拝啓、西高バスケ部顧問様
高校3年生の8月、試合終了のブザーが鳴った。
公式戦敗退。
これで僕達のバスケ部での活動は終わった。中1からバスケを始め、6年間のバスケットマンとしての人生を終えた。
「先生、バスケ部辞めたいです」
そう言ったのは、高2の夏。
強豪でもない普通の公立校である西高バスケ部には、各学年7、8人の25人ほどのチームで、OBがコーチとしてやってきておりました。
高2になり、先輩の試合をスタンドから見つめていたあの頃。私には、ある確信がありました。
基本的にはスタメンの5人以外は試合に使う気が無い
もちろん、例外もありました。5ファールでの退場や怪我、そんな不測の事態があった場合は、来年度のスタメン候補が使われることはありました。
どんなに大差で勝っていようが、負けていようが、決して代える事はありませんでした。
一つ上の先輩の林田さんは、バスケが好きですが特徴の無い、ハッキリ言って才能の無い選手でした。しかし、いつも声を出し練習熱心な先輩でした。面白い人ですし、そんな林田さんを慕う人も多かったです。
身長は高くもなく、低くもない。スピードもチームで4、5位ぐらい、バワーで言ってもそのくらい。残念ながら何をするにしても足りない選手でした。ただ、バスケが好きであるその気持ちはみんな感じていました。
その先輩は11番の背番号の選手でした。
しかし結局、11番がコートに立つことは1度もありませんでした。
高2の夏、私たちの世代になりユニホームが配られました。私の背番号は
13番
ユニホーム貰えただけましか。。この瞬間悟りました。
きっとコートに立つことは無い。
どんなに頑張ってもチャンスすら貰えなかった林田さんを見ていた僕には、そう確信がありました。スタメン5人の練習の為に代わり替わり相手をする他のメンバー。練習ですらアピールの場は無い。ましてや、1年間しかない状況でとてもじゃないが13番の選手が1ケタ番号になる望みもない。
汚れもしない綺麗な13番のユニホームでベンチに座るだけのバスケ部員
必要ですか?
思い返せば、部活動はなかなか残酷です。
中学の卒業アルバム。ユニホームで撮った集合写真。私はボールで15番のユニホームを隠しています。もちろん、試合には一度も出た事はありませんでした。
「先生、バスケ部辞めたいです」
なぜか止められました。私が必要とされる場所は、スタメン以外がする他のチームの試合の時のオフィシャル?ボール運び?練習相手?何のために?
それから20年が経ちました。
私は、病気になりました。
今まで、忙しく働いてきた私に人生を振り返る時間が出来てしまいました。
今まで、充実した時間を過ごせてきたか?一生懸命生きてきたか?そう振り返った時、どうしても高校のこの1年間が気になります。
帰宅部のエースがする話は青春を感じますし、いい大学を目指すべく勉強に勤しんだ人とは今は大分大きな差になっています。
出れもしない試合会場に休日向かったあの日
今思うと出す気ないのならば呼ばないでほしかった。
毎日練習で夜遅く帰宅していたあの一年
早く帰って違う時間の使い方が出来れば人生は変わっていたでしょう。
卒業アルバムには、ボールで13番を隠した私が2列目の端っこに映っていたでしょう
親に見られたくなく、卒業式の帰りに駅のゴミ箱に捨てました。
あれから、もうバスケ部員とは連絡も取る事もなく、どこで何をしているかも知りません。あの一年間、私は何をしていたのでしょうか?
2年の夏、人生の損切りタイミングとしては最高のタイミングだったのではないでしょうか?
拝啓、西高バスケ部顧問様
あなたはなぜあの時私を止めたのですか?何のために?
今、白い天井のみを見つめるだけの日々になり、私はあの1年間を後悔すらしています。
私はあの1年間で何を得たのですか?
20年経った今でも分かりません。教えてください先生。
人生は思ったより短いです。部活を最後までやり遂げた事に何も意味が無いとまでは言いませんが、損切りして新しい自分を探す選択もアリではないでしょうか?
8月31日。
あなたは夏の間頑張りました。
もしかしたら部活を最後までやり遂げる事には意味が無いのかも知れません
私は、損切の選択もアリだと思います。
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