人からどう見られるかで生きてたら苦しくないですか?
みなさん、こんにちは!ターチです。
今回は「人からどう思われるかを考えて生きている人」というテーマで書きたいと思います。
意外と都会の方が、この割合が高い気がしています。
人からどう見えるかを常に考え、損得勘定で生きている人を見ていて思うのは、
「なんか居心地が悪い」
ということですね。
見ていてもそうですが、一緒にいるときでも何か落ち着かないかんじを抱かせます。それは相手が何か企んでいるかもしれないと、こちらが感じるからかもしれません。
例えば、昔職場にいたのですが、私よりも年上なのにも関わらず、やたらとへりくだってくる人。見え見えのお世辞をいってきて機嫌をとろうとするのですが、なんとも気持ちの悪いものでした。
また、弱者にはやたら強気で、強者にはやたらと忖度する人。これは日本の社会では多いですが、私はあまり好きにはなれません。
これらを行っている人というは、前にも書きましたが、自分自身を偽っています。
常に自分を偽り続けているという人ということです。
このようなことを継続的に行っている人というのは、自己肯定感が低かったり、承認欲求が強かったりするのが特徴です。
もし仮に家庭内で、親がこのような状態であれば、影響を受けるのは子供ですし、会社であれば社員にその影響が出てくるでしょう。
みなさんはこういう人と付き合いたいと思いますか?
彼らは、常に人からどう思われるかを考えているため、人の発言に敏感であるということ。なぜか自分の発言には甘く、他人の発言には激辛です。そして、何か他愛もない話をしかけてきたと思いきや、必ずそこには意図が隠されている・・・
これは一緒にいて居心地悪いですよね。こちらも本当の自分を出しづらくなります。
このような人たちは、あまりに人からの見え方を意識しすぎているため、もはや本来の自分の姿を完全に忘れてしまっています。自分を置き去りにしてしまっていると言っても過言ではありません。
私はこれが一番悲しいことだと思います。この人たちも一人の個性ある人間に生まれて、くだらないないステータス(あくまで私が思うにですが)のために、自分というものを犠牲にしているからです。
ひとりひとりが作為的ではなく、無作為的な人間になれれば、もっと人としての愛が芽生えると思うのですが・・・。
貧富の意識が生まれたのは農作ができた弥生時代からだといわれています。縄文時代にはそのような意識はなかったそうです。むしろみんなで平等で仲良く暮らしていたようです。
そう考えると、私たちにとって本当の「古き良き時代」は縄文時代かもしれません。
日本人が、この時代においてそんな高い次元の意識で生きれたとしたら、素晴らしい国になるのに!、と思ってしまいます。
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