見出し画像

緊張、恐怖、期待、それでも春を待つ

あったかい日と寒い日が交互にやってくる毎日。
ちょっとずつ春の足音が聞こえてくるみたいでわくわくしながら、薄めのコートを手に取る。

どうして春の前のこの時期はいつもきゅんとするんだろうか。
特段切ないことがあったわけでもない今日も、窓から差し込んでくる太陽の光とか、肌に感じる風とか、歩く人たちの顔とか。今日はちょっと寒いけど、冬とは圧倒的に柔らかさが違う。

春は別れの季節とか出会いの季節とかなんとか言うけど、つまりは何かしら変化がある時期になってくるってことか。

確かに、今年は特に、わたしにとって大事な決断をすることになりそうな春。(花粉症疑惑も強まる2024年春なのです)

こうやってわたしは今年の1月に休職して、今月で2か月目に入っている。

毎日朝8時ぐらいに起きて、化粧だけはちゃんと毎日やって、ご飯を食べたり食べなかったりしてコーヒーを淹れる。
ちなみに、朝は8時に起きられたり起きられなかったりする。休職期間の3分の1は自分の欲望に負けている気がする。

これは今年の冬に撮ったものだけどわたしにとっての春はこんな感じなの

いちばんの成長は、「こんな日があってもいい」と思えるようになったこと。

これまでのわたしは、毎日ちゃんとあれやってこれやってをしないといけない、そうじゃないと自分の中での自分がどんどん落ちぶれていってしまう、とどこか焦っていた。もちろん今も焦っている部分がないわけではない。

でも、こうやって長くイレギュラーなおやすみをいただいて、家族とか友達とか大事にな人に「ゆっくり休みなね〜」って言い続けてもらったことで、休む、だらけるってことが仕事と同じぐらい必要な段階であることも認識できたような気がする。

まあ、最近はそういうわけで気が抜けているので、こんな日ばっかり、って感じになっているのだけれど、いつか頑張れる時のため、これまで頑張ってきた自分のために今休んであげてもいいのかなって思う。

のんびりできる今のこの時間の一瞬一瞬がとても大切で、尊くて。
自分自身と季節の移ろいに心を向けられているこの状況が、仕事を再開しても続きますようにと祈りながら、この時間を両手いっぱいに抱きしめて、時には贅沢に使って過ごしている。

最近、ジャーナリングというものをちゃんとやろうとしている。
1日の終わりに、10分とか時間を決めて、心に浮かんだいいことも悪いことも全部手帳に書く、ただそれだけ。

書いた後に、わたしこんなふうに考えてんだ、へえ〜みたいなことが結構起きるからおもしろくてやっている。
そうすると、好みのペンとか手帳とかマステとかを書いたくなる。罪。

日の差す場所で

あと、それとは別に、その日に起きた良かったことを2つ以上書くようにしている。とはいえ本当にいいことばっかりじゃないからねえと言わんばかりに1つは悪いことも書いておくのがわたしなりのやり方。

そして最後に。
やってみなきゃわからないことが世の中にはたくさんあるということ。

こんなふうにあと〇〇年働くのかな〜暮らすのかな〜、なんて人は想像しがちだけど、案外簡単にその想像は崩れていく。

メンタルだめにならないように働いてやる!っていうのも実際やってみるとわたしの性格だとかなりの工夫が必要。
そういった意味ではわたしは社会を舐めていたんだと思う。みんなそれぞれ、大きさの違いはあれど絶望の中で働いているということはある意味正しい、正しかった。

そういう感じで、どうやら人生は、特にわたしの人生は、すいも甘いもやってみないとねってことらしい。
だとしたら、次にやらないといけないことは決まっているのだ〜、

変化っていうのはタイミングのことでもあると思う。
喜ばしくも悲しくも、人生はこの得体の知れない強いものには逆らえないようにできてしまっているらしい。
だからこそ、波にのるかどうかの見極めが肝心。

明日も明後日も、暮らしの中で春を探すんだろう、わたしは。
桜の柔らかさを持ちつつ、強くしなやかでありたい。




お皿に乗せるとパンは美味しくなるそうです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?