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友人の「炎上」を間近で経験して以来、「つぶやく」ことが怖くなった

こんにちは。どうも、ぺりかんです。
本日のnoteは、kuroさんの『2021/01/11 眠れない夜とやっときた朝』と題されたイラストをお借りしました。これから書くエピソード、これは実際の経験談ですが、その渦中にいたころの僕はこのイラストの彼女のようでした。
ちょっと重たい話になります。

僕のよく知る、身近な友人がTwitterで炎上したときのことを書きます。僕は当事者ではありませんでしたが、炎上の原因となっていた事象について全く無関係だったともいえず、いわば片足を突っ込んでいた状態でした。

まったく無関係の立場から遠目に眺める「炎上」は、面白おかしかったり、「ああ、またやっているな」くらいの受け止められ方をするようなものなのかもしれません。しかし当事者や、そこにきわめて近い立場としてそれを経験した場合、見えてくる景色はまったくもって異なります。

ネットの「炎上」。
これを読んでいる方のなかで、まさに当事者として「炎上」を経験したことがある人は、どれだけいるでしょうか。あの凄惨さ、あのむごさ、あの夥しい暴力のおぞましさを知っている人は、どれだけいるのでしょうか。

――――――

Twitterをひらけば、いつもどこかで「炎上」が起きている。
いわゆる「有名人」に限らず、一般の人びとの間でも頻発している。
ふとした呟き、ふと撮影した写真、ふと書き出してしまった愚痴やホンネ。
「炎上」はいつ、どこで身に降りかかってくるかわからない。

そう遠くない昔、ぼくの友人は「炎上」した。
彼が行っていたとある仕事について、とある第三者がクレームをツイートしたことから、それは始まった。

そのツイートには、彼の所属や名前(実名)が記載された。クレームはやや煽動的な書き方をしていたのだが、内容はいわゆる「一般の共感」を得やすい類のものであった(具体的に書くことができず、申し訳ない)。つまり、何も知らない人がふいにそのクレーム・ツイートを見たときに、直感的に、「ああ、これはクレームが正しい」「こんなクレームを生むなんて、○○(ぼくの友人)はなんて常識がない人なんだ」と理解してしまいやすい内容だった、ということだ。そのクレームのツイートは多くの共感を獲得することとなり、投稿されてから1時間もたたずして数千のリツイート、半日後には数万のリツイートがなされることとなった。

ちなみに言っておかねばならないのは、ぼくの友人がおこなったとある行為(それは炎上の原因となった、クレームを生んだ行為だ)には、れっきとした正当性があったということである。ぼくはその行為がなされた一連の文脈をごく近くで見ていたし、知っていた。そして、その場で同じく文脈を知っていた当事者たちもみな、彼に非難される理由がまったくないということを了解していた。じじつ、ぼくの友人がなした行為はその場では一切問題とならなかったし、「炎上」を受けて改めてその正当性が現場で検証された後においても、彼に落ち度はないと認められている。ようするに、「知っている人からみれば、炎上するようなことではない」というものだった。ちなみに、クレームをツイートした当人は、その「一連の文脈」を知らない存在、いってしまえば第三者だった。

140字に圧縮された言葉のなかでは、彼は圧倒的な「悪人」となってしまった。ほんとうは彼は悪くないのに、そして事態を知る当事者たちはその事実を知っているのに、Twitterの「社会」では彼は晒し物にされ、糾弾され、誹謗中傷を浴び続けていた。その光景は、ほんとうに地獄だった。

もちろん、「本当は彼は悪くない」とツイートすることも可能だった。だが、じっさいに「炎上」が起こり、大勢がすでに決している状況でそれを行っても、火に油なのだ。ぼくの友人は、ぼくらに何もするなと言った。また、友人は所属する組織にもいち早く事態を説明し、組織のメディア対応部門の方々と相談したうえで、反論を含む一切のリアクションをしないことが得策であるという結論を出していた。

今思えば、その対応は正解だったと思われる。ネット炎上なんて1か月もしたら誰もその炎上を覚えていないのだ。鎮火するまで待つことが一番なのである(その間に当事者の間で問題を解決しておく)。事実、炎上した本件は数週間もしないうちに、誰からも言及されなくなっていった。

だが(繰り返しになるが)当時は地獄だった。
Twitter上で何もリアクションをしない友人に対して、数多くのアカウントが攻撃した。
「○○は黙り込んでいる」
「何も言えないのか」
「せめて謝罪しろ」
「社会的な立場のある人ならちゃんと表にでてこい」
「○○は沈黙してますが、それはつまり非を認めたということですよね?」
「いい大人が謝れもしないとは…情けない」
「アカウントに鍵かけたぞこいつ。逃げんなよ」

こうした言葉の数々を見るのは、ほんとうにつらかった。しかしこれだけではない。
所属する組織には「電凸」もあった。
クレーム・ツイートのツリー(返信)にも、クレームした者に同情するコメントや、友人への誹謗中傷が積み重なっていった。非難の声、クレームの自己正当化、力の増大が止まらない。
#△△の○○(△は所属、〇は実名)のハッシュタグも作られた。

いまだに、友人の名前でTwitterを検索すると、上のハッシュタグが出てくるほどである。

友人の「同業者」たちも好き勝手、ツイートを重ねていった。
「ありえない」
「これは○○が完全に悪いですね」
「△△失格ですなこの人」

だがぼくは知っていた。あなたたち「同業者」も、友人と同じ状況にいたら同じ行動をとっていたはずであろうことを。この無力感、やるせなさ、どこに向ければいいのかわからない怒り。それはぼく自身にとって本当につらいものだった。「部外者は黙っていろ」と叫びたかった。
当事者に限りなく近いとはいえ、本人ではないぼくでさえそうなのだから、炎上のまさに中心にいた友人はどれほどのつらい気持ちだったのか、それは想像を絶する。

何も知らない人たち。彼らは通り魔になる。

一番堪えがたかったのは、本件とまったく関係のない人びとによる「感想」だった。つまり、クレームした人や的を得ない批評を並べる「同業者」ではなく、本当に何も知らない、何も関係のない、偶然その「炎上」を目にしたTwitter上の人びとが生みだす言説である。

彼らは、事態の表層や、140字に編集された文字をなぞるだけで得られた直感的な感想や意見を、通りすがりに投げつけてくる人たちである。

彼らは、ツイートをリツイート/引用リツイートしたうえで、「ありえない」「ひどい話だ」「非常識だ」「親の顔が見たい」「相手がかわいそう」とつぶやく。そして1時間もすれば、彼らは全く別の話題や炎上騒ぎについてつぶやいている。

そう、つぶやくのだ。ぼくはこの炎上を経験してはじめて、「ツイート」、つまり「つぶやき」の本質を見た。彼らにとっては、「なにか面白いものをみた」「またなんか炎上しているな」程度の対岸の火事なのであり、「ありえない」「親の顔が見たい」とツイートしたりリプをつけたりするのは、道端に落ちている石をつま先で蹴るような程度の「何気なさ」にもとづいているのである。

この「些細さ」、無責任な「つぶやき」が、当事者側のぼくからして最もおぞましかったし、暴力的だと思った。傍観者による何気ない、無責任な「つぶやき」が言説を増大させる。数千、数万へと膨れ上がった言説は、それ自体でじゅうぶんに人を殺せるとすら思った。Twitterには、いや、SNS全般には、この暴力を認可する構造があらかじめ備わっている。

誰かが手作りの夕食を投稿したツイートに、「おいしそう」と一言つぶやく。それと全く同じ機構、同じ労力、同じ心持ちで、「ひどい」「ありえない」とつぶやくことが可能となっている。それらは膨大な言説を構成して、その数で、当事者を蝕んでゆく。


この一件以降、ぼくは「つぶやく」ことが怖くなった。また、殺人や窃盗事件をはじめ、ニュースで報道されるあらゆる事柄についても、何かを想像したり、考えを持ったりすることをやめた。Twitterも、何かを引用リツイートしたり、どこかの「炎上」について何か見解を述べたり、誰かのツイートにたいして自分の意見を「つぶやいたり」することは、ほとんどしなくなった。なぜか。

自身が言説の産出と、その増大に寄与してしまっていることをはっきりと自覚したからだ。

何も知らない自分がとやかく言えることではない、ということに気づいてしまったからだ。

勝手に想像したり、意見や考えを述べたりしても、それは本当に「余計なお世話」に過ぎないということを知ってしまったからだ。

自分にはそもそも、その出来事に対して何かを満足に考えられるだけの材料がないということを、より自覚し、より重く受け止めているからだ。


「炎上」を構成するようなつぶやきは、誰かに矛先を向けているにもかかわらずそれを隠蔽し、さも無害な独り言かのように自己を装う
すくなくとも自分だけは、そのような暴力に加担してはならないと、この一件を機に誓った次第である。



過去の「炎上」について語りなおしているこのnoteも、言説の産出の一環であることは忘れてはならない。このnoteも誰かを傷つけているかもしれないし、誰かの通り魔になっているかもしれない。
そうした意識もあって、「炎上」の実際についての詳細で具体的な記述はしなかった/できなかった。そこは読者のみなさんには申し訳ないとも思いつつ、しかし理解してほしいとも思っているところ。

次回はなにか、もう少し楽しい話でも書きましょうか


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