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親と子

(カバー:野風増/河島英五)

子供を持つ人のことを「親」と呼ぶ。「親」という言葉にはなにやら、やたらと深い意味がある。

子供が生まれるということは、その子供が独り立ちできるようになるまで、親として一緒に生きていくということだ。その子供は将来どんな人間になるか全くわからない。総理大臣になるかもしれないし、犯罪者になるかもしれない。親である自分を愛してくれるかもしれないし、自分を殺すかもしれない。
「親」となったからには、偶然性の塊でしかないこの「子」という生き物を、ひとまずは一端の人間に育て上げることを考えねばならなくなる。

子供を育て上げるその過程に様々な悩みや苦しみがあることは、子を持たぬ人でも想像にかたくないだろう。多くの親は、意味もなくただ泣く新生児を前にして「自分のお世話の仕方が悪くて子供を苦しめている」と自責してしまう。親になった瞬間に、人の脳にはそう考えてしまう思考回路がインストールされてしまうかのようだ。
万が一にも子供が死んでしまうことを考えてみれば、その親が負うであろう苦悶は想像を絶する。自分が死ぬならまだ良い。自己責任だと思うことができる。しかし子供が苦しんだり死んでしまったとき、当事者の親は必ず「自分のせいだ」と自責する。親の行為と子供の苦しみや死になんの因果関係がなかったとしても、親はそう考えてしまう。

子を持つということは、恐らく現代社会における最大のリスクだろう。しかし我々の世界は、親子や家族関係のバリエーションを多少持ちつつも、おおよそこのような親と子の関係を軸にして人間を再生産しながら細々と続いている。
友人ならば絶縁できる。夫婦ならば離婚して戸籍を書き変えることができる。しかし親子の血が繋がっているという遺伝子的事実は消去できない。

親は一生「親」、子は一生「子」であり続ける。

お前が二十歳になったら 酒場で二人で飲みたいものだ
ぶっかき氷に焼酎入れて つまみはスルメかエイのひれ
お前が二十歳になったら 想い出話で飲みたいものだ
したたか飲んでダミ声あげて お前の二十歳を祝うのさ

野風増/河島英五

下戸のわたしは、子供の二十歳をどう祝うのか。
貧弱な未来への想像力は、無心に育っていく偶然性のかたまりを前に、なんの意味も持たない。わたしも無心になり、まずは健康に育ってくれと願うほかない。

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