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私の旅日記とその周辺

文字数: 20217字


1 孫息子との旅断念

漸く記事を追加できます。別の用事がいろいろあって休ませていただきました。本当は別の記事を書くつもりでしたが(文も既に用意されています)、この記事から書いてみる気持ちになりました。 2022.10.2

この1は数年前に書いたものです。

 孫が中学生になる。私は75歳で、3月には76歳という年齢を迎える年である。
 そろそろアメリカ旅行は終わりにしなければならない年齢かもしれないと思うようになっている。これが最後の年になるかもしれないと、ふと心の中で思っている。
 自分がアメリカと触れたのは孫と同じ頃のことだった。と言っても、実は小学校6年生になったばかりのころの出来事だ。今でも鮮明に記憶の中に焼きついている。5年生の3月に私は転校をしたばかりだった。その4月には、アメリカ人宣教師が数家族引っ越したばかりの教会にやってきたのだ。と言うことは、私はまだ5年生だったのかもしれない。春休み中の出来事だったのかもしれない。とにかく、鮮明に覚えているのは近くの公園でアメリカ人の子どもたちと遊んでいた自分の姿だ。
 何とその子どもたちが一人残らず英語を話していたのだ。それなのに、私とは日本語で話しながら遊びまわったのだ。衝撃だった。自分は日本語しか話せないのに、彼らは外国語を話していたからだ。何を言っているのか分からないのだが、独特の抑揚がその言葉の中にうじゃうじゃしていたのだ。私がぽかんとしていると、その親が私に日本語で説明をしてくれるのだった。
 私にとってはとてつもない経験だった。その後の私の人生を変えるような事件だったのかもしれない。
 今にして思えば、戦争が終ってまだ10年か11年しか経っていない頃だ。だから、その公園に外国人がいること自体が驚くべき景色だったはずだ。近所の人たちとはまだ顔見知りではなかったはずだが、彼らは私の家族に驚いていたのかもしれない。私は子供心にその人たちに誇らしげな気持ちでいたのだった。
 実は私はそれまでにも父に連れられて東京に行ったことがあった。自分の記憶が間違っていなければだが、多分35時間くらいかかって行ったのではないかと思う。父が兄と私を連れて行ってくれたのだ。
 学校で毎年のように調査があった。テレビがある人?ラジオがある人?洗濯機がある人?などと言った生活に直結した調査だ。私はいつも手を上げるチャンスがなかった。多くの友だちも同じだったのだが、心のどこかで恥ずかしいような気分になっていた。しかし、たった一度だけ手を上げるチャンスが用意されていた。
 先生が調査の最後のほうでは必ず「東京に行ったことがある人?」と聞いてくれるのだ。私はだれも手を上げる友達がいないことを知っていたので、誇らしげに、しかし恥ずかしそうにそっと手を上げるのだった。どこを歩いたのか良く覚えていないのだが、どこかのごみごみした高架下を歩いたこと、自分の町とは異なる色合いのちんちん電車が走っていたこと、生まれてはじめての地下鉄に乗ったこと、地下鉄なのにいつの間にかデパートらしき建築物の3階か4階の駅で降りて頭の中がパニックになったこと、などなどの記憶がそのたびに甦った。東京では父が外国人と話すのを父の手を握りながら聞いていたのだ。父が凄く大きく見えた時間だった。
 孫をアメリカに連れて行きたいと思ったのは、同じような体験をしてもらいたい気持ちからだった。小学校では英語の授業があり、中学でも同じチャンスが用意されている時代になっている。テレビでは「YOUは何しに日本へ?」(Why did you come to Japan?)という番組まである時代になっている。その気になれば英語はどこにでも溢れている。
 だからこそ、孫をアメリカに連れて行きたいと思ったのだ。じかに生の英語を耳にする機会を用意したいと思ったのだ。現場の英語は学校で耳にする英語とは異なる耳障りな外国語だと言うことを経験することで新鮮な興味がわくのではないかと期待していたのだ。
 しかし、その一人の老人の期待を見事に打ち崩す存在に翻弄されることになってしまった。犯人は「コロナウィルス」だ。
 私はそれまで妻が亡くなってからは毎年のようにカナダやアメリカに一人旅をしていた。妻を連れて行けなかった残念な気持ちを一人旅にぶつけてきたのだ。 
 2020年1月がきた。夏には孫を連れて本人希望のロサンジェルスに連れて行く気持ち満々だった。市役所でパスポートの手続きをし、早速ネットでLAまでのフライトチケットを予約した。そしてハリウッド地区のホテルの予約も滞りなくうまくいった。あとは出発予定の夏休みを待つだけだ。
そこに降ってわいた事件が新聞を賑わす。コロナ騒ぎの始まりを告げたのだ。チケットとホテルの予約を終え、料金全額をネットで支払った途端の出来事だ。とんでもない話だ。
 しかし私は事件の鎮静化を待った。待てど暮らせど治まらないコロナ。それでも忍耐強く待った。4月になり、5月が来た。それも過ぎると6月が来るのは当然の成り行きだ。6月ともなるとさすがに不安になる。予定の日程は7月だ。夏休みが始まるとすぐの日程で出発となるのだ。この頃には海外への旅行は困難を極めていた。キャンセルが不通になっていく。
 そこで私もようやく重い腰を上げることにした。ネットでチケットを購入した会社との連絡を試みたのだ。フライトチケットは「払い戻し無し」の契約なのだ。ホテルはどうにかなりそうだ。
 チケットを発行した航空会社への連絡をしなければならない。払い戻し無しとは言っても自分のせいではない。必死の訴えが始まった。払った料金の一部でも取り戻さなくてはとの思い。何しろ二人分だ。
 結局は必死の訴えが実ることになる。ホテルの料金も全額戻ることになったのだ。だからと言って安心はできない。何故なら、相手は日本ではないからだ。入金が認められるまでは安心などできるわけがない。そして1か月以上待つことになる。そしてついに貯金通帳に支払ったと同じ額の入金を確認することになった。
 それにしても孫を連れて行くという夢ははかなくもついえたのだった。2022年11月になっているが、未だに実現していない。
 

2 恩師の熱意

 私が初めてアメリカへ行くことを決めたのは、大学3年生と時だった。教職課程を履修していた時だ。その課程の一つの教科に「英語科教育法」なるものがあった。その教科の担当教授がK教授だった。後に『New Horizon』を監修なさったのではなかったかと思うが記憶は曖昧なままだ。

 その先生が90人ほどの大勢の学生に熱意を持って、英語の教え方を教えてくださったのがきっかけなのだ。とは言え、当時アメリカに行くには船で行くしかない時代だった。もう一つのきっかけは、姉がその船で留学をしていたのだ。バンクーバー港に着いた姉は、そこからバスで南下して、学費を援助してくれるF夫妻の待つシアトルへ行っていたのだ。共働きだった夫妻の三人娘の面倒を見るという条件だった。1年後には姉は他の大学に移り、妹がそのあとを引き継いだ。その間すぐ上の兄が同じ大学にいつの間にか留学してシアトルに行ったことが、私の留学の夢を膨らませてくれたことは間違いない。

 しかし、K教授の授業がなければ、私の留学への夢は果たせなかったはずである。教授は自分がミシガン大学での留学で何を学んだのか、アメリカとはどんなところなのか、英語とは何と奥が深いのかということを毎時間語ってくれたのだ。私は日本語の方が奥が深い、と思いつつも先生の言葉に魅せられてしまっていたのである。

 アメリカに行くなら、Ann Arbor, Michiganと決めたのはK教授の授業中だ。そして、教師になって4年目にはどんなことがあってもミシガン大学のK教授も学んだことがあるELIでの短期講座に決めたのも授業中だった。当時は留学するためには、現在のTOEFLではなく、ミシガンテスト(100点満点)の結果を要求する大学がまだ大勢を占めていた時代だ。そして私はその決断どおりに教師となって4年目に許可を得て3ヶ月間のアメリカ滞在の素晴らしい体験をすることができたのだった。

 大学を卒業してから、K教授にお会いしたのは、同じ大学の先輩であり、仕事の同僚であったA氏から誘われてK教授を囲んでの食事会が初めで終わりだった。某大学の学長を引退したことを記念しての食事会だった。K教授が私を覚えているはずはなかったので、自己紹介もしないままその時間を過ごしたことを覚えている。その折にも熱心な講義を聴いているような懐かしい時間を過ごすことができて、有意義な時間だったことを誘ってくれたA氏に感謝を告げた記憶がある。

 私はこんなことを書くために自費出版で本を書こうと思っていたわけではなかった。もっとどうでもいいような内容の旅の話を書こうとしていたのである。私が今若ければバックパッカーのような旅を企てたかもしれない。しかし当時はそんな恐ろしいことを計画するなど考えも及ばないことだった。
 私の初めてのアメリカ旅行は飛行機代金だけで40万円もしたのだ。当時の給料が3万円に届かなかったのではないかと思う。いや、もっと少額だったかもしれない。つまり、年収に近い金額が飛行機代として飛んでいったことになる。長男が生まれた同じ年に無謀にも有り金全てを投入したようなものだ。でも、今にして思えば、その無謀な投入は私の人生を豊かにしてくれたことも事実なのだ。

 そのことが孫をアメリカに連れて行こうと思った動機付けなのだ。

それなのにコロナは私の思いをつぶしにかかったのだ。私にはこのウィルスに対抗する術はなかったことが残念で仕方がない。

 (自費出版の本は1500冊印刷して完売済み。手元にあるのは自分用の2冊のみ)

3 お金

 そもそも私の最初のアメリカ旅からして無謀極まりないことこの上ないものだった。旅費の40万円すらなかったのに、ミシガンでの8週間の寮費は勿論、授業料すら整ってはいなかったのに、生まれて間もない子どもを抱えた妻にミシガン行きを公言してしまったのだ。私にはお金がないことは明白で、最初の「神様、どうしてくれるのですか?」という問いかけが私の心の中をうごめいた。
   (注:この記事で私は「教会」とか「神様」とかいう言葉をほぼ初めて用いている。私が用いているこれらの言葉は純然たる「キリスト教」に関するものとして用いている。昨今いろいろなニュースで取りざたされている物とは根本的に異なることをここでは明記しておく。誤解を避けるために・・・。)

 天からお金が降ってくるわけもないので、自分が動くより他ないことは自覚していた。私立の学校に勤務していたので、その学院の院長室の扉をアポイントメントも取らずにノックしてみた。さすがに緊張した時間だ。ノックの音は当然弱弱しいものだったと思う。ところが、部屋の中から「どうぞ」というかすかな声が耳に届いた。恐る恐るドアを開けると目の前の机に院長が座っていた。顔を上げた院長は細身のすらっとした優しげな雰囲気をかもし出していた。

 留学したい旨の相談を始めると、意外なほど話に乗ってくれて、国の奨学金の取り方や学院として出せる金額を提示してくれたのだった。当然ながら私の希望した3ヶ月という期間、学校を離れることを事もなげに快諾してくれたのだ。院長から聞かされた手続きの方法や、事務室との交渉等、すぐさま開始されることになったのである。

 とは言え、予定の金額の半分はメドが付いたものの、自己資金はメドどころか何の見通しも立っていなかった。それでも、私は短期留学、夢にまで見たミシガン大学への旅がスタートを切ったことを実感する一日となった。英語科の主任や校長への届けをし、私の人生最初の海外への旅の準備が秘密裏に始められた。そのことを妻に話すと妻が密かに貯えていたお金の話をしてくれた。彼女が話してくれた出せる金額はまさに私の留学に必要な残りの金額に見合うものだったのである。

4 穴の開いた授業

 それからの1年間は準備に追われた。
 校長からは、担任はどうしたいかと問われた。「できれば担任はさせていただきたいのですが。いない間の教員を決めていただけると助かります」
 校長はO氏を私がいない間の担任教師と決定した。
 それよりも、私がいなければ授業に穴を開けることになる。その穴埋めをどうするかが難題だ。どこをどうしてどうなったかはすっかり忘れてしまったが、妹の高校時代の同級生が引き受けることになったのだ。私自身は知らない人なので顔を見たこともない。未だに見たことがない。優秀な人だということは妹から耳にしていた。
 帰国してからのことだが、後々妹から聞いたことがある。その友人が「生徒が分からない」箇所を質問されるたびに、生徒たちが「分からない」ことが彼女には「分からない」と言っていたというのだ。きっと彼女は優秀であるがために、分からないという経験がなかったのだ。
 そこが私とは大きな違いだ。私は分からないことだらけなので、生徒が分からないと質問して来れば、「そりゃあ分からないよな」と思えるのだ。そして自分が分からなかった時に、どのようにして分かるようになったかを話せばいいだけの話だ。
 それで生徒があんな手紙を留学先に送ってくれたのだ、と思い立った。
 「先生、早く帰ってきてください。授業が分からないです。急いで帰ってきてください」
 手紙にはそのようにしたためられていた。
 封筒の中身は厚かった。担任代行の教師が気を利かして、みんなで寄せ書きをしようとなったのだろう。それともあのクラスの生徒たちのことだから、生徒の方から提案したのかもしれない。
 その手紙を読んでいる当の私は、留学先で必死の勉強をしていたのだ。帰れるわけがない。奨学金までいただいて、その上、自分の家のお金を全部持ち出しているのだ。身につけられるものは全て実となって持ち帰らなければ意味がないのだ。
 そんな手紙を書いてきた生徒たちは、実は優秀な生徒たちだったのだ。
 その生徒たちの優秀さが表れた事件を次の「5」で話してみたい。

5 飴事件簿

  帰国してからの話がある。私の留学とは全く無関係なことだ。
 3学期のある日の昼休み、総務(いわゆる学級委員)が二人で職員室にやってきた。えらくしょげた雰囲気だ。
 「先生、今日〇〇先生から叱られました。休み時間にクラスの一部の人が飴を食べていたんです。それで担任の先生のところに行って、その話をしてきなさい、って言われました」
 私はその話を聞いて、卑怯な教師だ、と思った。自分が見つけたのなら、その見つけた時に叱るべでなのに、と心の中は生徒に対してよりも教師に対して腹を立てた。
 「その話は放課後にクラス全員で考えよう」
 というわけで、放課後になった。
 放課後と言えば、終礼がある。それが終われば、生徒たちは学校とはおさらばできる。しかし、教室に入ると「し~ん」としていた。実は私は学校一の怖い教師だったのである。
 私は飴ごときで大騒ぎするな、と実は思っていたのだった。しかしそれとは全く逆の作戦を実行した。生徒の予想を外すのが私の流儀なのだ。
 「今から私が言うことをした人はその場に立ちなさい。周りの様子を見ないように、自分の意思だけで立ちなさい」
 生徒たちは言われもしないのに、下を向いた。中には目をつぶるものもいた。
 「今日、家から飴を持って来た人」
 2,3人が静かに立ち上がる。
 「飴と言わず、菓子類を持って来た人」
 更に数人が起立する。
 「それをもらって食べた人」
 ばらばらと立ち上がる。あちこちで音がする。人数が一気に増える。
 「友だちがお菓子などを持って来たのを知っていた人は立ち上がらないで、手をあげなさい」
 「手を挙げた中で、持って来た人に注意しなかった人は立ちなさい」
 もはや全員が立つ羽目に至ったのだ。
 「目を開けなさい」
 目を開けると、全員が立っていることに気が付くしかけだ。
 「今からこのクラスをどうしたいのか話し合いなさい。話がまとまったら職員室に総務が呼びに来なさい」
 私は職員室に戻った。戻る時、教室の周囲には隣近所のクラスの生徒たちが様子を見ようとしていた。私が出てくると、急いで素知らぬ顔をした。
 職員室で、私は仕事をしていた。

 その後、高3の担任となった。高1の時と生徒たちは殆んど同じメンバーだ。
 「先生、高1のときの飴事件、あの時の先生のしかり方、最高でした」
 これは高校を卒業する少し前の時だ。ある生徒がわざわざ言いに来たのだ。そして、「あれ以来、私たちはほかの事でもみんなでお互い注意しながらだったから、楽しい3年間でした」と言ってくれたのだ。「違うクラスに行っても、注意しあわんといけんのよ」と協力を呼びかけたら、他のクラスでも言うことを聞いてくれたりして、それが楽しかったんです」
 私はこのクラスの生徒たちは、やはり優秀だと感謝の気持ちが持てた。心の中が優秀なのだった。

6 自分で叱れない教師の話

 こんな話は枚挙にいとまがない。
 ある朝学校に行く。私は早く出勤するので、まだ生徒はまばらだ。
 教師はすることがいくらでも湧いてくる。本気で教師という仕事をするといくらでも湧いてくるものなのだ。
 机に向かって仕事をしていると、何やら気配。ふっと振り向くと、一人の生徒がしょぼんとしている。朝っぱらからしょぼんはないだろう、と思うのだ。
 「〇〇先生」(〇〇は私の名前だ)
 「どうした?」
 「あのー」
 言い淀んだその顔が、元気を失っている。
 「どうしたの?」
 「あの、昨日の放課後・・・」
 はぁ、放課後どこかで教員に捕まったな、と思う。
 「××先生から、朝一番に職員室に行って○○先生に叱られてきなさい、って言われたんです」
 案の定だ。
 「え?何をしたの?」
 「△△のモールで入ってはいけないところに入ってしまったんです。それで××先生に見つかって・・・」
 「なるほどね。分かったから教室に戻りなさい」
 「え?先生、叱らないんですか」
 「なんで私が叱らないといけないの?」
 「だって、××先生が叱られてきなさいって・・・」
 「じゃぁ、もし××先生にどうだったかって聞かれたら、○○先生にすっごく叱られました、って言っときなさい。もしその先生に私にどうでしたか?って聞かれたら、こっぴどく叱っておきました。しゅんとしていました、とでも言っておくから・・・」
 「そんなんでいいんですか?」
 「叱られないと気が済まないの?」
 「いや、そうではないですが・・・」
 あきらめの悪い生徒だ。××先生が怖いのか私が怖いのかどっちかにしてほしいものだ、と思いながら話してみた。
 「昨日、△△のモールで見つかってこってり叱られたんでしょ?」
 「はい」
 「しかも家に帰ってから○○(呼び捨て)に朝おこられにゃいけん、どうしよう・・・と思って眠れなかったんじゃない?」
 「はい」
 「それで十分じゃないの。それどころか、必要以上に怒られてるじゃない。私はその現場を見ているわけではないし、その先生が既に叱っているわけだし、私は□□さんに腹を立てているわけでもないし、夜も眠れないほどの目に遭って、可愛そうなだけ、と思っているから、その先生に文句言いたいくらいだね」
 「え、本当にいいんですか」
 「本当にほんとだね、早く教室に行きなさい。早く来て良かったよ。人に見られないですんだから。大丈夫。またその先生に昨日のことで叱られたらその時はまた話してね。その時は私がその先生を怒っておくから・・・」
 話すうちに生徒の顔が明るくなっていくのを見るのは心地よい。朝からいい日よりだ。
 その生徒に昼休みに廊下ですれ違った。私がニヤッとすると、その生徒はニコッと返してくれた。すがすがしい朝を思い出した。

7 そろそろ留学の話に戻らなきゃ

 実は留学の話は既に記事にしている。
 「留学ってきつい、楽しい その1ーその2」がそれだ。「その1」にはこの記事に書かれている最初の留学が画像入りで書かれている。だから重ならないように書かないといけないプレッシャーが私にはある。
 「その1、その2」は共に「筆者のオリジナル長編物」というマガジンの中に収められている。マガジンという言葉に私は迷わされてきた。要するにマガジンはいくつかの記事の集合体(雑誌)なのだ。気にしない、気にしない・・・!(私は分かるまで気にしまくっていた)

 さて、初めてのアメリカの空は薄暗かった。と言っても本当はそうでもなかった。本当の初めての空は、ホノルルの空だったからだ。
 当時の日本発のフライトは全てホノルル経由だ。たぶん、燃料のせいだと勝手に思っている。
 ホノルルいいな、と思われるかもしれないが、記憶は薄い。
 汗、汗、汗。生ぬるい空気、生ぬるい空気、生ぬるい空気。
 税関を抜けると、待合所への案内があった。それに従って歩くと、空港の建物から外に出る。一面コンクリート。そりゃそうだ。空港なのだから。
 ホノルルの待合所は暑かった。そりゃそうだ。コンクリートからの太陽熱の跳ね返りが直接襲ってくるのだ。
 照り返し。照り返し・照り返し。
 頭の上からはしっかりと熱せられた空気が我々を押しつぶそうとしていた。目をあげると、待合所の屋根は今式に言えば、アクリル板だったのだろうか。その当時、私の中にはアクリル板という単語はない。プラ板?そんな言葉もなかった気がする。要するに、太陽熱を増幅させる設備なのだ。
 汗、汗、汗。照り返し。照り返し・照り返し。空気が生ぬるい、生ぬるい、生ぬるい。
 順番に座った椅子は、今でもよく見かける鉄パイプの折り畳み椅子。長い時間座って待つには不適切。じっとり、じっとり、じっとり。待っても待っても永遠に次の行動を開始できるチャンスが消えうせたみたいだ。
 ついに姿を見せた。我々が乗るバスだ。エアバスではない。バスに乗る。そのバスが停まって下車すると、そこには待望の飛行機が待っていた。さっきまで仲が良くなっていた男性とは座席の場所が違うというだけで、赤の他人に戻った。
 うみ、うみ、うみ。白波、白波、白波。初めてのフライトの旅は飽きさせるものは何もない。窓際の座席で得した気分だ。下を走る船はどれも小さい。本当は大きな船に違いないのだ。太平洋がだだっ広いからだ。
 「ロサンジェルスは現在気温が・・・・・」
 機内アナウンスが様子を知らせる。勿論覚えてなどいない。お決まり文句だ。
 兄夫婦が待つ場所にやってきたのだ。空から見下ろすロサンジェルスは最初に記したように薄暗かった理由は分からない。うすどんよりとしていた。
 「飛行機からのロサンジェルスはどんなだった?」
 ハワイ出身の日系二世の義姉が言った。
 「あ、明るくて空気が澄んでいましたよ」
 初めて会う人だ。だからかもしれないが、私はお世辞を言ったそれがお世辞になったかどうかは分からない。
 「じゃぁ、今日は空気が澄んでいたのね。いつもはスモッグでどんよりしているのよ。ロサンジェルスはそんな街なのよ、普通は・・・」

 ようやく初めてのアメリカに来たことを実感した。
 1週間の兄宅での滞在は、私の中の文明開化とも言えるものだった。
 初めてのドライブスルーでのハンバーガー。初めてのドライブスルーでの銀行窓口。初めてのダウンタウンLAでのクリシュナ教の踊り(?)。クリシュナ教のお坊さんの独特の衣装の色。
 再度クリシュナ教の祈りや踊りを見たのは、40数年後のマンハッタンにあるUnion Squareユニオンスクウェアだ。懐かしかった。
 銀行のドライブスルーはこの1970年のLAでの体験以来見たことがない。一度だけ人の車に乗せてもらった時に、ややっ、あれはドライブスルー銀行?と思えた場所を通過したくらいだ。
 初めての空き缶を持っていく兄の姿だ。LAのど真ん中でガソリンが切れたのだ。そこに車を置いて彼はスタンド目指してゆっくりと歩いて行った。ややしばらくの時間が経って、にやにやしながら戻ってきた時には、空き缶が空き缶でなくなっていた。車の燃料タンクを開けると中のガソリンをそーっと入れた。あれくらいの寮で車は動くの?っと思っていると、エンジン音が響いてきた。しばらくゆっくりと車を走らせると、その先にガソリンスタンドが見えてきた。
 サンフランシスコで私を迎えてくれた姉の友人が連れて行ってくれたsmorgasbordスモーギャスボードも新鮮だった。今でいうビュッフェ形式の食べどころだ。私にとっては初めてのエスニック料理のオンパレードだった。勿論和食もあった。お腹一杯食べた。
 LAでの他の初めてのものは「ルートビール」だ。あまりおいしい味はしなかった。もともとコカ・コーラはアルコールを飲まない人のために考えられた飲み物だ。ルート麦酒も同じ趣旨で開発されたものだ。
 帰国後この話題で職員室がにぎわったことがある。同僚で大学の先輩が、以前このルート麦酒を日本に輸入したことがあるという話になった。そういうことをやりかねない豪傑教師だった。
 「それでどれくらい売れたんですか?」
 「ぜーんぜん。大赤字だったよ」
 はがゆいから全部海に捨てた、と話していた。この最後の部分は眉唾で聞いておいた。輸入の話は本当だと思う。その味の描写が的確だったからだ。

8 不安との闘い

 勉強自体は大変だったが、楽しかった。
 その実態は「留学ってきつい、楽しい その1」に任せよう。
 何が不安って、当時のアメリカだ。
 兄の友人の言った言葉だ。
 「お前ひとりで東側に行くのか」
 「俺の友達がNew Yorkでピストルを突き付けられたことがある」
 なんでも、赤信号で車を停めていた時のこと。夏の暑さに窓を開けたままだったそうだ。それって普通だ。
 すると若い男性が窓の中に手を入れてきた。
 「おい、金出せ」
 そりゃぁ誰でもびっくりする。手にはピストルがあったのだ。その友人はわざわざあちこちを探すふりをして時間を稼いだというのだ。そして・・・信号が青に変わったとたんにそのピストルの手をふりどけて車を急発進させたという話。
 UCLAのキャンパス内で殺人事件が初めて起こったのが、私がUCLAを訪れた前年だったという話。これは兄がUCLAに連れて行ってくれた時に話してくれた。
 2016年にキャンパスを訪れた時に、兄と歩いたキャンパスの痕跡を探したが、どこを歩いたのかを全く思い出せなかった。
 ミシガン大学ですら、どこがどこかは分かったけれど、姿が変貌していて覚えていたのとは違うのだから無理もない。
 夜勉強を終えて図書館から寮へ戻るのは、それなりに勇気がいる。勿論街灯はある。しかし、人がいない。キャンパスポリースが2人一組で巡回しているのに出くわすと、ほっとした。逆に巡回しなくてはいけないのか、と妙に不安になる。
 映画を観に行く。夕方だ。寮から歩いて20分というところか。私は日本ではあまり映画を観に行かない。ミシガン大学では2度ほど街の映画館に行った。別に見たかったわけではない。寮仲間が行こうと言ったのでついて行ったようなものだ。
 映画館の立派さに驚いた。御殿のようなきらびやかさだ。そう言えば、インディアナ大学に留学した時には、ほぼ毎週映画に行った。タイトルなど見もせずに行った。毎週違う出し物だったからだ。毎週そのために99セントの支払いはほぼ無料みたいなものだったからだ。
 ミシガンでの映画鑑賞。
 薄暗い館内に入る。座席がほぼ埋まっていた。ようやく見つけた前の方の席。友人と座る。よく分からない映画だった。
 そしてやってきたコーヒーブレイク。館内の電気が付く。入る時は真っ暗だったから分からなかったが、休憩室に行く途中でハッと気が付く。周りは黒人だらけだったのだ。白人種はおろか、私たち黄色人種でさえ自分たちだけのような気がした。コーヒーはセルフサービスだ。みんな仲間同士で談笑だ。私たちはとりあえずコーヒー1杯をがぶ飲みだ。飲み干すとその部屋を急いで出た。
 やがて部屋が暗くなる。私たちはすでに映画が終わるとすぐに映画館を出立することに取り決めた。怖いのだ。何が怖いのかは分からない。
 外は既に相当暗くなっていた。人通りもすっかりなくなっていた。一人でこなくてよかった、と誰かが言った。
 途中喫茶店みたいなところで映画の内容に関しての自主討論会の予定だったのだが、みんな、3人だが、気後れしてもはやそんな元気は残っていなかった。
 無言のまま、サウスクウォード寮へ向かった。駆け込むようにしてエレベーターに乗り込んだ。6階に着くのはすぐだ。一人でエレベーターから降りた。部屋が1人部屋で良かった。早速シャワーを浴びてクッションの悪いベッドに身を倒し込んだ。 

 9 帰国 ー①

 早くも帰国だ。短期留学とはそういうものだ。あっという間だ。
 フライトチケットはすでに出かける前に手に入れていた。帰りの便はオープンにしておいた。しかし、今の時代と比べてとても不便だ。
 日本の旅行業者に手紙をしたためた。帰国便のルート変更がどこまで可能かを打診しておきたかったのだ。それというのも、ナイアガラに行ったことで、ただ単に当初の計画通りにSeattle回りの帰国は面白くない気がしたのだ。グランドキャニオンに寄りたくなってしまったのだ。それもバスでFlagstaffに行くルートだ。終われば、LAに行けるルートだ。無謀だ。若気の至りだ。
 その返事を待っている時に、寮の電話が鳴り響いた。
自分に電話がかかるのはクラスメイトからのものが大半だ。朝起きることが出来ないから起こしてくれないかなどだ。
 私は電話代がかかるのが嫌だったから、よほどのことがなければ電話を使わないことに決めていた。そのことを話すと笑われた。
 「おまえ、日本とは違うぞ。アメリカは市内ならかけ放題だぞ」
 「え~っ!」
 文字通りの絶句だ。
 それからは目覚まし代わりの電話も引き受けた。
 それで理解できたことがある。アメリカに着いて最初に過ごした場所がLAだ。兄のアパートだ。そしてそこでの電話の使い方だ。受話器にくっついているコードがやけに長いのだ。そして兄は朝のトイレに行く時に、必ずその長いコードの着いた電話機を持ち込むのだ。兄嫁も同じだ。そしてなかなか出てこない。掃除の時にも兄嫁は電話をかけ続けているのが常態化していた。私は電話代がばかにならないだろうと、勝手に心配していた。ミシガン大学での友人の言葉を聞いてようやく納得できたのである。

 ところで、寮に鳴り響いた電話は遠くからの電話だった。交換手の女性がぶっきらぼうに話し出すのだ。決まり文句を語るのに飽きている声だ。
 「Seattle の誰それさんからです。受けますか?受けませんか?」
 自分の払いではないから「受けます」と答えるのは当然だ。交換手に代わって掛けてきた本人が電話口に出てきた。妹の知人だ。
 「帰りは必ずシアトルの私のところでしばらく滞在してくださいね。妹さんとは話が付いているので」
 この電話で私はシアトル経由で帰国することに決めざるを得なかった。その結果、ついにグランドキャニオン見学の夢が果たせなかった。ずっと後に妻との旅で空の上から見下ろす形で、この雄大なキャニオンを眺めた程度だ。それでもその大きさには驚いたのだから、実際にフラッグスタッフにバスで行ったとすれば、素晴らしい土産話を溜めこむことが出来たと思う。

 丁度飛行機会社がストライキを実施中だったために、シアトルまでのフライトプランが狂いまくった。途中何か所の空港に降りたか知れない。数えてはいない。離陸したらほんのしばらくで着陸、という具合だ。
 私が日本語で手紙を書いていると、隣に座った若い女性二人が不思議そうに覗き込んできた。縦書きの手紙だったからだと思う。いろいろと質問をされた。縦に書いてどんなにして読むの?といった具合だ。どうせ退屈だから、日本語の説明や相手のことなど聞いてみたりして時間が潰せたのは不幸中の幸いだった。
 そのうち当然だがシアトル着となる。
 そこで生まれて初めてのスーツケースが手に入らないという事件に会うことになる。ある意味楽ではあった。シアトルでは荷物の心配をしなくていいからだ。1970年でも最後は荷物が自宅に配送されると確信していたからだ。
 空港には妹の知人が迎えに来てくれていた。その知人を待つ間、私の目の前では、機内で隣に座っていた女性2人組が、若い男性と抱き合って再会を喜んでいた。彼らも迎えに来てくれた男性たちとどこかへ姿を消していった。
 知人は私を彼女のアパートへ車で運んでくれた。
 「夕食は私が作るから心配しないでいいわよ」
 彼女は妹とのいろいろな話をしてくれたが、全く覚えていない。覚えているのは毎晩夕食をアパートまで運んでくれたことだけだ。アパート代も夕食代もかからないのはとてもありがたかった。朝食は自分で買って食べた。

10 帰国 ー② (シアトル)

 スーツケース紛失のせいで、滞在中毎日せっせと洗濯して乾くかどうか心配しながら寝て、の繰り返しだ。滞在中とにかく時間を大事に使うことを考えてさっさとアパートを出て歩き回った。
 シアトルは海が見える点で日本的だ。場所によってはごみごみしている点で日本的だ。坂道が多い点でも日本的だ。
 朝食を済ませると、私は海を見に行った。港を見たかったのだ。懐かしい思いがするからだ。港の見える場所までくると、丁度その角に小さな商店があった。絵葉書でも買っておこうと思ってその店に入っていった。
 店主はすぐにユダヤ人と分かる容貌をしていた。優しい語り口で話しかけてきた。
 「こんな早朝に、どこにお出かけかな?」
 「港を見に行こうと思っています」
 「そりゃ、やめとく方がいいぞ」
 「どうしてですか?」
 「港は朝から酔っ払いだらけじゃよ」
 「・・・」
 「連中にからまれたら、そりゃ大変じゃよ。行くにしてもよほど用心しないとな」
 「分かりました。気を付けて行ってきますね」
 「じゃあな。無事を祈ってるからな」
 数枚の絵ハガキを買って、港めがけて歩いた。私が絵ハガキを書くのには理由があった。手元に持っていたカメラにはスライドフィルムを入れていたのだ。留学中は殆んどそうしていた。生徒に見せてあげるためだ。だから私のアルバムには写真が少ししかない。
 店主にお金を支払って、店を後にした。ひたすら坂道を港に向かって降りて行った。真正面に岸壁が見えるのだ。下り坂は私の脚を速めてくれた。
 岸壁まではそんなに時間はかからない。際まで行ってからふとうしろを振り向いてみた。両側にあった建物は倉庫だろうか。確認する暇もなく建物の壁に寄りかかる無数の人々が目に入る。朝から酒を飲んでいるのだ。どろんとした目が多数、私を見ていることに気づく。背筋がぞっとする。ユダヤ人店主の言葉を思い出す。これはやばいという気持ちが襲い掛かる。
 私はあわてて左側に曲がった。曲がった途端に一番角にいた酔っ払いが近づいてくる。
 「%&+*?~#^\¥&#<¥*∻」
 私は実は彼が何を言ったか分かったのだ。
 「 何て言ったんですか?私には英語は分からないんです」
 これが私の作戦だったのである。
 案の定、酔っ払いは戸惑っていた。彼の隣の酔っ払いも近寄っていた足取りを止めた。
 二人がきょとんとしている時間が、私の持ち時間へと変換されるのだ。
 私は大股で、速いスピードで、うしろを見向きもしないで、脇目もふらずに歩を進めて、次の角を曲がって逃げおおせることが出来たのである。

 それから25年くらい経ってから、再びシアトルを訪れるチャンスに恵まれた。中学生のホームステイを企画して訪れたのだ。私は企画者として途中から様子を見るためにひとりで現地へ出かけた。生徒たちと引率教師は既に数日を過ごしていた。
 添乗員が気を使って、教師たちを市内のフォーシーズンという高級デパートに案内してくれた。そのレストランでお茶をすることになった。ドレスコードがあって、レストランが用意したスーツを身につけることになった。私はアメリカではいつも薄汚れた服装だ。
 仕方なくだぼだぼのスーツを着て席に着いた。何がいいかと問われて、当時の日本では新しい言葉のようにして耳に入っていた言葉を発してみた。
 「エスプレッソで」
 しばらくすると運ばれてきた。
 それを見て驚いた。カップの中を覗くと、底の方にほんのちょこっとだけ真っ黒かと思えるほどのコーヒーが入っていたのだ。試しに少し飲んでみた。その苦さはいまだに忘れない。
 他の教員も同じことになっていた。みんな笑いあうしかなかった。大恥だ。
 私は割とスケジュールが空いていたので、両親が自分たちが行った時にとても良かったから是非行けたら行くようにと話してくれたMt. Rainier(レイニア山)に出かけるチャンスがあった。ポートランドのタコマ(北九州市と姉妹都市)にある山だ。日系人からタコマ富士として親しまれている山だ。頂上付近には氷河がどっしりと構えている。
 私は車で連れて行ってもらったのだが、歩いて氷河を触りに行った。当時から氷河が解け始めていて、立札が立ててあった。そこには何年にはここが氷河の一番下だったなどと書いてあるのだ。そんな札が次々と目に入ってきた。つまり、氷河が解け続けている証拠になるのだ。
 姉が留学中、ホームステイ先の3人の娘とホストペアレンツとこの山を訪問した時の話をしてくれたことがある。
 姉が高山植物の花を見つけて、何も考えずにそれを摘んで胸のポケットに挿してみたというのだ。すると娘たちの1人が「アメリカの自然を大切にしましょう」と姉に言ったそうだ。子供のときからそのようなしつけがなされていることに感心させられたと私に言ったのだ。
 これとは無関係だが、今年プロレスラーのアントニオ猪木さんがなくなったというニュースを見た。私が直接見た有名人といえば、彼のことだ。小さな子供の時には近くの野球場に相撲の巡業場所があったことがある。その時に松登という大関が歩いているところに出くわしたことがある。付け人を従えたこの大関がとっても大きく見えた記憶が焼き付いている。
 1983年に勤務先の院長から依頼されたアメリカ西海岸の視察に一人で行ったことがある。その時にポートランドに寄ったのだ。そしてあるレストランで食事をしていると、奥の方で大きな声で男性がたくさん日本語を話していた。レストランの従業員に誰か有名な人でも来ているのですか、と問うとアントニオ猪木さんの一行だというではないか。私はプロレスファンだったこともあり、是非覗いてみたくなった。そしてその方に近づくと、ドアが開いていて、アントニオ猪木、石頭の大木金太郎、レフェリーの沖識名などの姿を見て興奮したことを思い出す。

11. 帰国 ー③ (ホノルル)

 数日をシアトルで過ごした後は、LA経由でハワイのオアフ島へ行く予定になっていた。オアフ島とはホノルルのある島だ。
 その前にLAの空港で兄嫁と落ち合うことになっていた。今のようにスマホがあるわけでもないので、無事合流できるかとても心配だったが、意外と何のことはなかった。一つは私の荷物がシアトルで手に入らなかったおかげで手ぶらだったことが大きかった。手続き口で義姉を待っていると、彼女の方から私を発見してくれた。ハワイは彼女の故郷なのだ。私を案内してくれることになっていた。
 飛行機に乗って驚いた。今ではあのような座席は見たことがない。私は通路側の席に座った。ところが義姉が通路の中に補助席を倒して座ったのだ。観光バスの補助席を彷彿とさせるその座席は頼りなげであった。昔だから許されていたのだろうと思う。
 飛行機といえば出される食事は楽しみだ。義姉に聞くと、私はないわよ、と言う。自分が乗る時はいつも弁当を作ってくるのよ、と涼しい顔だ。見るとサンドイッチをぱくついている。食事がない分、飛行機代が安いのよ、と得意げに話すのはまさにアメリカ人魂だ。アメリカ人はそういう安く手に入る話を手柄話のように話してくれる。
 ホノルルに到着すると、義姉はすぐに私のスーツケースを取り戻さなくっちゃあ、と言って、遺失物の係りのところに出かけてくれた。調べてくれた結果、別の飛行機が運んでくれるらしいことが分かった。2時間後にまた来てくれというのだ。
 幸い近くに義姉のお姉さんの家があった。そこで小休止をしてから再度出かけてきた。義姉の運転だ。ついにスーツケースを無事手にして義姉の姉宅を再訪した。
 広いリビングでは大歓迎の準備ができていた。テーブルのど真ん中には当時はまだ見たこともない果物のオンパレードだった。今でこそ、その気になれば買ってきて食べることが出来るのだが、私は興奮して出される果物を片端から口に運んだ。おいしかった。
 ホノルルでは国立墓地を散策した。何かのコマーシャルで流れる「この木なんの木」で有名な木が生えていた。公園の端の方で見かけたトイレ。扉がない。丸見えのトイレでおじさんが用をたしていた。私は扉がないことに気後れして我慢することにした。
 果物の話だが、ニューヨークに行くと、ホテルはキッチン付きにした。そしてユニオンスクウェアの通りを隔てた場所にある「Whole Foods Market」で食材を買って料理して食べたりした。そこでは多種多様な果物が手に入った。日本では高級なものが1ドル、2ドルで手に入る嬉しいマーケットだ。
 義姉の実家はカウアイ島にあった。この島では義姉は縦横無尽に車を運転して楽しませてくれた。

12. 帰国 ー④ (カウアイ島)

 それよりもホノルルからカウアイ島までのフライトが異色だった。今でも忘れない。アメリカ本土でも昔風に言うスチュワーデスは相当なお年寄りもいた。私が乗ったカウアイ行きのフライトはその最たるものに思えた。びっくりした。背中をほぼ丸出しの客室乗務員が行き来して、乗客の世話を焼く。自分に向かってくるときには我慢できる。しかし、自分に背中を見せる時には目をそむける実態があった。前日に海にでも行ったのだろうか。背中の皮がべろんべろんにむけているのだ。ウキウキワクワクするはずの機内でテンションダダ下がりだった。
 義姉の実家に着くと、用意してくれていたレイを首に何本もかけてくれた。そのレイはハワイの花ではなく、飴やお菓子をつないで作られていた。私は喜んで首にかけたまましばらく過ごした。ようやく1歳を超えた長男の喜ぶ顔を思い浮かべた。
 暑い夏、ハワイと来れば「汗」だ。ついてしばらくしてお風呂を使わせてもらった。広い土間の真中にデンと置かれたバスタブ。周りには農機具。便座。
 どこで体を洗ったらいいのか、バスタブに水を溜めながら考えた。大きなバスタブ。時間が過ぎて行った。仕方なく映画などで観たことのあるやり方を真似ることにした。バスタブ内で体を洗う。土間は文字通りの土の床だ。バスタブ内で体を洗うと外に出る前に体を拭く。折角風呂を済ませたのに、次なる作業が煩わしいことになる。バスタブを洗わなければいけない。もう汗びっしょりだ。がっかりだ。もう一度入りたくなるが、それは単に同じことを繰り返すだけとなる。仕方なくびっしょに汗をかいたままリビングに向かう。
 次の日には義姉が車を走らせてくれた。広大なサトウキビ畑をみながら、「そのうち車停めてサトウキビを食べさせてあげる」と何度も言った。しかしながら、ついに1本たりとも食べさせてもらえなかった。そりゃそうだ。人の畑だ。盗人になるわけにはいかない。
 目指すは(有名な)ホテルだ。ホテルのホールでは観光客相手にハワイならではのショーが行われていた。客はカクテルなどの飲み物を注文するのだ。義姉は何一つ注文しないで見学だけで終わった。さすが地元だと感心したものだ。
 更に南太平洋という映画のロケ地だと話してくれた場所に行く。そこから見る海の色は私を感動の海の中に投げ込んでくれた。あの青い色。深い緑。波。どれ一つとっても私を感動させてくれないものはなかった。
 私の記憶は何故かここで止まっている。カウアイ島からホノルルに戻った記憶が残っていない。戻ったのは間違いないのだが、記憶に残っていないのだ。気が付いた時には太平洋上空だったというわけだ。

13. おまけの話

 それから27年後、私は妻を連れてホノルルにやってきた。アメリカ本土の旅の疲れを癒す目的だ。空港近くのホテルに宿泊した。ホテルの名前は全日空ホテルだったと思う。
 毎日出歩いた。The Busは安くて便利だ。とりあえず島を一周しようということになって、The Busに乗車した。空気はきれい。景色はきれい。ハワイの田舎の風景は単調だが十分楽しい。1970年に義姉が車で連れ歩いてくれたカウアイ島では、サトウキビ畑からくる甘い香りが車の中に飛び込んできた。ここ、オアフ島ではパイナップル畑からくる香りが味わいを与えてくれる。舌の付け根から唾液が出る感覚だ。甘いけれども酸っぱい味わいがしてくる。延々と続くパイナップル畑。畑の中のところどころにいる人影。収穫しているのだろうか。
 そしてバスが停まる。停車時間が少しあるというのでバスを降りてみた。下の方に砂浜が見える。サーファーたちが楽しんでいる。他の場所からは隔離されているように見える。でも知る人ぞ知る場所なのだろう。
 またThe Busに乗車。
 今度下車するのは、父親が勧めてくれていたポリネシア文化センターだ。多分ホノルルと反対側に位置するのではないかと思う。写真があるが、この記事は画像なしと決めている。タイトル通り、ポリネシアの文化を紹介する施設だ。いわゆるジェットコースターとかお化け屋敷はない。あるのはヤシの実をとる実演。ココナッツやしの実を割った実から中の汁を吸う。ポリネシアのダンスを堪能する。フラダンスの演武。初めて見る人にはそれなりに面白い。

 聞くところによると、ダンスをしていた人たちや働いている人たちはユタ州から来た学生たちが多いとか・・・。ユタ州と言えばモルモン教だ。日本にもたくさんの宣教師がやって来る。殆んど無給で来るらしい、と聞いたことがある。
 私たちはでかいアイスを二人で分けて食べた。画像を出したくなっているが我慢だ。我慢する意味が実は分からない。
 一応文化センター見学が終了して、センターの入り口のバス停でThe Busを待った。なかなか来ない。顔を上げてみた。すると、センターの入り口の前の家が目に入る。庭には大きな実がたわわに実っていた。私はよく見るために道路を渡り家の塀に近づいた。
 「あー、なるほど、こんなふうに実がなっているんだ」
 妻もびっくりする。初めて見る果物のなっている姿だ。その果物がグレープフルーツだったのだ。何故「グレープ」なのかはその実のなり具合ですぐに分かる。葡萄のように重なり合って実っているのだ。
 私のこの記事に画像を載せない理由がここにある。カメラを取り出して構えてはみたものの、既にフィルムは終わっていたのだ。今でも残念でならない。今もその木が生きていれば出かけて行って撮りたい気持ちが起こる。幻のシャッタを押す場所なのだ。
 その日のホテルの夜は騒がしかった。窓から下を見ると酔っ払い男女軍団が通りで大騒ぎをしていた。その向かいのファーストフードの店ではホームレスらしきおじさんが一人。店のゴミ箱から捨てられた飲み物の紙コップを拾い上げて、それを持ってカウンターでコーラか何か入れてもらっている。なるほど。いいところに目を付けたな、と感心してしまう。
 そう言えば、ワシントンDCの航空宇宙博物館でのこと。最後に行ったのはいつだったか覚えていない。一人で行ったことだけは確かだ。ドリンクバーの注文だ。私はそんなに飲む気はなかったのでMサイズ。隣の家族は全員Lサイズ。2,3歳の子供までがそうなのだ。どうせ飲み放題だから子供はMでいいのに、といらぬおせっかいを心の中で言ってしまう。でもそれがアメリカだ。
 ワイキキビーチも行ってみる。泳ぐわけでもなく人がひしめいている。日曜日だったこともあり、ハワイの教会見物でもしてみようということになり、近くにあったところに入ってみた。みんな上品そのもの。汚いなりの私たちは入ってはみたものの気後れしてすごすご出てきてしまった。
 アラモアナショッピングセンターも久しぶりに寄ってみた。義姉に連れられて行った時とは雲泥の差だ。あまりの大きくなり様に驚く。義姉が自慢げに連れて行ってくれた時には、心の中で、これが?などと失礼なことをおもったものだ。27年も経てばそうあって当たり前なのだ。
 その2年後にも行く機会があった。教え子に会うためだ。懐かしい再会だった。嬉しい再会だった。一生懸命な姿が印象的だった。彼女が住むコンドミニアムの一室で撮った写真もある。載せたい気持ちがあるが、やめておこう。自分の記憶の中に残しておく方がいい。
 ホノルルを発つ飛行機は、ゆっくりと日本を目指した。眼下には白波がたおやかに立っていた。小さな大型船がゆったりと進んでいた。時折目の向こうに飛行機がすれ違って行った。3か月ぶりの日本だった。東京の夏はムッとしていた。空気が押しつぶされそうな気がした。清涼飲料水が欲しくなった。売店で小銭を出してみたが、アメリカのお金しか見つからなかった。そのうち乗換便の時間が迫っていた。旅が終わったということなのだ。





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