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一人っ子にとっての父親――村上春樹『猫を棄てる』を読んで

一人っ子にとって、それも一人っ子の男の子にとって、父親とはどのような存在なのだろうか。

村上春樹の新刊『猫を棄てる 父親について語るとき』を読みながら、そんなことを考えた。

村上さんは、一人っ子である。そして僕もまた、一人っ子である。そのせいか、村上さんの少年時代は、僕の少年時代と重なり合うところが多い。

兄弟を持たなかったので、猫と本が僕のいちばん大事な仲間だった。

僕にとっても、本がいちばんの仲間だった。子供の頃、一人で本を広げる時間がなにより至福のときだったことを、いまも覚えている。

そして僕にとっては、猫ではなく、犬がもうひとつの仲間だった。ヨークシャーテリアを飼っていた。毎日散歩をするのも僕の役目だったし、一緒に遊ぶのも僕の得意とするところだった。

僕はごく当たり前の家庭の一人っ子として、比較的大事に育てられた。

村上さんと同じく、僕も比較的大事に育てられた。いや、相当に大事に育てられたと思う。甘やかしすぎじゃないの、という声が聞こえてきたくらいだ。

それでも父は、僕を愛してくれた。村上さんの父親が、少年時代の村上さんに、目に見えぬ愛を注いでいたのと同じように。

しかし村上さんは、やがて、父親との間に軋轢が生まれ、最後には絶縁に近い状態になったという。

僕は今でも、この今に至っても、自分が父をずっと落胆させてきた、その期待を裏切ってきた、という気持ちを――あるいはその残滓のようなものを――抱き続けている。

僕の父はすっかり老いてしまったけれど、今でもその関係は良好である。だから、村上さんの父子関係とは、だいぶ違う。

でも、かつて1度だけ、こんなことがあった。

父が僕を甘やかしすぎた結果かどうかはわからないけれど、あるときから、僕は学校へ行かなくなった。そのとき、長く学校へ行っていない僕を前にして、父がふと呟いたのだ。

「俺の育て方が悪かったのかな」

そのときの、悲しみが滲んだような父の口ぶりは、いまも耳にはっきりと残っている。

僕はすぐに言いたかった。

自分が悪いのだ、と。パパは(その頃僕は父のことをパパと呼んでいた)悪くないのだ、と。

でも、その言葉を呑み込んでしまい、言えなかった。

僕は、そのとき言葉を呑み込んだ感覚も、はっきりと覚えている。

そして、思うのだ。

僕もまた、今に至っても、自分が父を落胆させてしまった、その期待を裏切ってしまった、という気持ちを抱き続けているのだ、と。

『猫を棄てる』で最も印象的なのは、やはりそのタイトルになっている、猫を棄てに行くエピソードだろう。少年時代の村上さんが、父親と一緒に、海岸へ猫を棄てに行く。しかし家に帰ると、猫は一足早く、家に舞い戻っていた。そういうエピソードだ。

何はともあれ、それはひとつの素晴らしい、そして謎めいた共有体験ではないか。そのときの海岸の海鳴りの音を、松の防風林を吹き抜ける風の香りを、僕は今でもはっきり思い出せる。そんなひとつひとつのささやかなものごとの限りない集積が、僕という人間をこれまでにかたち作ってきたのだ。

やはり僕にも、父との忘れられないエピソードがある。

それは、夏の北海道へ、家族で旅行に行ったときのことだ。

僕らは美瑛という町にいて、丘の上に立つ一本の木を目指して歩いていた。母は疲れたとかなんとかで、車の中で待っていて、父と二人で歩いていた。

朝まで降っていた雨が止み、僕らの上には澄みきった青空が広がっていた。短い夏を慈しむように、数えきれないほどのトンボが辺りを舞っていて、白樺の林の中では、不思議な鳥たちが美しいメロディーを奏でていた。

やがて、緑の丘の向こうに、一本の白樺の木が見えてきた。あれが、目指していた木だ。

僕は、その美しい丘で過ごした短い時間のことを、まるで昨日のことのように覚えている。青空に浮かぶ入道雲も、風にそよぐ白樺の葉も、はっきりと思い出せる。もちろん、トンボの乱舞も、鳥たちのメロディーも。

それは少年時代の僕にとって、父と二人で過ごした、いちばん幸せな時間だったのだと思う。

村上さんの「猫を棄てる」エピソードと同じく、ひとつの素晴らしい共有体験だったのだ。僕にとっても、父にとっても。

『猫を棄てる』の最後に、村上さんはこんなことを書いている。

いずれにせよ、僕がこの個人的な文章においていちばん語りたかったのは、ただひとつのことでしかない。ただひとつの当たり前の事実だ。
それは、この僕はひとりの平凡な人間の、ひとりの平凡な息子に過ぎないという事実だ。

そしてさらに、こう続けている。

言い換えれば我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。

村上さんはかつて、父親から、戦争中の話を聞かされたという。そしてそれを、その歴史を、自らの一部として引き受けたという。

僕もどこかで、父の思いを、引き受けているのだろうか? 受け継いでいるのだろうか?

村上さんのように明確でなくとも、父にとっての大切な「なにか」を、小さな歴史のかけらを……。

いずれにしても、ひとつだけ確かなのは、「この僕はひとりの平凡な人間の、ひとりの平凡な息子に過ぎないという事実」なのだと思う。世界的な作家の村上さんにとっても、無名のライターの僕にとっても、その事実だけは変わらない。

この『猫を棄てる』を読んで、僕はあらためて、父と向き合いたいという気持ちを抱いている。幸いにも、僕にはまだ、父と向き合えるだけの時間が残されている。

父にも、僕に伝えたい思いが、まだ残されているかもしれない。大事なのは、それを引き受けるための心の準備を、僕がしておくことだ。父にとっての大切な「なにか」を、受け継いでいくために……。

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