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暮らしにまっすぐつながることをする楽しさ、あるいは幸せについて

(※今日の内容を音声で楽しみたい方はコチラからどうぞ(^^)↓)


先日、1年ぶりの薪割りをした。

といっても、僕の家では薪ストーブを使っていない。母の実家で薪ストーブを使っているので、その薪割りのお手伝いである。

母の実家へ行く道を車でのんびり走っていると、ちらほらとこれから薪割りをするであろう、木の山が外にある家を見かけては、薪割りの季節になったんだなあと感じる。

薪割りは楽しい。

もちろん、ずっと薪を割っていると疲れてもくるし、かたくてなかなか割れない木もあったりするから、手にも力が入らなくなってくる。

けれど、不思議なもので体がちょっと疲れたくらいの時の方が、すんなり薪が割れたりする。

きっと変に力が入っていて、うまく斧のパワーが伝わっていなかったのかなみたいに考えながら薪割りをするのも、また楽しい時間である。

薪割りした日は20度を超える、この季節には暑いくらいの気温だったのだけれど、僕はいつもの感じで暖かい格好で薪割りに来てしまったので、汗をかき時に水分を補給しながら黙々と薪割りをして過ごした。

僕はこういう黙々と誰に急かされるわけでもなく、自分のペースでできる仕事が好きである。

まあそういう仕事はなかなかないものではあるけれど、薪割りをしていると、自分と斧と目の前にある木というシンプルな、それでいて奥が深い世界にいる心地よさを感じることができる。

やってることは単調に見えるかもしれないけれど、薪にする木は大きさとか割りやすさとかが、毎回のように違うから、大変だけれど面白い。

1回ですんなり割れるのもあれば、何回もやってようやく割れるのもある。

そうやってひとつひとつの木と向き合いながら、「どうやったらすんなり割れるかな」と自分であれこれ考えて試行錯誤する時間も、またいいものである。

僕の家では薪ストーブを使っていないわけだけれど、薪割りというのは暮らしにまっすぐつながっていることである。

こうやって割った薪が、家の暖房である薪ストーブにいつか使われるわけで、なんというか自分の行動そのものが、暮らしにちゃんとつながっていることをするというのは生きている、暮らしているという感じがして、そこに楽しさだったりあるいは幸せを感じる。

僕の場合は、暮らしに必要なものはお金を払って手に入れる、そのお金を稼ぐために暮らしとはあんまり関係のない仕事をする、ということをしてきたわけだけれど、薪割りをしていると暮らしはもっとシンプルだったように思うし、薪割りのように暮らしにまっすぐつながることをするくらいシンプルな方が心地よい。

今の生活は、便利であることは確かだけれど、なんというか自分の行動と自分の暮らしが離れているところにあるように感じる。

朝起きてから夜寝るまで、自分がやっている行動が果たして自分の暮らしとまっすぐつながっているか?というと、そういうことはほとんどないんじゃないかと思う。

なので、薪割りのような暮らしとまっすぐつながるようなことを、ちょっとでも増やしていきたい。

そしていつか、自分で使う薪ストーブの薪を割る日を夢見ながら、まだまだ薪にする木はあるようなので、また薪割りのお手伝いに行こうと思う。


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