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そして誰もいなくならなかった:Twitterの思い出
わたしはTwitterをやっていない。
かつてはやっていた。
2010年ころにTwitterを知り、すぐにアカウントをつくった。当時は、有名人からリプライが飛んできて喜んだり、似たような趣味をもつ人たち(その後、クラスタと呼ばれるようになるやつ)同士でオフラインでもつながるようになったりと、牧歌的なTwitter世界を楽しんでいた。
2014~15年ころ、ちょっとした政治の季節がやってきた。SEALDSが代表的だが、わたしとそう年齢の変わらない若者たちが、SNSを駆使して現実世界にも影響を及ぼす政治運動を始めた。そのまえの2011年の震災も一つのきっかけになったが、個人的には15年ころを境にタイムラインが急速に政治化していったように記憶している。
タイムラインの政治化によって、わたしはTwitterでつぶやくことが少なくなった。「このつぶやきによって、タイムラインにいる誰かを傷つけてしまわないだろうか」、「誰かから誤謬を指摘されたり、炎上しないだろうか」…そんなことばかりを考えて、次第につぶやきの頻度が少なくなり、ついには鍵垢にした。
おそらく考えることはみな同じだったのだろう。相互フォローだった友人・知人の多くはつぶやきの頻度を減らし、鍵垢にする人も少なくなかった。そのうちTwitterの仕様も変わり、タイムラインにはフォローしていないユーザーのつぶやきばかりがレコメンドで表示されるようになった。こういうときにタイムラインに登場するのは、たいてい誰かの発言が炎上したとか、そんなどうでもいいツイートばかりだった。
ギスギスしたタイムラインを見ることの苦痛はコロナ禍を経て限界を超え、21年の春、ついにアカウントそのものを削除した。
タイムラインやトレンド、炎上ばかり気にして、Twitterを楽しむことができなくなった。tweetすることがリスクでしかないと感じるようになった。炎上した事件ばかり追いかけて時間を溶かすことに、強い自己嫌悪を覚えた。
オフライン・オンラインに関わらず、他人や他人の価値観に配慮した発言を心がけることは常識である。現代においては性的・人種的・宗教的、あらゆる面での多様性を念頭におくことが大前提である。わたし自身も、その大前提のうえで日常生活の発言やふるまいを常に自己点検しているつもりだ。
しかし、日常生活で友人や同僚に囲まれた場での発言と、Twitterで誰もが閲覧できるWeb上での発言は、その重さが違う。
前者の場で間違った発言をしたら自分なりに反省し、その後同じことを繰り返さないようにすればいい。誰かを傷つけたなら当事者に謝罪し、それでも許してもらえないならば、その人との関係はそこで終わりということだ。
後者の場では、それは通用しない。
ひとたび炎上すれば、一生対面することのない無数の匿名ユーザーにひたすら謝罪し続けても、現在のTwitter世界では何の贖罪にもならない。たとえ鍵垢にしていたとしても、魚拓をとられて拡散したらおしまいである。
本当に悪意のある投稿内容であったのなら、被害者からプロバイダ開示請求されて、そのまま賠償請求もあり得る。そうなったら社会的に終了だ。
友人・知人の様子を確認するのはFacebookでいい。お店やファッションなどの情報を収集するならInstagramでいい。書きたいことがあればnoteに書いて、内容が不味ければいつでも修正すればいい。
またいずれもメディアの特質上、不用意な発言をしてしまうことによる炎上のリスクはTwitterよりもはるかに小さい。
情報収集にも発信にも、Twitterを利用する必要がないのだ。
Twitterでしかつながっていない知人というのもいることにはいた気がするが、そんな人には連絡が取れなくてもついぞ困ることがないので、きっぱりあきらめることにした。
こうしてわたしのTwitterライフは終わりを迎え、不毛な炎上や争いを見ないことで精神的な安寧を得た。
ところが、わたしの友人・知人のほとんどは現在もTwitterを継続しているようである。しかも実名で公開アカウント持っている人も少なくない。
先日は、とある友人が炎上に巻き込まれて、しかも実名を出しているものだから、仕事にも支障をきたしかねない誹謗中傷をうけたようだ。
経営者や有名人になりたい欲求がある人ならまだしも、わたしを含め無名の一庶民が、戦場のように殺伐とした言説空間のTwitterにリスクを背負ってポストを続けることに何の意味があるのか。
とっくの昔に負の連鎖から解脱してしまったわたしから見ると、実に不思議に思える。
イーロン・マスクが買収し、社名まで変更し、敵対サービスも登場し、その度にいよいよ終わりかといわれ続けながら、なんだかんだ無くならないTwitter。誰も使うことをやめないTwitter。
Twitterを支えているのは、身の丈に合わない炎上や誹謗中傷のリスクを背負いながら、今日もTwitterをやめられない無数の一般庶民なのかもしれない。
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