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わたし、「ねむれぬつき」と申します(人に歴史あり②)

↑に引き続き。誰得な自分語りにもう少しお付き合いくださいまし。


それまで、なんとしても欲しいものは、どれだけ時間がかかっても必ず手に入れてきたような人生だったと思う。 

が、ここで一つの転機が訪れる。


別れは出会いを連れてくる、なんて安い慰めの台詞のようだけど、
傷心を抱えていても新たな出会いって訪れるもんなのね。

その人とはまたお互いのホームページ(当時の言い方ね・笑)を通じて出会う。

彼はモテるためのバイブルを読み込んで実践しながらも失敗を繰り返し、そのイケてなさをコミカルに放出している人だった。

今日の失敗。ざあざあ降りの中、バスから降りて雨に打たれながら、そこで目が合った見知らぬ女性に話しかけるミッション。とっさに口を突いて出たのが「パンツびしょびしょですね」ああだめだパンツの発音完全に間違えた、不審者でしかない…みたいなそんな感じの。(笑)

わたしはそんな彼のおかげで、大きな執着を捨てることになる。


彼は大学院生だったのだけれど、
(しかも偶然元彼と同じ大学…専門は違うけど)
本当に自身の学ぶ学問(物理学)を愛していて
というよりその学問を媒介にして彼は世の中をとらえていると言っても過言ではないくらいで
勉強できるなら居場所はどこでも構わない、を体現していた。

学力偏差値の高い人たち、頭脳明晰な人たちは、わたしの周囲にたくさんいた。

だけどそれに加えてこんなにシンプルに、
「学ぶことが好き」な人には出会ったことがなかったかもしれない。
ハタチをすぎて、こんなに澄んだ目をした人を見たこともなかったかもしれない。

自分がどんなに知識をインプットしまくっても、だけどまだ足りない、まだわからない、知りたい、に純粋に突き動かされている。


生々しい欲望と邪念まみれのわたしにはとても神々しく映った。


彼にしてみても、その頃ちょうど岐路に立たされていた。

自分の内なる世界と外的な現実の間を分断するように開いていく埋まらない溝。
世の中は自分にだけやさしくないと感じていたかもしれない。
だけどそこで生きていかなくてはならない。

内界と外的現実。
表面的に姿形を周囲に「馴染ませる」ことで往来しやすくなるのでは思ったのか、
ファッション雑誌を読み込み、トレンドの服を身に纏ってみる。

当然肉体的な愛欲も満たせるなら満たしたかっただろう。
馬鹿馬鹿しいとどこかで分かっていながら、「モテ」のマニュアルを実践してみる。
だけど当然いつもちょっとなんかおぼつかない。

わたしはそんな彼をとても愛おしく、とても尊く感じた。



そうやんな。
よーわからんこだわり、ちょっと揉みほぐしてみたらええやんな。



そもそもわたしはなにをしたいのか。

わたしはこれまでの人生、たくさんの人に護られ、助けられてきた。
いまここにいてほしい、という人が必ずそばにいてくれた。
わたしもそばにいたい。その人の人生にとってその人が必要だと感じるときに。


だけど、知った気になってはいけない。
苦しい思いをしたから、人の気持ちもわかる?

そんなわけない。
わたしはとても敏感。子どもの頃から感受性は強かった。共感性も高い方だろう。
相手の目を見るだけで、その奥底に揺蕩うゆらぎがわかったような気になることだってたくさんある。

だけど、それは「わたし」の目で見た「わたし」のこころの現実であって「あなた」のことではない。

きちんと繋ぎ止めてくれる何かが必要。
わたしはちょっと見切り発車なところもあるから。

ひとのこころって本当にむずかしい。
だけどすごい。おもしろい。知りたい。もっと。


そして同時に、自分のことを知る旅も続けなくてはならない。
感覚を研ぎ澄ませて、いろんなことを感じられる、表現できる、それを形にできる、自分でありたい。

詩人に、作詞家に、歌う人に、なりたかった自分。
だけどわたしには残念ながら、飛び抜けて素晴らしい作品を生み出せるようなポテンシャルがあるわけではなさそうだということ。
15歳の頃くらいに気づいてはいた。

その頃から、それを生業にするのは難しいだろうとわかっていた。

だったら、ひとりひとりのこころのそばに寄り添っていたい。
たくさんの人に届くような強い光を放てなくても、わたしはぼわぼわとここで灯っていよう。

内界と外的現実の間であそべるひとでありたい。

わたしはヒーラーでもなければ預言者でもない。
神でもない。
人を救うなんて大それたことは考えていないしできるとも思わない。
他者の人生に関わろうと思うのなら、土足で踏み込むようなことは絶対にしたくない。
そっとそばにいられるひとでありたい。

そうあろうとするためには学問の枠組みの中で体系的にきちんと学ばなくてはいけない、と思っていた。
きちんとトレーニングをうけて、研鑽を続けなくては維持できないような、信頼性の高い資格でなければ意味がない。

外的現実における表層的な目標は決まっている。

「臨床心理士」資格を得る。研鑽を重ねる。


ならば臨床心理士になれるカリキュラムを持つ大学院であればどこでもいいではないか。
自分の本質的な学びについては、どこに身を置いたって自分で追い求めていけるはず。

彼がそうしているように。

その後ほどなくしてわたしは、第一志望どころかそれまで眼中にもなかった大学院へ進学。

これまでのわたしには見えていなかった扉を開け、新しい一歩を踏み出したのだった。



(多分続く)

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