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海外体験 期待と不安と喜びと    その1

文字数: 11,817字

読み直して、時系列に関する訂正を一部しています。記憶が徐々に鮮明になってきたからです。実は私は妻との手紙を頻繁にやり取りしていた。そしてその手紙を全てまとめていたのだ。のちに1年間の留学をした時も同じだ。大学ノートにびっしり貼り付けたものだ。ミシガン大学の分が1冊、1年間の時のやり取りが2冊。それを元に自費出版をしたのだ。それなのに、このミシガン大学の手紙は紛失してしまっている。だから間違えるのだ。(2023.5.29)

  前もって

 表紙の画像は、私が1970年にミシガン大学への短期留学のために手にした当時のパスポートの実物画像だ。あちこち探してようやく再発見した懐かしくも頼もしかった大切な思い出だ。いまでは表紙は赤だが、当時は青色だ。

 海外旅行も留学も、とにかく海外体験は時として予想を超える不安に迫られる。これを恐れていては海外体験は面白くない。それらの不安があるからこそ、日本国から出ていくワクワク感が満載されるのだ。
  この記事では、そんな思いもよらない体験を思いつくままに書いてみたいと思う。ただし・・・今まで書いてきた記事の中に既に書いてきたことが再登場することも多々ある予定だ。同じ体験でも書いた記事とは異なる角度から見ることもあるから面白いのだ。書くたびに違う体験をしている錯覚に陥る楽しみが待ち遠しい。
 したがって、一つの記事として書いていくととてもじゃないけれども超大作になりそうな気分だ。そこで考えた。ある程度の量を書いたと思ったら、気分次第で別の記事としてしたためることになる。だから今読んでいただいている「海外体験 期待と不安と喜びと」のタイトルの元、この記事を「その1」とすることにした。
(私の記事はすべてPCを使って書いているので、携帯時代には合わないのかもしれない。事実自分の携帯で自分の記事を読むと読みづらいことが多々ある。できればPCで記事を読んでいただきたいのだが、そんなことは読む人が決めることだ。)

1.初出国の準備

   ・・・ 為替・ワクチン・ビザ等

 私が最初に国外に出たのは(今まで何度も書いたことだが)1970年、大阪万博の年だ。私が26歳の時だ。まだアメリカドルが360円という固定相場だったころだ。私の姉は飛行機で行くには旅費が高いので、横浜港からカナダのバンクーバーへ貨客船を使って渡米したのだ。6人兄弟の先鞭を切って留学したのだ。次に妹、次兄、そして私ということになる。4人がそれぞれ異なるルートで留学体験をすることになったのだ。

 私は大学3年生の時に、アメリカ留学をすることに決めた。教師になって4年目に行くということまで心の中で決意したのだ。これについては「留学ってきつい、楽しい その1」の中に記述している。
 
 留学すると決めたところで、お金があるわけではない。就職して4年目などとは厚かましい。どのように学院長に話そうかと思うだけで気が滅入る。そんなことを書き始めるときりがない。
 とにかく1970年6月に日本を出発することに決まったのだ。目指すミシガン大学からも許可が出た。初めてのパスポート取得に向けた行動が始まった。今のように簡単には進まない。どこから始めたかはもう覚えていない。
 当時はアメリカに持ち出せる円の上限が厳しかった。東京銀行が為替を扱う銀行だったので、さっそく手続きに出かけた。東京銀行は私のために日本銀行とのやり取りを引き受けて進めてくれた。その過程で(私にはもちろん理由はよくわからなかったのだが)東京銀行の方が日銀に始末書的なものを書かされたらしかった。彼と私は二人で日銀まで出向いていくこととなった。
 日銀に入るとすぐのデスクでは数人の行員が各種の新聞を読んでは切り抜きをしていた。二人は部屋に案内されたのだが、そこでのやり取りはすっかり忘れてしまっている。

「渡航費用に関する証明」(パスポート31頁)

 何はともあれ、アメリカドルが無事手に入った。 
 1373ドル、これが私が日本国から持ち出した日本円をアメリカドルに換えた金額だ。当時1ドル=360円だから、493,200円だ。私の給料の1年分だ。これ以外に飛行機の費用が40万円かかっている。中高教員から大学教員に移動したときに、職員室の引き出しを片付けていて旅行社からの領収書を見つけたのだ。私は学校に頼み込んで奨学金として40万円を拠出してもらった。あとは家のお金を一切合切奪うようにして持ち出したのだ。
 為替の問題は何とか片付いてほっとしたのだが、もう一つ身を動かさなければならないことがあった。それは「ワクチン接種」だ。当時はアメリカに行くのでさえワクチン接種が必要だったのである。と言っても現在はコロナでワクチン接種が必要であったことは全世界の人が承知している。

「ワクチン接種証明書」
(自分の氏名と生年月日は黄色くつぶしている)

  この書類は「様式第六の二」の表題以外はすべで英語で書かれたものだ。今までなくさないで済んだのは、検疫所でこの用紙をパスポートに貼り付けていたからだ。だから接種を1,970年5月4日に受けたことが今でも記録として残っているのだ。

 当時はアメリカに行くにはまずホノルルで入国することになっていた。それが終わると蒸し暑い外で安っぽい椅子が並べられた場所でフライトを待つのだ。私の隣には大学生が夏休みを利用してヒッチハイクを企てようとしている、と熱を持って話してくれた。私は怖くてそんなことは考えもしなかった。
 右側の頁(9)には「F-1」(留学)のビザであることが記されている。そして1974年5月4日までの滞在が許可されている。つまり私は5月4日にこのビザを取得したことになる。これは飛行機に乗る前に地域の最も近い領事館で手続きをしたのだ。

パスポートの2~3頁

 この頁からはこのパスポートが発行されたのが1970年3月30日であることがわかる。私の生年月日(消している)は元より男性(MALE)であることも当たり前のように記されている。私の職業が「TEACHER」であることもわかる。私がとても若かったことも顔を変形させていてもわかるのだ。
 ホノルルからは兄夫婦がいるロサンジェルスに向かう。1週間ほど滞在していろいろな場所を案内してもらった。2016年にLAを再訪したときにはその当時連れて行ってもらった場所の多くを46年ぶりに訪ねた。懐かしかった。兄が日本の団体旅行では行かないような場所ばかりに連れて行ってくれたことがよく分かった。文化的な場所が多かった。これも「ワクワク」シリーズですでに記述しているので割愛する。(Huntington Library、UCLA、La Brea Tar Pits Museumなど、自分でもどの記事に書いたか覚えていません。)

2.初 ナイアガラ訪問  

   イ. ちょっとその前に・・・

これはカナダ入国の記録だ

 この項での話は、どこかで書いているはずだ。その記事の中では大雑把にしか書いていないような記憶がある。その折に書かなかった事も書いてみようと思っている。

 カナダへの国境を超えたのは、1970年7月18日と記録されている。用事は何か、何日間カナダにいる予定か聞かれて、ナイアガラ見物だけなので翌日にはアメリカに戻ると答えた。係官は7月20日までの滞在許可を手書きで書いてくれている。上記の写真の中の真ん中にそのことが書かれている。その上と下には、私の日本国からの出国と帰国の記録である。

 当時ミシガン大学に行ったのには理由があった。大学生の時に「英語科教育法」という英語の教え方を学ぶ授業の担当者の影響が大きい。その教授はのちに広島のどこかの大学の学長になった方だ。またNew Horizonという中学の英語教科書の監修責任者をされてもいる。

 授業では80人ほどが受講したのだが、どの時間もとても有意義なものだった。私はその授業の中で急に指名されたことがある。
 「中学生に現在完了の導入をする場面を前に出て実演してみなさい」
 クラスみんなの目が集中する。
 教室の前に出ながら、アイディアを考えていた。
 そのまま教室を出て行った。
 廊下からドアを開けて教室に戻る。
 「I have just opened the door.」
 こんな調子で演じてみたのだ。その締めくくりに板書した。
 そして自分の席に戻った。
 「今の模擬授業は、なかなかいいですね。でも・・・こんな授業をする人は、残念ながら教師にはならないんだよな」
 「先生、私は教師志望です」
 この時の教授とのやり取りは極めてしっかりと焼き付いている。
 この教授は若いころ、ミシガン大学に留学をしたことを授業の中でよく話してくれた。その時にその大学のELI(English Language Institute)で訓練を受けたとのことだった。私はその話を聞きながら、教師になって4年目にそのミシガン大学のELIに短期留学する決心をしたのだった。

 ELIでの授業のことは一応置いておくことにする。
 この項ではナイアガラ行きの話を書くことにしているからだ。
 7月18日は金曜日だったのだと思う。何故ならば、私がミシガン大学のあるAnn Arbor(アナーバー)からダウンタウンデトロイト行きのバスに乗ったのは金曜日の夜5時頃だった。デトロイトに着いたのは7時頃だ。バスは満席で、私は仕方なく通路に座り込んだ。運転手は席がないから降りるようにと私に言った。それでも必死になって通路に座るから許可してくれるようにと、運転手を説得した。多分バス会社の決まりなのだ。その日に行けなければ困るのだ、と必死の説得だ。この必死の説得が運転手を動かすことに成功したのだ。
 ダウンタウンデトロイトから別のバスに乗り換えた。右側の真ん中付近の席に座る。窓側には若い女性と赤ん坊。私の前には若い男性が大きなリュックと共におとなしくしていた。女性はどうやら途中別路線のバスに乗り換えるようだ。私のチケットはナイアガラまでのものだ。
 それよりも不思議だったのは・・・デトロイトを出発する前にドライバーが乗客全員のチケットを回収したことだ。相当な時間が経過してから彼がバスに戻ってきた。そして一人一人に回収したチケットを返してくれるのだ。
 バスは・・・

   ロ. 国境越

 バスはほぼ満席で北に向かって進む。その先には国境がある。とはいえ、それまでにはいくつかのバスターミナルでトイレ休憩や食事休憩をとる。面白いことに、バスターミナルで乗客は全員降車する。ドライバーがそのようにアナウンスするからだ。ついでに乗り場の案内も流れる。よく聞いておかなければ迷うことになる。到着した場所とは全く異なる場所に全然違うバスが止まっているのだ。だからバスがターミナルに到着しそうになる時にはアナウンスにしっかりと耳を傾けなければいけないのだ。私などは初めての長距離移動だから尚更だ。
 おかげでずっと後になって1年間の留学中に、長期休みを利用してNew Yorkへのバス旅行の時には、この時の経験が大いに役立った。
 実際、乗客仲間(と言っても知らない人だが)が降車した場所でおろおろしているのだ。それも一人や二人ではない。老夫婦はほとんどパニック状態だった。「どうしたのですか?」と聞くと、「そういえば、あなたは同じバスに乗っていたわよね。あのバスが見当たらないのよ」とこんな具合だ。
 老人ばかりではない。私みたいなバス旅行初心者に、どこから乗るのか知ってるかい?とおたおたして聞いてくる若者もいる始末だ。私が、今から乗車するバスの待機場所に行くからご一緒しましょう、と言うと、本当に安堵の表情が顔全体に満たされるのだ。
 無事バスに乗り込む頃には、もう辺りはすっかり暗くなっていた。居眠りをしていると、突然真昼間にでもなったかのように明るい場所が目の前に現れた。とても広い場所だ。あちこちからサーチライトに照らされたような場所だ。乗客がそわそわし始めた。隣の子連れの母親が、国境なのよ、と教えてくれた。
 いよいよ初めてのカナダだ。初めての陸伝いの国境越だ。
 バスが停車する。係官がバスに乗り込んでくる。にこりともしないで「Hello!」と声をかける。みんなパスポートを取り出す。そのパスポートを一つずつ見る係官。念入りだ。一人一人に何か問いただすような口調。斜め前に乗っていた若者は降りるように言われた。
 彼は憮然として降りて行った。降りると別の係官が指差しをする。その方向に青年は歩く。少し離れた場所にオフィスがある。その中に消えて行った。しばらくすると、前よりも憮然とした顔でオフィスから出てきた。バスに戻ると、乱暴に頭上の棚からリュックを取り下ろしてバスを降りて行った。私がどうしたのかと聞くと、「アメリカに戻れって!」
 若いお母さんが、書類の不備があったんでしょうね、と気の毒がっていた。
 「彼はどうなるんでしょうか?」
 「知らないけど、たぶんカナダからアメリカに行くバスを待って帰らないといけないでしょうね」
 私は前もってナイアガラに行くかもと、面倒な書類の準備をしていたので事なきを得たのだった。それでも係官から降車を命じられて、例のオフィスに行かされた時はとても緊張した。
 
 もともとナイアガラに行くことには躊躇もあったことは事実だ。調べてみると往復のバス代で2万円もするのだ。前述のように当時の私の給料の1か月分だ。そんな犠牲を払うのは妻に悪い。でも、ここでナイアガラ行きを諦めたら一生行けないだろう。こんな押し問答を何日も頭の中で続けていたのだ。そして金曜日の朝、目が覚めた時に出かける決心をしたのだ。5時間の授業が終わって、そそくさと出かけたのが7月18日(金)というわけだ。

 国境を越えてバスはひた走る。
 カナダでの最初のバス停で隣の母子とは別れることになった。幼子はすでに爆睡中だ。2度と会うことのない出会いだった。
 またバスはただただ走り続けた。
 そして少し広いバス停で停車した。ドライバーに聞くと、ナイアガラに行くならこのバス停で降車だよ、ということだったからだ。

   ハ. 野 宿

 降りると、だだっ広い場所に長いすが4脚あるだけだ。ターミナルとは言えない。建物など一つもない。まさかの場所で降りることになったのだ。一番向こう側の長いすには子連れの母親が座っていた。私はその反対側の端の長いすに座った。一応電気で回りは明るく照らされてはいた。
 (こんなところで野宿かぁ!)
 嫌な予感だ。
 
 LAの兄のところにいたときに彼の知人が話してくれたことが思い出されたのだ。知人の友人がNew Yorkで車を走らせているときに、たまたま赤信号になったので車を止めた時の話だった。窓を開けていた。すると、そのまどから知らない人の手が・・・彼はびっくりしてその手を見ると、ナイフが・・・。そして声がする。
 「金を出せ」
 びっくりした知人の友人は、咄嗟にどうしていいかわからずにいた。ちょうどその時だ。信号が青に変わったのだ。彼は思いっきりアクセルを踏んでその場から無事逃げることができたというのだ。
 その話を聞いたのは、その前日にUCLAのキャンパスを兄と二人で訪れた時に兄がびっくりする話をしてくれた余韻が残っているときだった。
 「今年の春にこのキャンパスで殺人事件があってね」
 聞くと、UCLAのキャンパスでの殺人事件は初めてのことだったそうだ。とにかくアメリカの物騒なことをたくさん聞かされる羽目になったというわけだ。
 兄の知人はさらに私に向かって言うのだ。
 「君はこれからアメリカの東側に行くんだろ? しかも一人で行くんだろ? 気をつけなさいよ。油断するなよ」

 カナダの(たぶん)田舎の長イスだけのバス停で思い出す話ではない。長イスのあちらとこちらで離れて座っているだけで言葉を交わすことのない待合所だ。
 そこに現れたのが、酔っ払いだ。細身のおじさんだ。当時の私は26歳だから、おじさんには勝てそうだと思えた。その酔っ払いがふらふらと私のほうに寄ってきたのだ。
 「アメリカの女は煙草を吸ってやがるんだ。自分の国、ソ連ではそんな奴はいないぜ。どこもかしこも煙草を吸う連中ばかりだ。とんでもない国だ」
 確かに当時のミシガン大学のキャンパスでは、煙草を吸う学生がたくさんいた。私は自分が吸わないから、目につくのだ。男子学生は煙草というよりは葉巻が主流だった気がする。葉巻はそれこそおじさんの年齢の男性が吸うものとばかり思っていたから驚いたものだ。
 酔っ払いはぐだぐだ話し続けた。相手にしていたらいつまで続くかわからないと思い、できるだけ知らぬげな顔をして応答しないようにしていた。それよりも眠かったのだ。
 すると彼は反対側に座っていた母子の方にふらふら歩いていくのだ。危険な行動に見えた。かといってどうしていいかわからない。その女性に話しかける。離れているので何を言っているのか聞こえない。どうせソ連では・・・などとグタグタ言っているに違いないのだ。何かあった時には何とかしないといけないと思い始めて、いろいろと考えていたのだが、しばらくするとおとなしく離れて行った。バスを待っているわけでもなさそうだったのだ。酔った勢いでふらついただけのようだった。
 そのうち、ここで寝ておかないと・・・長イスに横になって寝ることにした。気になりながら・・・きっと、いや、たぶん、眠れたのだと思う。気が付くと空が白み始めていた。それまでは気が付かなかったバスの時刻表が目に入ってきた。始発は6時か7時だったと思う。その時刻になっても私たち以外の乗客は一人も来なかった。
 ついに長イス4脚のバス停にバスが入ってきた。待ちに待ったバスがきたのだ。

   ニ. えっ! この切符じゃダメ?

 無事バス停での「野宿」が終了し、同じ野宿仲間の母子とバスに乗る。ドライバーにチケットを見せると、クレーム
 「このチケットじゃ、ナイアガラには行けないぜ」
 「そんな馬鹿な。デトロイトでナイアガラ行きのチケットを買ったんですけどね」
 「これ見ろよ、行き先が全然違うチケットだぜ」
 愕然とした。チケットを見ると、確かに全く違う地名だ。ところがその地名には覚えがあった。デトロイトで隣の席に座っていた母子の行き先だ。つまり、デトロイトで回収されたチケットがその母子のチケットと私のチケットを間違えて返されていたのだ。
 必死でドライバーに説明をした。
 「そりゃ、困ったな。そういうことがたまにあるんだよ。お前が悪いわけではなさそうだから、とにかくナイアガラまでは乗っていいよ。でも、ナイアガラからの帰りのチケットは買ってもらわなきゃならないな。それで、デトロイトに着いたら、クレームのオフィスに行って文句を言って取り戻すんだ。いいな。それしか取り戻す方法はないからね」
 最初はこわもて風のドライバーだったが、結局いい人だった。丁寧に説明してくれて、ウィンクまでして私を安心させてくれたのだ。
 ドライバーとのこの話し合いの後のことは、まったく覚えていない。チケットのことが気になって仕方なかったからに違いない。ナイアガラからデトロイトまでのチケット代が残っているかどうかが心配だったのかもしれない。何しろ往復2万円だ。給料1か月分だ。その半額が手元に残っていなかったのかもしれない。ただ、寮にお金を残して行くなどは考えられないから、全額持って行ったような気がしている。TC(Travelers Check=旅行小切手)だから全額持ち出しても問題はないのだ。
 最近の旅行では、TCの発行がなくなったので、私は仕方なくクレジットカードを使うことが多くなった。コロナ以降は海外旅行はやめているので、スマホのアプリが横行しているのかもしれない。
 とにかく、私は無事ナイアガラに行くことができたのだ。
 写真はないが(私のカメラは生徒たちのためにスライドフィルムしか入れていなかった)、目にしっかりと焼き付けた。
 野宿したバス停とあまり変わらない殺風景なバス停だった。ターミナルとは言えない場所だ。そこにはいくつかの覗き窓のようなボックスがあって、怪しげだった。近づいてみると、それはアダルトムービー的なものらしかった。
 私はそれどころではないのだ。生まれて初めてのナイアガラに来たのだ。そちらの方が圧倒的に魅力なのだ。
 ナイアガラは眼下に荒れ狂うような勢いで大量の水が流れ落ちていた。音としぶきからなる霧が印象的だった。
 それなのに、私はがっかりしたのだ。
 1か月分の給料と同じ額のお金を使ったのに、それはあまりにも刺激的ではなかったのだ。

 かと言って、そのまま帰るというわけにはいかない。

   ホ. やっぱりね

 まだ朝食前に着いたので、おなかが減っていた。しかしこの日にナイアガラで何かを食べた記憶がない。あるのは、土産店もレストランもなかった記憶だけだ。
 そこら辺をうろついていると、滝の方に降りるケーブルカーが目に入った。1ドルだったっけ。早朝だったせいか、乗客は少ない。もちろん私はその少ない乗客の一人だ。

これは私が写した写真ではない。
現地で購入した絵葉書だ。

 左の高い塔のようなものは、回転レストランだ。1970年に行った時には、実はこのレストランには気が付いていなかった。もしかしたらなかったのではないかと思っているほどなのだ。
 これがレストランだと知っている理由は、1988年に妻を連れて行ったときに、このレストランで食事をしたからだ。残念ながら窓際の席が取れずに、中央付近の席だったので、外の迫力を感じることができなくて残念だった思い出がある。翌年の夏にもここを訪れている。その時も、この回転レストランで食事をした。前年よりも窓際に近い位置だった。少しは迫力を味わえたかもしれない。教え子とその夫にこのレストランの駐車場で合流したのだ。
 結局下に降りるのは、ケーブルを使わなかった。ケーブルの存在も忘れていたのだ。最近の情報をネット検索すると、当時と比べてはるかにきれいになっていた。でもあの安っぽいケーブルカーは心に残っている。
 下に降りてみると、ナイアガラの滝に手で触れることができるほどの感触だ。それで、私は一気に興奮の頂点に達したのだ。お金をかけてきた甲斐があったと深く焼き付いたのだ。
 広~い芝生の緑地帯を歩いていると、向こうの方から横に10人ほどの人が一列になってこちらに向かってくる。近くになると、それが日本人の会社員のようなグループだった。眼鏡とカメラと背広。そういう自分も背広は来ていなかったにしても眼鏡とカメラだ。当時日本人と言えば、眼鏡とカメラだったのだ。大きな声でわいわいおしゃべりをしながら歩いていた。
 私はその時Maid of the Mist号に乗って滝つぼの近くまで行くことにしていたのだ。満員だった。その時に同じ乗客に写真を撮ってもらったのだが、なくなってしまっている。
 下の写真は、自分が写したものだ。このレインコートはゴムでできていたのだと思う。ずっしりと重かった。

 そんなことよりも、このレインコートが臭かったのだ。汗が腐敗したようなにおいだ。何度息を止めてみたことか。誰もそんな話はしない。滝つぼで船が滝に向かった状態でしばし停滞する。写真を写すことに精一杯なのだ。 今はカナダ側とアメリカ側(アメリカ滝付近)に乗船場所があって、それぞれから船が出て帰る。1970年の時はカナダ側で私は乗船して、その船がカナダ側に川を渡って客を乗せるのだ。滝つぼから帰るときは、最初にアメリカの客を下船させ、カナダ側に戻った。その頃には乗客同士仲間意識が生まれていた。初めて会って、その後二度と会うことはない人たちだ。
 妻と行った時には、船は怖いというので、滝つぼの裏側から覗くというアトラクションを楽しんだ。細長いトンネルのような窓から時折吹き付けてくる水の勢いに、当時は透明のレインコートに変わっていた。しかも、持ち帰れるというので、大切な自分への土産のつもりで持ち帰った。雨の日に犬の散歩をするときに利用したくらいで、そのうちに捨ててしまった。

   ヘ.  クレームを忘れるな!

 一日歩き回って楽しんだ。再度ケーブルカーのお世話になる。今度は上に上るのだ。あの殺風景なバス停だ。ボックスに入る人はいない。長イスに座ってバスを待つ。
 バスのドライバーにまたもやチケットの説明をしないといけない。朝のドライバーはチケットを回収しなかったので、それを見せながらの説明だ。結局アナーバー(Ann Arbor)までのチケットを買う羽目になってしまった。覚悟はできていたのだ。
 帰路のバスは記憶にない。疲れ切った体を休めていたのだろう。ぐっすり眠った記憶しかない。一度だけ、トイレ休憩の時間にアナウンスを聞かないまま降車して不安だったことがある。その時は同じバスに乗っていた人の後ろをついて回る怪しい東洋人になれば済むことだ。そのおかげで無事デトロイトまで帰還できたのだ。
 デトロイトはもう薄暗かった。早く乗り換えなければミシガン大学に着くころには真っ暗な道をこわごわ歩いて寮に帰らなければならない。焦る心が不安をかきたてる。
  バスを降りるとすぐにクレームオフィスに出向いた。そんなに人はいないだろうと思って行ったのだが、びっくり・・・! 長蛇の列だったのだ。ざっと見ただけでも2,30人も並んでいたのだ。ところが予想に反してその列はどんどん前に進んでいくのだ。30分もすれば(私の中では1時間はかかると思っていたのだ)あと2人くらいで自分に回ってくるほどだ。そしてついに自分の番が・・・。
 係官に前日からのチケットに関する話をしようとした。すると彼は何も言わずにいちまいの書類を渡してきた。
 「これに必要事項を書き込んで郵送してください」
 こんな丁寧なことばづかいではなかった。書類を渡すというより、私に向かって投げるという感じだった。私がそれでもっクレームを伝えようとしたのに、「次の人」
 横によけて書類に目を通してみた。
 確かに書類に書き込めば、私のクレームは伝わりそうな気がした。
 急いで大学方面行のバス停を探して乗り込んだ。
 次の日に最初にしたのは、書類をポストに入れることだ。
 私はこういうことに関しては、原則的にアメリカを信用していない。案の定、それから何日たっても何の音沙汰もなかったのだ。イライラして、寮の部屋にある電話から問い合わせをしてみたこともあったが、収穫は何もなかった。
 そのうち、そのことが頭の中から消えて行くのだ。
 留学もあとわずかという頃、私は急にクレームの件を思い出した。大学を去る時期が迫ってきたからだ。しかし問い合わせても何の返事もないままに時間だけが過ぎて行ったのだ。さすがアメリカだと心の中であきらめる気持ちになり始めていた。
 ところが帰国3日前になって焦りの気持ちが迫ってきた時、最後の授業を終えて寮に戻った。戻るときにはいつもすることなのだが、自分のポストを見た。そこには封筒が一つ、ポツンと入れられていた。
 取り出してみると、バス会社の封筒だ。
 急いで部屋に入って開いてみると、その中には小切手が入っていた。私のクレーム額よりも上回る金額が書かれていた。さっそく急いで銀行に出向いた。
 今では日本でも当たり前になっているが、当時としては私には画期的なことを目の当たりにしたのだ。それは、いくつかある窓口に、客が順番に行けるように並ぶ場所が決められていたのだ。1か所で並んで待ち、終わった窓口にその順番で行くのだ。アメリカの平等性にいたく感激したものだ。
 窓口に行く順番が来て、その小切手を監禁できたのである。
 寮に戻ってから、ナイアガラまでのバス代を計算してみて驚いた。私が費やした金額よりもさらに多くのお金が手に入っていることが分かったのだ。それはデトロイトで私の隣にいた母子が損をしたことを意味したように思えた。よくわからないが、儲かってしまったのだ。

3. 帰路の事件

 実はミシガン大学から日本への帰路も、不安の数々が待ち受けていた。それをつらつらここに書き綴る気持ちになっていたのだが、おおよその部分はすでにどこかの記事(例えば・・・「ワクワク ガックシ ルンルン一人旅」シリーズ、「留学ってきつい、楽しい」、「私の旅日記とその周辺」)に書いた気がしているので、やめることにした。
 簡単に記してみると、キャンパスからシアトルまでの(飛行機会社のストのせいで)どローカルフライトで何度もローカル空港に着陸・離陸を重ねたせいでスーツケース行方不明事件、シアトルの港での朝の散歩での酔っ払いに絡まれ事件、ハワイでの兄嫁との散策事件?+カウアイ島の実家訪問など・・・。

 というわけで、「海外体験 期待と不安と喜びと その1」は終了いたしました。

  

        完 

          ( 2023.6.3 )





 
 


 


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