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死なれちゃった側の役目

【ご注意】
今回の記事では「他人の死」「東日本大震災」について取り上げます。
これについて不安感・トラウマを抱く方は、閲覧をご遠慮ください。

ただ、わたしは「他人の死」については前向きに捉える信条でいます。
この記事も、その
信条に沿って書いています。

こんにちは、きなりです。
先週から、著名な方の訃報が続いています。
心からご冥福をお祈りするばかりです。

ここしばらく、わたしは、その方たちと直接の関わりがあったわけでもないのに、まるで自分事かのように動揺してしまいました。

ふとした瞬間にぼーっとしてしまったり、外に出るのが億劫になったり、
毎晩中途覚醒が続いたり、食欲が無かったり、食べても戻しちゃったり。

周りのみんなは心配してくれました。(ありがたい…)
ただ、その気遣いを無碍にしたいわけではないのですが、
著名人、あるいは知人の訃報を見聞きした時、このようなストレス反応が起こることはわたしにとっては通常運転だったりします。

なぜならわたしは人間の全ての営みの中で
「他人の死に直面する」ということが一番苦手だからです。

自分の話になりますが、わたしは小学生時代に、
母方の祖父母、父の死を経験しました。

中学3年生の頃には、担任の先生が亡くなりました。
心不全による突然死でした。

みんな、わたしたち家族を、
あるいはクラスメイトをかわいがってくれていました。
この記事に書いても書いても書ききれない程の愛を貰いました。
そんな善い人たちを、神様は無情にも、天国へ連れ去ってしまいました。

そして、2011年3月11日、わたしが高校入試を終えて家に着いた頃、東日本大震災が起こりました。

当時のわたしは岡山県に住んでいたので、直接の被害は受けませんでしたが、無辜の人々が大勢亡くなったという情報をテレビで見聞きし、激しく取り乱してしまいました。

──わたしの家族も、担任の先生も、震災の被害に遭った人々も、
何も悪いことをしていない人達が、突然命を絶たれるのは何故だろう。
どうせ善いことをしても死んでしまうのなら、生きていたって仕方がない。
もう、何にもしたくない。──

そう思って、試験会場に持って行った鞄─受験票や、使い古した勉強ノートに教科書、友達と交換した合格祈願のお守りが入ったそれ─を自宅の庭に思いっきり投げ捨てて、大泣きした覚えがあります。

仕事から帰ってきた母は、そんなわたしをこう言って慰めてくれました。

「人は、決して残された人を悲しませる為に亡くなったんじゃない。
 この世での"役目"を終えたから天国に迎え入れられた。」

「勿論、突然の天災や、理不尽な事件に遭って、亡くなった方は例外。
 その人たちにも"役目"があったはずなのに、自然の脅威か、
 あるいは人の身勝手な行動に見舞われて
 その使命を果たす機会を奪われた。」

「だから残された私たちは、自分の"役目"を果たさないといけないし、
 "役目"を果たせず命を奪われてしまった人の代わりを
 務めないといけない。」

「……あんたもう高校生になるんじゃけん、しっかりせられえ!」

でも、当時のわたしには母の言う”役目”というものがよく分かりませんでした。言葉の意味も、わたしが担うべき"役目"も。

高校生になっても、ぼんやりすることが多かったせいで、
授業の成績が芳しくなく、見かねた母にこう叱られました。

「父さんは死ぬ前に、”俺が死んでも、
 上の二人は(わたしの兄)のことは何にも心配いらないと思うけど、
 きなりを残して死ぬことだけが心残り"って言ってたよ。
あんた、いつまで父さんを心配させる気?

母が泣いてそう訴えるのに、それでも当時17~18歳のわたしは、母の言っていることも、父の残した言葉にも、どちらにもピンときませんでした。
──どうせ死ぬのに、なんで必死になって努力しないといけないの?

そういったすれ違いを残したまま、高校、大学と学生時代を経てしまいましたが、その後、社会人として社会に飛び込んでから"役目"というものを意識するようになりました。

会社内での役目。
家族内での役目。
友達としての役目。
恋人としての役目。
市民としての役目。
国民としての役目。
わたしがわたしである為の役目。……

自分自身の力で生活を営むようになってから分かったのは、
各所での”役目”は、予め用意されている場合より、
こちらから能動的に動かなければ与えられないことが多いということ。

具体的に例えたら、納税の義務とか、選挙とか、ゴミ出しルールとか、
国民あるいは市民として課せられた"役目"より、会社の為に、あるいは家族の為に、友達の為に、恋人の為に、それ以外の人たちの為に、わたしには何が出来るのか? それを模索した先に掴んだものこそがわたしの"役目"

学生時代は「どうせ善いことをしても死んでしまうのなら、生きていたって仕方がない」と生きる意味の模索を、放棄していたわたしですが…。

生きる意味というものは誰かに見つけてもらうのではなく、
こちらから見つけ、あるいは作り出し、その責務を果たすことがわたしたちの"役目"。

それが"残されて"しまったわたしの為すべき。
それが"残して"行ってしまった人へ、わたしにできること。

母の言っていた"役目"の意味がようやく分かりました。
父が死んで15年ほど経った頃のことでした。

冒頭でもお伝えしたように、
わたしは「人の死」に動揺してしまう程の人間です。
特に家族の死—―父親に関しては、18年前に亡くなったので、
もう彼の声も表情も記憶がおぼろげなのに、いまだ克服できずにいます。

知らない親子(お父さんとちいちゃい娘さんor息子さん)が楽しそうにしている様子を見かけると、30歳手前になっても羨ましいなあと思ってしまうわたしです(相手は子どもなのに笑) 真夜中にそれを思い出して「お父さん」とつぶやいて、その聞きなじみのない言葉の響きに、大人げなく泣くこともよくあります。

でも、死別による悲しみは、大切な人を亡くされた方も、亡くなった本人も、きっと同じはず。

だからずっと悲しんでいるわけにはいかない。
自分の"役目"をこなすことが生きている人の為になるし、
元気に頑張っている姿を見せることが亡くなった人への恩返し。

……と考えながら、
昨今の訃報のニュースを、少しずつ少しずつ受け入れているわたしでした。

ところで、厚生労働省のHPでは「心理的負荷による精神障害の認定基準」と呼ばれる日常生活で起こる出来事によるストレスの強度を測る資料が公開されているのですが、「死別」という喪失体験は、心理的負荷が強いものとされています

わたしは心強い母親と、悲しみを理解してくれる友人に甘えっぱなしだったので、(亀の歩みほどゆっくりですが)何とか自力で人の死を受け入れられるようになりましたが…。

人の死に対してお辛い気持ちを抱えながらも
「うまく甘えられない(相談しにくい・悲しみを吐露しにくい)」
「周りに相談できるひとがいない」といった悩みをお持ちの方は、
我慢せず心療内科やカウンセリングを受けてくださいね。
どうか、無理しないで。

今回の記事は以上になります。
いつも以上に自己語り多かったですが(しんみりする内容だし…💦)
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

お互いに、ご自愛しましょう💪✨

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