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コロナ時代を振り返る #3

オンライン授業にも慣れた7月。
外は暑い。
「ああ、夏が始まったな。」
マスクを外して呼吸をすることが、こんなにも楽しいなんて。

春学期終わり~夏休み

緊急事態宣言も終わっていたはずだが、もはやどんな施策があったかは定かではない。
ただ、Gotoトラベルなどもプロモーションされていたのが2020年の初夏。
外出自粛に対する世間の声は少し和らいでいた気がする。
実際、7月頭くらいには、好きなカフェに行けている。
教育メンターのバイトも、部分的にオンラインからようやく対面になった頃だったように記憶している。

きっとこのままコロナも落ち着く。
そんな淡い期待を抱えていたのは、せっかくの夏なのに何もできないということは信じたくなかったから。
恋焦がれた夏、いや、外の世界に思いをはせ、あってないような期末レポートたちを片付けた私。

決意

「前線でコロナと戦っている人もいる」
「我慢している人もいる」
「遊んで感染したら周りにも迷惑がかかる」
GOTOトラベルによる旅行の促進には、当然多くの反発の声があった。
当然だ。
この頃は、数人と言えども、感染者が出たら大事だった。
実際、医療従事者やソーシャルワーカーと呼ばれる職種に従事する人には、多大な負担がかかっていた。
一の感染が十の被害を生んでいた。
常識的に、良心に沿って考えれば、外出は控えるのが得策である。

しかし、そうやって失った時間の責任は誰が取るのか。
自粛とは言いつつ、禁止にはしない。
法ではなく道徳で縛るやり方。
自粛警察、監視社会。
1984か?あの頃の外の世界は生きづらかった。

外出が不謹慎であるというプロパガンダを聞くたびに、
「あんたらが楽しめていた時間を、なぜ俺らは社会のために我慢しないといけないのか」
「若い人に我慢させといて自分らは自由ですか」
などと、当時に典型的な不満を抱えていた。
「俺一人が我慢したところで、良くも悪くも社会の動きは変わらない」
そう正当化していた。
みんな口にしなかっただけで、自分が苦しまないことの方が大事なのは当たり前である。
我が身可愛さに身を委ね、人生を謳歌することを、誰が咎められようか。
自由も不自由も、他人に押し付けてよい価値観ではない。

第一、こういう時にだけ
「社会のため」
「世界のため」
「頑張っている人のため」
とか言うやつらは、普段から、コロナ前から、頑張っている人や社会に配慮しているのか?などなど。


私は外に出ると決めた。
何と言われようと知らん。
私は私の人生を全うする責任がある。
陰で何か言われるのは慣れてたのが救いだ。

夏の楽しみ

詳細に書きたいが、それを記すにはこの余白は狭すぎる。
と、戯言さておき、この夏の体験、「無人島プロジェクト」と「ヒッチハイク」というこの大きな2つのイベントがあったから、今の自分がいる。
コロナ禍のこの夏に不謹慎にも外に出たことが、その後の人生に大きな影響を与えたと言ってもいい

真面目なだけの自分の選択であれば、たぶん今とは全く別の人と関わり、全く別の場所で生き、なんとなく苦しんでいたんじゃないかなとたまに思う。ゼミも、大学院という選択も、歌舞伎への熱も、友好関係も、あらゆる起源がこの夏にある。
それくらい、この夏の決断は別の世界に繋がった。

後になってみて、SNS上などで、
「要請に従って何もしなかった真面目が損している」
といった趣旨の記事や懺悔、恨み節をよく見るようになった。
結局そうなんだよな。
誰も責任は取ってくれない
それらを見て、改めて痛感した。

別に、自分を変えようと思ってこの世界に飛び込んだわけではない。
ただ、何もしない生活が退屈だったかったから、単純に刺激を求めて安全圏でできることを模索した結果に過ぎない。
後から人生を振り返ったとき、「何もなかったな」とは言いたくなかった。
それがたまたま功を奏しただけである。

私利私欲におぼれ、社会の要請に反する不謹慎な若者。
社会から見れば典型的な悪者だったろう。
でも世の中は、どうやらそういう悪者に優しいらしい
そんな不条理を教えてくれた、2020年の8月の記憶。

余談

さて、このnoteは過去を振り返るわけだが、今視点で考えると、この頃に京都旅行を満喫しておいてよかったと思うのが正直なところだ。

当時の常識で考えれば誰も行かない旅行ということに加え、
「来日外国人がほとんどいない」
という条件は、おそらくここ半世紀でも稀なほどに、むしろ感染リスクがないほどに、京都を閑散とさせていた
後にも先にも、あれだけ人がいない嵐山を、私は知らない。

オーバーツーリズムが話題になる昨今だからこそ、あの貴重な空間を知れたことは、記録として留めておきたい。

2020年8月 誰も居ない嵐山




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