#19 阿寒湖畔~十勝平野 旅行か旅か

 それから、雨と寒さの苦行はすぐに始まった。R241の阿寒湖から西はなだらかな道で、よくも悪くもスピードに乗る。少しでも早く安堵できる場所に着きたい。しかしスピードが上がれば受ける風も強く、どんどん体温が逃げていく気がする。時速何キロで走るのがちょうどいいのかは分からないが、前をいく車と同じペースで走ると、70~80km/h程度だったと思う。冷たい、寒い、辛い。そればかりだった頭の中は、やがて何も考えられなくなり、道路標識に『オンネトー』の文字を見て以降のしばらくは、雨と森と前を行く車以外に、記憶がない。完全に無思考状態である。
 ひとまずは足寄(あしょろ)の町を目指した。町が近づくにつれ人家や納屋が現れるようになり、前を行く車が連なり、走るペースが落ちた。コンビニでトイレを済ませ、帯広までどの道を通れば少しでも早いか、地図を見る。
 寒い中をいつまでも下道で行くのは辛い。道東自動車道を使うのが一番早く、結果的に楽なのだろう。しかし、どうもそれは悔しい。苦行の旅をするつもりはないが、それでも旅は、安易なルートで目的地に着きさえすればいい、というものでもない。

 旅行と旅の違いだろうか。旅行は、目的地に着いてからどうするか。旅は、目的地までをどうするか。旅行は、拠り所となるような、戻る場所、定まった場所があり、それがないのが旅。泊まる所が宿か野宿か、予約済か現地で探すのか、ということでもない。ある程度約束された安心や見通しがあるのか旅行で、旅は、ある程度以上の不安や未定がある。
 ある程度とは、目的や行き先、期間によっても違う。1週間をかけて国内の知っている場所を巡るのと、例え1泊2日でも初めての海外とでは違うだろうし、その人の経験値によっても違う。小学3年の頃、自転車で1時間をかけて隣町まで行くのは、冒険だった。
 旅行か旅か。とても精神的なもので、多分に曖昧であるが、確かにが違う。ぼくは、旅をしたいのだ。

 足寄から帯広へ向かうのに、まず南下してから西へ向かう右回りか、先に西へ向かってから南下する左回りか。距離はどちらも大差ない。であれば、左回りに行こうとしてしまう。これは本能なのか癖なのか。ふだん、どちらかと言えば左折より右折、左カーブより右カーブを曲がる方に苦手意識があるのも、無意識ながらに関係しているのだろう。
 バイクや自転車のサイドスタンドが左側にあるのは、人の心臓が左側にあることと根本的な関わりがあるような話を聞いたことがあったのを思い出した。

 足寄の町の殆どの建物は2階建てで、見通しのよいR241を道なりに真っ直ぐいくとT字路に突き当たる。その正面にみえる町役場の時計台はひときわ高く、町のシンボルのようにそびえ立っている。道路標識に帯広の文字が表れるが、あと何キロという数字はなく、まだまだ遠い。しかしそれでも、確かにゴールに向かっているという希望が、いくらか湧くような気がしてくる。
 役場前のT字路を南へ曲がり、少し行った次の交差点を西へ曲がると、いよいよ町を外れ、R241は再び森の中へ入っていく。途中に廃墟となったドライブインが現れ、そしてまた森になる。森かと思っていた木々は、いつのまにか防風林に変わり、その奥に牧草地が見える。そしてまた森になる。道はとてもなだらかに下り、前には先頭が見通せないほどに車が連なり、少し退屈するペースで流れる。やがて何も考えなくなり、ただただ延々と走る。

 森がすっかり防風林に変わり、やがて明らかに穀倉地帯とわかる景色が続くようになる。ようやく、十勝平野である上士幌(かみしほろ)へ入ってきたようだった。しかし、雨で視界はひどく悪く、寒く辛い以外に思うところはなかった。
 帯広まであと何キロか。そればかりを気にする。標識では、帯広まで35kmとなった。であれば、60km/hで走ればあと35分で着くはずだと、前向きに言い聞かせた。
 途中、上士幌の道の駅へ寄ろうかとも思ったが、一刻も早く帯広に着きたい思いとで、迷っている間にすっかり道の駅を通り過ぎてしまった。そうやって、コンビニも数軒を過ぎ、休憩のタイミングを逸したまま帯広市内に入った。しかし、いよいよトイレの我慢がならず、給油も兼ねてガソリンスタンドへ寄った。
 セルフ式のGSでは、二人の店員が客の車のタイヤ交換をし、他の店員は暇そうに掃除か何かをしていた。真っ先にトイレへ向かい、その後は、少しでも体温を戻すべく、ノロノロと時間をかけてゆっくりと給油した。それでも、3分とかからずに給油は終わってしまう。荷物の括りに緩みがないか、バイクに傷が付いていないかと、点検をする素振りをして、バイクの周りをぐるぐるとする。じっとしていると寒くてしかたがないのだ。

 もう夕方に近い帯広市内の幹線道路は、混雑していた。帯広駅まであと5分も走れば着くだろうという予想は甘かった。速度は落ち、信号が増え、一度に進める距離は細切れになり、15分はかかったであろうか。この15分程度が、意外なほど辛かった。
 朝からずっと忙しく、ようやく15時過ぎにランチにしようとサンドイッチの袋を開けたのに、電話対応が舞い込んで食べられない。残業を終えて帰ろうとしたとき、客から急ぎの見積書を頼まれ、またパソコンの電源を入れなければならない。そういう、目の前にあって手に入るはずのものがお預けにされるような我慢が続いた。

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