していた。そのテーブルの横を濡れた合羽のまま通るのは、自分がなんだか場違いな気もするし、床を濡らしてしまい申し訳ないかな、とも思ったが、それをはるかに勝って暖かさに飢えていた。
しかし、向かった先のフロントには、誰もいなかった。
バイクに乗らない人からは、夏にバイクっていいよねなどと思われるが、アツい陽射しを受け続け、信号で止まれば、股下のエンジンは湯たんぽのようである。雨で寒い日は、普段より服を多く着込んで、さらに合羽を羽織る。濡れて風を受け続ければ、指数関数的に寒さが増す。それで寒さとトイレ、道によっては更なる緊張感で、余計に体が硬くなる。指はかじかみ、コンビニか道の駅に着くころには、気分はもはや救急搬送で、一刻も早く治療しなければと、温かいものを含みたくなる。そこに、Tシャツの軽装な客が通路を塞いで通れなかったり、レジを打つ店員の動きが遅かったりすると、苛立ちのあとに、自分だけが場違いであるという気持ちになることがある。今日は、朝からそういうことが続いた。
床を濡らして申し訳ないという気持ちは、すでになかった。戦場から戻ってきたら、そこではのんきに茶会が開かれており、誰からも労いの言葉を掛けられない。人々に忘れ去られ、空虚に立ち尽くす。大陸からの帰還兵か何かのつもりの気分だった。
濡れたバッグを、もうなんの躊躇もなくフロントの足元にある荷物棚に置き、オレは客だが、誰かいないのかと言わんばかりに辺りを見回した。カフェを切り盛りしていた店員がそれに気付いて、慌ててフロントへ来てくれた。辺りを濡らしてしまったことを詫びると、「いえいえ、いいんです。それより大変でしたね」と、店員は言った。
その一言が、今日のぼくのすべてを救ってくれた。すぐに予約を確認しますねと、テキパキと手続きをしてくれた。帯広でも一昨日からの寒さは特別らしく、地元でも不意だったらしい。関東の人でバイクならなおさらでしょう、といった一連のやりとりで、心は満たされていった。
いよいよ、温かいシャワーを全身に浴びられると思った。しかし、それはまだ許されなかった。ホテルの前にひとまず停めたバイクは、駅前の地下駐車場へ停めてくれ、とのことだった。それが殊のほかショックだった。もはや念願でさえあった温かいシャワーを目前にしてお預けにされ、また寒い外に出て、もう一度運転しなければならないのか。これはとうてい受け入れがたく、子供のように足をばたつかせて投げ出したいほど、いやなことだった。
怒りにも似た感情をぐぅっと堪え、ここにバイクを停めたままでよいわけがないよなと冷静に思い直し、今日、これが最後の試練だといい聞かせ、再び外へ出た。ヘルメットを被るときの、耳や頬に触れる冷たさが、なんともいやだった。
地下駐車場へ入る坂は石畳になっており、右にカーブしながら下る。ガタガタとしてハンドルを取られやすいうえに、濡れた石の路面が滑る。まったくバイクには優しくない坂だ。広い駐車場の所どころには、同じような旅のバイクがチラホラと停まっている。ハンドルにグローブや合羽を掛けて干してあるもの、荷物を括っていたゴム紐だけがだらりと下がっているもの。寝袋の下に敷く銀マットなどキャンプ道具らしい荷物は荷台に括られたままのもの。どれもバイクの下は水が滴って濡れている。みんな、何かしらの傷や疲れを負っているように思えた。
客室は新しくきれいだったが、ビジネスホテルとしての本当に最低限と思える狭さだった。一刻も早くシャワーを浴びたかったはずだが、真っ先に向かうべきは、階下にあるコインランドリーになった。夜は外食に出かけたいことを考えると、いま履いているビショ濡れのジーパンを洗って乾かすことが先決だなと、駐車場からホテルまで歩くあいだに考え直した。
それで、部屋着を取り出すためにバッグを開けるのだが、そういうものは一番奥底にある。キャンプの撤収は、最初に寝袋や着替えといったテント内で使うものをしまい、次に焚火や調理道具、ランタンといった外で使うもの、そして最後にテントとタープをしまう。だから、服を取り出すためには、他の荷物を全部出さなければならない。
だから、バッグの中身を出して床に置き、他にヘルメットや脱いだブーツなどがあると、この狭い部屋の僅かなスペースは、足の踏み場がなくなる。
ひとまず部屋着に着替え、ジーパンやシャツをコインランドリーに入れ、急いで部屋へ戻る。エレベーターが来るのを待てず、階段を駆け上がる。
狭いシャワールームは湯気で直ぐに温まった。浴びると、アイスクリームが溶けていくように、体が温まっていった。
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