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しあわせの形って?

noteをちゃんと書いてた休職中のわたしとは全く別人かのように忙しくなってしまっているここ3週間ぐらい。

それはそれでしあわせだ。
仕事があって家があってお金がもらえて、そもそも健康に働ける体があって。そんな割と当たり前とでも言えるようなことがしあわせだと思っている。

でも最近改めて考える。
しあわせってなんだろうか?わたしは今そのしあわせに向かって日々過ごせてるんだよね?と。

不自由なく暮らしていけて毎月少しの貯金もできて、っていうぐらいのお金を稼いでいて、茨城で働けていて、ふとした時に茨城を感じられる心の余裕ができるぐらいのスピードで働けばいいや、てかそれがいい、って思ってた、3か月前。
今だってそう思ってる。

だけどさ。

それだけじゃなくて欲も出てきていることを否定できない。
自分のビジョンを実現させたい、「わたしはこれができる」と言えるものがほしい、とかね。

それを全部頑張ろうと思うと、さっき言ってた自分のしあわせを自分で感じられるスピードで働いてたんじゃ到底実現できない。
今や成功者と言われる人から話を聞くけど、誰も肝が据わってるというか、覚悟を持って仕事をしている、当たり前だけど。

わたしはそんなふうに何かに取り組むのもかっこいいしなかなかできないことだと思うんだけど、なんか違う気もしている。なんだろうかこの違和感。


紫陽花の季節ですね

そうやって日々をいそいそと過ごしていくうちに、大事な何かを忘れてしまって、わたしが本当に望んでいる日々を過ごせないような気がしている。自分のビジョンを実現させるために本気になることは、わたしにとって本当に居心地がいい方を選ばないということな気がしている。

二者択一じゃないと言ってくれる人もいるのかもしれないけど、二者択一にしか思えなくなっている。なんかどっちつかず。

縁側に腰掛けて、庭のトマトとかきゅうりとか花を愛でる。
明るくなったら起きて、暗くなったら寝る。
風のあたたかさや冷たさ、光の加減を感じてシャッターを切る。
すれ違ったご近所さんやおばあちゃんと井戸端会議する。
鳥の声も聞こえる。

わたしにとってはなんてことない日常なんだけど、それには程遠い暮らしをしてしまっている。そんな暮らしは今すぐには来なくてもいいか、老後にとっておこうと思ったりもしている。でもそういう暮らしも含めて、やりたいことはやりたいと思ってるうちにやらないと、やりたくなくなったりやれなくなっちゃうんだよって思ってもいる。

明日も明後日も、うーーーんって思いながら息をするんだと思う。
まあまあ、そんなお年頃なのかもしれないからいいんじゃない。悩め。

仕事熱心な人に近づきすぎると火傷しそうになるけど学びも多い。
永遠のジレンマなのかもしれない。





いつかこんな景色みたいにすっとするのだろうか、わたしの気持ちも

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