ウズベキスタン、年若い車掌からのプレゼント
いま、この記事を書いている僕の手元に、200スムの硬貨が4枚ある。
……といっても、「スム」がどこの国のお金なのか、わからない人の方が多いかもしれない。
スムは、中央アジアの国・ウズベキスタンの通貨なのだ。
この9月、ずっと気になっていたその国へ、1週間の旅に出た。
タシュケントやヒヴァ、サマルカンドを回り、日本へと帰ってきて、かばんの中を片付けていると、不意に4枚のコインが落ちてきた。
そのうちの2枚は、帰りの空港で使い切れずに、余ってしまったスム硬貨だ。
でも、もう2枚は、ちょっと思い入れのあるコインだ。
日本円にして5円足らずの、たった2枚のスム硬貨。
それは、思いがけず受け取ることになった、あまりにもささやかで、だけど何よりも嬉しかった、ウズベキスタンの旅のプレゼントなのだ……。
ウズベキスタンの西の果て、ウルゲンチという町から、世界遺産で知られるヒヴァの町へ、鉄道で移動したときのことだ。
首都のタシュケントで1泊し、飛行機でウルゲンチへ飛んだ翌日だった。
旅も3日目に入っていたが、ウズベキスタンという国に、まだ馴染むことができていない自分を感じていた。
人生で初めて訪れる国なのだ。それも無理はなかったかもしれない。
その朝、僕はウルゲンチの鉄道駅のホームで、ヒヴァへ向かう列車を待っていた。
本来、ウルゲンチからヒヴァは、タクシーやトロリーバスでも行けるくらい近い。
でも僕は、ゆったり列車に揺られてヒヴァへ行くのも楽しそうだと思い、鉄道のチケットを買っていたのだ。
ところが、もう出発時刻を過ぎているのに、列車が到着すらしない。
心配になって、ホームで世間話を楽しんでいる駅員さんに訊くと、のんびりした答えが返ってきた。
「ここで待っていれば、そのうち来るよ」
彼の言うとおり、出発時刻より30分ほど遅れて、何両編成なのかわからないくらい長い列車がホームに着いた。
しかし、タシュケントからはるばる来た列車らしく、大荷物を抱えた乗客が続々と降りてきて、その列が一向に途切れない。
早く乗らないと、列車が出発してしまうのではないか……。
再び心配になって、ベンチに座っていた車掌さんらしきおじさんに訊くと、隣の空いた席を指差しながら、ウズベク語で何か言う。
どうやら、大丈夫だからここに座って待ってなさい、と言ってくれているらしい。
太っちょのおじさん車掌は、僕に興味津々らしく、英語だったりウズベク語だったりで、いろんなことを訊いてくる。
なかでも、日本から来たと僕が話したときは、弾けるような笑顔になって喜んでくれた。
やがて、列車の出発時刻になったらしく、おじさん車掌が列車の中へと僕を招き入れた。
チケットに書かれたのとは全然違う席に僕を座らせると、おじさん車掌は愉快そうに寝台のシーツなどを整え始めた。
ほとんどの乗客はウルゲンチで降りてしまったようで、車内は静かにがらんとしていた。わざわざウルゲンチからヒヴァまで乗る人なんて、僕くらいしかいないらしい。
そんなことを思っているうちに、列車はゆっくりと出発した。
車窓を流れていく風景は、意外にも緑が多く、畑もあれば林もある。こんな西の果てにも美しい緑があることに、思わず心が動かされた。
そんな風景をぼんやり眺めていると、隣の車両から、まだ年若い車掌さんが姿を見せた。
僕を見ると、彼は一瞬不思議そうな表情を浮かべたが、おじさん車掌が僕のことを説明してくれて、日本から来た旅人であるとわかったらしい。
すると彼は、斜めがけにした小さなポーチの中から、何かを取り出して、僕の手のひらの上にのせた。
それは、なんてことはない、2枚の200スム硬貨だった。
日本円にして、わずか5円ほど。独特な虎の絵が描かれている、小さな銀のコインが2枚。とくに珍しいものでもない。
思わずぽかんとしていると、年若い車掌はウズベク語を交えたジェスチャーで、僕の手の中にコインを包ませようとする。
どうやら、このコインを僕にプレゼントしたい、と言ってくれているらしい。
思いがけない展開に、僕の心は揺れ動いた。
でも、理由がわからない。なぜ彼は、特別でもない2枚のコインを、僕にプレゼントしたいのだろう。
彼は英語がわからないし、僕はウズベク語がわからない。スマホも圏外なら、やり取りを見ているおじさん車掌もただニコニコしているばかりだ。
そのうちに、おじさん車掌が僕の手を取って、「いいから受け取りなさい」と言うように、2枚のコインを手の中に包ませた。
年若い車掌はホッとしたらしく、嬉しそうに笑っている。
その笑顔を見て、僕はありがたく2枚のコインを貰うことにした。
たまたま出会った彼が、ウズベキスタンを訪れた旅人の僕を、心から歓迎してくれている。
きっと、いま彼の手元にあった、最上級のプレゼントこそ、この2枚のスム硬貨だったのだろう。
わずか5円足らずでも、こんなにも心が込められたプレゼントはないかもしれないな、と思った。
そのとき、そういえば……と僕は気づいた。
かばんの奥を探って、帰国のときに使う日本円が入った袋を取り出した。すると運良く、その中に5円硬貨が1枚だけ入っていた。
美しい稲穂が描かれた金色のコインを、僕は年若い車掌に差し出した。
「これは僕からのプレゼントです」
今度は年若い車掌が、びっくりしたようだった。
穴が空いているデザインが珍しいらしく、コインの表裏を何度も眺めている。そして、「本当に貰っていいの?」と言うように、僕に視線を向けた。
「もちろん」
僕が頷くと、彼は優しい笑顔になって、5円硬貨を受け取ってくれた。
「サンキュー」
その言葉が、彼の知っている、ほとんど唯一の英語なのかもしれなかった。
愉快なおじさん車掌にも、1枚の10円硬貨をプレゼントしてあげた後で、車窓の風景を見つめながら、僕は思っていた。
これだけ時代が変わっても、変わることのない旅情もあるんだな、と。
偶然出会っただけの、ほとんど会話を交わすこともできない者同士が、お互いの国のコインを交換する。
たったそれだけで、胸の奥深いところで、心が通じ合えたような気がする……。
ふっと、窓から差し込むウズベキスタンの光の中に、心地良く溶け込めている自分を感じた。
年若い車掌から貰った2枚のコインが、シルクロードを旅する僕の心を、そっと解きほぐしてくれたのかもしれなかった。
部屋の机の上に置いたコインに手を触れると、あのヒヴァ行きの列車の中で、ほんのりと心が温まった瞬間を思い出す。
年若い車掌の笑顔、おじさん車掌の優しさ、車窓を流れる緑の大地……。
もしかしたら、わずか5円足らずの2枚のスム硬貨は、ウズベキスタンの旅で手に入れた、最高のお土産になったのかもしれなかった。
旅で余った2枚のスム硬貨と合わせ、封筒の中に4枚のコインを入れて、僕は引出しの奥にしまうことにする。
この4枚のコインを、永遠の思い出にするつもりはない。
またいつか、ウズベキスタンへ2度目の旅に出るとき、この4枚を持って出発するのだ。
いつになるかはわからない。でも、銀色に輝く4枚のコインは、あのシルクロードの国へと、僕を再び連れて行ってくれそうな気がする。
その日まで、ずっと大切にしたい。とくに、年若い車掌から受け取った、美しい2枚のプレゼントは……。
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