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書評・感想『病が分断するアメリカ』 ~公衆衛生と「自由」のジレンマ~  平体由美著 感想と個人的な評価

個人的な評価:★★★★★(星5.0)

正直言うと、あまり期待をせずに読んだが、読んでみるととても良い本だった。
評価としては5点満点とした。

なぜとても良い本だったのかという理由は、「本書は単にアメリカにおける公衆衛生の問題を論じた本に留まらない内容だったから」ということである。
より具体的に言えば、本書は「公衆衛生とは何か」という、より広い視点を詳しく論じたうえで、それがCOVID-19の蔓延するアメリカにおいて、どのように分断を拡げて言ったのか、という論理展開を行っている。さらに、アメリカで公衆衛生が直面した課題について、「アメリカ的自由」というより深い観点から考察を行っている
こうした点が、私にはとても納得性が高く思えた。

周知のとおり、2020年から2023年の初頭にかけて、我々はCOVID-19の蔓延による、いわゆる“コロナ禍”に苦しめられてきた。そしてその期間における日本とアメリカの感染対策をつぶさに見る、という機会に“図らずも”恵まれてきた。
そして本書では、我々が見てきたアメリカにおける感染対策や、それに対する人々の反応に対して、「公衆衛生のあり方」や、「公衆衛生が構造的に抱えている課題」という視点から、アメリカにおいてどのような課題や問題点が浮き彫りになったのか、という点を非常にクリアーに描いている。
その意味で、大変勉強になる一冊であったと感じている。

1.  公衆衛生の持つ特質など

まずは公衆衛生に関して、著者が指摘する特徴・特質をいくつか取り上げてみる。
 
まず、医療と公衆衛生の違いについて、以下の表で整理してみた。

本書の内容を整理

公衆衛生は、このように集団に働きかけることを主たる目的としているが、その機能は非常に“パターナリスティック”にならざるを得ない。
ここで、“パターナリスティック”の意味を確認するため、「パターナリズム」についてウィキペディアの説明を引用してみる。

パターナリズム(英: paternalism)とは、強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益のためだとして、本人の意志は問わずに介入・干渉・支援することをいう。

ウィキペディアより

“パターナリスティック”とは、「パターナリズムの要素を持った」とか、「パターナリズム的な」という意味になる。
すなわち、「強い立場にある者=国あるいは公衆衛生当局」が、「弱い立場にある者=国民」の利益のためだとして、「個々の国民の意思は問わず」に、介入・干渉・支援することを意味する。
 
パターナリズムで典型的な例としては、「自転車利用者のヘルメット着用の努力義務」が挙げられるだろう。
「強い立場にある者=国」が、「弱い立場にある者=国民」の利益のためだとして、「個々の国民の意思は問わず」に「介入・干渉・支援」することにまさしく該当する。
 
自転車の利用者がヘルメット未着用で事故にあっても、基本的には自転車利用者自身が未着用に関する不利益を蒙るだけで、他の人が被害や不利益等を受けることはない。もちろん、「その事故の加害者」が存在する場合には、加害者にとって被害者の怪我が小さい方がいい、ということはあるだろう。(※)しかし、第一義的には、ヘルメット着用の利益は、自転車利用者本人だけが受けるものであり、それを「努力義務化」するという行為は、まさしくパターナリズムそのものである。
 
(※)他にも、被害が小さい方が、被害者の家族の悲しみが少なくて済む、公的・私的保険の負担が少なくて済むなどの利益が存在すると言えば存在している。
 
それに比べて、公衆衛生の場合には、例えば「緊急事態宣言下における外出の自粛」などについては、外出しないことで、その国民自身がCOVID-19の罹患を避けられるだけでなく、他の国民を罹患から守ることにもつながる。つまり、それは本人の利益だけではなく、「集団としての国民」の利益につながるものである。このため、自転車利用者のヘルメット着用の努力義務に比べれば、パターナリズムの程度は小さいのかもしれない。
しかし、基本的な性質として、パターナリスティックであることには間違いない。
 
さらにここで重要なことは「個々の国民の意思は問わずに」という点にある。
日本においても、コロナ禍における「緊急事態宣言」をはじめとする政府の各種の措置は、ある意味当然ではあるが、個々の国民意思は問わずに行われた。それに対して反発もあったが、アメリカではこの点に対する反発が日本以上に強かった。それには、アメリカ人独特の思考法があった、ということが後述される。
 
公衆衛生は、①集団に対して働きかけるものであること、②パターナリスティックな性質を持っていること、の2つの理由から、著者は以下のような性質を持っていると説明している。

現代の公衆衛生は、行政機構の充実度とそれを維持・発展させる政治的意思、それらに対する住民の理解と信頼によって左右される、まことに「現代的」な性質を持つ。

本書より

公衆衛生の持っているこうした基本的な性質は、COVID-19によるコロナ禍が一段落した今、あらためて2020年1月以降のコロナ禍を振り返ってみて、「そうだよなぁ」と思わせるものがあると感じた。

2.公衆衛生を理解するための3つの要素

(1)数を数え分析すること

著者が挙げている「公衆衛生を理解するための3つの要素」の第1番目は、「数を数え分析すること」である。「もう少し洗練された表現を使うならば、疫学的・社会学的調査と統計処理となろう」と著者は説明している。
 
著者の言う「数」には、例えば以下のようなものが含まれる。

  • どの病気がどの地域で何件発生しているのか

  • どの年齢層で発症が多いのか

  • 上記については、増えているのか、それとも減っているのか

  • 死亡率はどれくらいか

こうした基礎的なデータを収集することができれば、重点的に対処すべき場所や対象者が特定され、為すべき対策も明確になってくる。
 
しかし、「数を数えることはそんなに簡単なことではない」ということが、筆者の指摘していることなのである。
 
まず、公衆衛生では最初に「病」と「死」の原因を数えることが必要になる。
しかし例えば、以下のような事例では「死因が何か」を特定することが容易ではない。
「急性心筋梗塞で死亡したと思われる人が、新型コロナウィルスに感染していたが自覚症状が無かった場合」
これは、新聞に載った事例だそうだが、各自治体で頭を悩ませる事例の一つだという。

さらに、国によっては、患者の正確な年齢がはっきりしないことがある。
更に、富裕層、中間層、貧困層などの社会階層による違いを見出したい場合には、それぞれの階層の基準を明確化させる必要がある。
アメリカでは、白人・黒人・ヒスパニックなどの人種別の疾病状況や死亡率が出されているが、何に基づいて数えられているかは、地域によって異なっている。
 
著者は言う。
「数を数えることは一般に考えられている以上に困難であることを強調したいのである。」

(2)健康教育を行うこと

著者が挙げている「公衆衛生を理解するための3つの要素」の第2番目は、「健康教育を行うこと」である。
 
著者の言う「健康教育」には、例えば以下のようなものが含まれる。

  • 何が病気なのか

  • どうしたら(その)病気を防ぐことができるのか

  • 罹患した場合どうしたらいいのか

  • 上記に関する情報提供と啓発を地域住民に行う

健康教育については、単に情報を提供して教育するだけではだめで、人々が日常の行動を変えるところまで行う必要がある。そうでないと、病が広がるからである。
著者は言う。
「適切な歯磨きの方法の講習を受けたとしても、個人が歯磨きを適切に行わなければ、虫歯や歯周病を減らすことはできない」
 
しかしながら、情報を提供して教育をしても、それに人々は従うとは限らない。

生活習慣病のリスク要因を知識として承知していても、定期的な運動や食事制限、禁煙を継続するかどうかは別問題である。
自分の苦痛を取り除くための辛抱はできても、健康のためとはいえ不調の自覚がない中で、自分の欲望を我慢することは普通は長続きしない。

本書より

さらに、例えば日本では若い女性の痩せ願望は強く、20代女性のBMIを適正化しようとする目標はなかなか達成できずにいる。
つまり、健康教育は個人の欲望や社会の当為と衝突することがよくあるのである。
 
そして、健康教育にはジレンマがある
それは、専門家が周知したい情報が必ずしもそのままの形で住民に届かないことである。
人々は受け取った情報をそれぞれに解釈し、行動に反映させる場合もあるし、無視する場合もある。さらに、複数の専門家が食い違ったメッセージを発した場合、人々は情報の信頼性を疑う。
 
これは、私たちがCOVID-19の蔓延時にまさしく経験したことであると言える。
私自身も、自分と友人の考え方や対応の違いに大変驚かされたし、いろいろな「専門家」が様々なことを言うので、混乱させられた。
時の首相であった菅氏が、退任後に「専門家の言うことが人によって違うので大変困った」という趣旨の発言をしたことが、強く印象に残っている。

(3)行動制限を行うこと

著者が挙げている「公衆衛生を理解するための3つの要素」の第3番目は、「行動制限を行うこと」である。
 
これは、公衆衛生が監視するすべての全ての病が対象ではなく、感染症の中でも命にかかわる病気、検疫や隔離によって感染拡大スピードを緩やかにするのが望ましい病気に適用される。
 
行動制限は、古くから以下の2つの方法が行われてきた。
検疫:地域の人々を守るために、域外から移動する人や物資を一定期間留め置きしたり、発症者の通行や上陸を拒否したりする。
隔離:発症者を他人に感染させるリスクが十分低下するまで、自宅や収容施設に留まるように求める。
 
行動制限は、それが発動される状況は限られている。さらに、その効果には限度が存在している。

行動制限は、公衆衛生のターゲットである急性感染症の集団的コントロールにある程度の効果がある。発症者や保菌者をその地域から隔離したり入域を制限したりすることによって、感染拡大の範囲を限定しスピードを一時的に遅らせ、対応する医療に準備の余裕を与えることができるからである。
しかし、検疫や隔離、外出禁止は感染拡大のペースを緩やかにすることはできても、完全に排除することは困難である。感染の強さや感染方法は病によって異なるし、詳しい検査なしに未発症の感染者を発見することはできない。

本書より

行動制限は、何よりもまず個人の自由と相容れない状況を発生させる。日本では、「不要不急の外出禁止」が中心だったが、それ以上の規制を行った国が多数存在した。
さらに、検疫、隔離、外出制限はビジネスに多大な影響を与えたことは、我々の記憶に新しい。
 
こうしたことから、行動制限は一方で感染拡大の食い止めに寄与する一方で、個人の自由の制限とビジネスへの影響がもたらすネガティブな影響との間に、強い緊張関係をもたらす。
すなわち、行動制限は社会的・心理的・政治的に多岐にわたる影響を与えるため、メリットとデメリット、あるいは、コストとベネフィットを巡るジレンマがどうしてもついて回るのである。

4.公衆衛生が持つジレンマ

著者が、公衆衛生に関して行っている様々な説明の中で、目立つ言葉の一つが、「ジレンマ」である。この言葉は、本書のサブタイトルである「公衆衛生と「自由」のジレンマ」にも使われていることからも、著者が重視している言葉であることがよくわかる。
すでにいくつか紹介しているが、さらに著者が指摘している「ジレンマ」をここで見ていくことにしたい。

福祉国家が引き起こした財政赤字を軽減するためとして、公衆衛生機構の整理と合理化が議論されている。日本では2019年までに保健所の統合や看護学校の整理などが進められてきたが、それがCOVID-19の発生で、現場の職員の人員不足と極度の超過労働をもたらした。
公衆衛生のもう一つのジレンマとして、効果を上げれば上げるほど住民にその重要性が見えなくなるという現実がある。命にかかわる感染症にかからないことが当たり前となり、それを支えてきたシステムが無駄と感じられるのだ。

本書より(太字は筆者)

引用の前半部分は、コロナ禍でテレビなどでも指摘されてきたことだ。しかし、私にはそれを公衆衛生の持つ、一種の“宿命的”なジレンマとして捉えるところまではできなかった。
 
最後に指摘したい公衆衛生のジレンマは、公衆衛生を理解するための3つめの要素である「行動制限」に関するものである。

現代行政国家に成立した公衆衛生はジレンマに満ちている。誰も好き好んで病気にかかりたくはない。しかし、病のリスクがあるとわかっていてもやりたいこと、やりたくないことはある。その中で何を政策として選択し、どこを諦め、どれに自由と選択を保障するかを、集団として選び取っていかざるを得ない。公衆衛生はそのような議論と政治的決断のプロセスが欠かせない。まことに厄介な政策分野なのである。

本書より

この感想と書評を書いているのは、Covid-19の流行が一段落してから約1年後である。その時期にあっても、2020年から何回か発出された緊急事態宣言に対する批判の声をSNS等で時々目にしている。
当時の選択が正しかったのかどうかは、今となっては誰にもわからないわけだが、しかし、本書を読んで、当時の政権幹部や、専門家集団が直面していた「ジレンマ」に対して、改めて思いを馳せるよい機会となった。

5.「自由の国」アメリカにおける公衆衛生のジレンマ

本書において、著者は最初に公衆衛生の持っている基本的な性格と、必然的に直面する様々なジレンマについて説明したうえで、それがアメリカのコロナ禍でどのような問題に直面したのかを丁寧に説明している。
公衆衛生が、コロナ禍でのアメリカで直面したのは、「アメリカ的自由」との相克であった。
著者は、「アメリカ的自由」として以下の3つを指摘している。

  1. 自分たちのことは自分たちで決める。

  2. 権力や権威の腐敗を避けるような仕組みを整える。

  3. 選択肢が複数ある中で、選択を行う。

まず、「自分たちのことは自分たちで決める」ということである。
これは公衆衛生を含む公共政策を決定する際に、自分たちが参加することの保証であるとともに、自分たち以外の誰かが決定して押し付けることの否定を意味する。
最初に、公衆衛生はパターナリスティックである、という著者の指摘を紹介した。
パターナリズムとは、既に説明した通り、「強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益のためだとして、本人の意志は問わずに介入・干渉・支援すること」を意味する。
つまり、公衆衛生とはまさしく「自分たちのことは自分たちで決める」というアメリカ的自由の考え方と相容れない性質を持っていることを意味しているのだ。
例えば、ニューヨークでは、ニューヨーク州とニューヨーク市が異なる判断をして、対立が生まれた。州と市との判断が食い違った場合には、州の判断が優先されるのだが、それにも拘わらず、市の対応には強硬さが目立った。
これはまさに「自分たちのことは自分たちで決める」という論理の表れだと言う。
 
次に、「権力や権威の腐敗を避けるような仕組みを整える」ということだが、アメリカ人は、公共政策を決定したり、それを守らせたりするために権力が必要であることは理解している。さらに、権力を持つものが、一定の方向性を示す必要があることも、わかっている。
公衆衛生においては、「専門家集団」が権力を持って、方向性を指し示すことになるのだが、それに対して「うさんくさい」と住民は感じる、と著者は指摘している。

医療に限らず、自然科学や心理学、社会科学、インターネットテクノロジーの専門知識への尊敬は高い。しかし、それが自分たちの生活上の自由を制限する方向に働くとき、「よくわからない専門知識で一般人をけむに巻く」専門家に対する反発は大きくなる。

本書より

第三に、「選択肢が複数ある中で、選択を行う。」ということであるが、パンデミックを食い止めるための公共政策には、住民の選択肢はほとんど存在していない。さらに、「ワクチン接種は個人の選択」と言っているのに、接種していない者のチェックが行われたり、公共の場への立ち入りが制限されたりした。こうしたことは、選択肢がない状況がつくられていることを意味しており、アメリカ的自由の考え方との相克が生まれる。

隔離・検疫・行動制限が個人の行動の自由の選択肢を奪うものであることは事実である。これがマスク着用義務やワクチン接種の義務化と組み合わされたときには、そしてその命令が公衆衛生専門家から直接発せられたように装われたとにきは、アメリカ人の反発は自由のイデオロギーの基づくものになる。

本書より

日本においては、緊急事態宣言という形で、自粛要請に留まり、完全な形での行動制限は行われなかったが、それでもかなりの反発や批判があったと記憶する。
自由の国アメリカにおいて、より強い反発があったのはある意味で当然であったということができるだろう。

6.ワクチンにおけるジレンマ

本書に関する感想・書評がだいぶ長くなってしまった。以下は、私が考えるポイントのいくつかをレビューすることに留めたい。
 
まず、ワクチンについてである。公衆衛生と同様に、ワクチンにもジレンマが存在する。
 
ワクチンは、公衆衛生の中でも、社会に様々な反応を引き起こしている存在となっている。
「ワクチンは自らの成功の被害者である」としばしば言われているように、感染症で多数が死亡する時代が過去のものになったからこそ、ワクチンへの社会の期待は低くなり、むしろ害のほうに注目が集まるのである。

新しいタイプのワクチンが導入される際には、安全性への懸念が必ず問題化する。製薬会社はできる限りのリスクを考慮してワクチンを開発し、認可を与える期間も慎重に審査をしているが、すべてのリスクを排除することはできないし、あらゆる人に対して絶対安全なワクチンは残念ながら存在しない。

本書より

最初に述べたように、公衆衛生の主たる対象は「個人」ではなく「集団」である。すなわち、集団の疾病リスクを下げることがその取組み内容である
その一方で、人々は、集団のために公衆衛生政策を受け入れるというよりもむしろ、自分と家族の利益のために受け入れる

公衆衛生にとってワクチンは集団の感染リスクを下げる重要な手段である。しかしワクチンはすべての人にとって安全とは限らない。そして人は地域社会の流行病を減らすためではなく、自分と家族を流行病から守るためにワクチンを打つ選択をする。

これがまさしく、公衆衛生としてのワクチンの持つ重大なジレンマなのである。

7.最後に・書評と感想のまとめ


本書では、まだまだ様々な興味深い議論と説明が展開されているが、これ以上は本書評の範囲を超えるので、割愛する。
 
本書を読んだのは、某書評での紹介を読んだからである。実を言うと、その書評の中身はあまり読まず、タイトルを読んだだけで、購入を決めてしまった。本書を読む前は、「比較的ありきたりの『アメリカ評』なのだろうなぁ」という程度の期待しかしていなかった。(それなのに、本書を購入したのはなぜか?笑)
 
しかし、既述の通り、本書では「公衆衛生とはどういうものか」ということに関して、最初に解り易い説明がなされ、さらにそれが「アメリカの自由」とどのように「ぶつかる」のか、ということについて、明快で論理的な話が続いた。結果として、とても納得感が高かった。
最初の期待は、大変よい意味で裏切られたと言える。
 
本書を読んで、公衆衛生というものの難しさをよく理解できた。それは、著者の以下の言葉に集約されていると言っていいだろう。

現代行政国家に成立した公衆衛生はジレンマに満ちている。

本書より

コロナ禍にあって、政府の対応は、様々な人たちからいろいろな批判を受けてきた。そして、私自身も、政府の対応には大きな不満も感じてきた。
しかし、その背後に「公衆衛生のジレンマ」が存在していることを、少なくとも明示的に理解してはいなかったと言える。
COVID-19は、幸いにして流行のピークが過ぎ去ったようだが、またいつ、違うウィルスが襲ってこないとも限らない。
そうした時に、私たちはその都度、「公衆衛生のジレンマ」に直面していくことになるのだろうか。そう考えると、少し背筋が寒くなる思いがしてくる。

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