同じことばかり書いてるんだよなあ

人間には反芻型とその反対(何て言うんだろう?)があるんじゃないだろうか?
私の勝手な思いつきだし、すでにそういう類型があるのかもしれないが、まあいい。

反芻型というのは、自分がやったことを後から何度も思い返すタイプだ。飲み会の後でクヨクヨ悩むのが典型的な例。逆のタイプは、終わったことで悩まない。

私は典型的反芻型で、いつもクヨクヨしている。それだけじゃない、自分が書いた文章を何度も読み返すという、ちょっと気色悪い癖がある。推敲ではなく、世に出てしまったもの、もう修正ができないものを、何度も何度も読み返す。提出済みレポート、ブログ記事、送ってしまったメール、云々。

そんなわけで、この間NOTEにアップした記事を読んでいた。そして気が付いた。
「この内容、以前にも書いたんじゃないか?」そう、私はずっと前に似たようなことを書いていたのである。
どこで書いたか? 大学の卒論である。

1.恥ずかしい卒論


私は文学部に籍を置いていた。熱心な学生とはいえず、サークルや部活もせず、かといってバイトにいそしむでもなく、ほどほどにバイトをして、学業は基本的におざなりにしていた。
4回生のとき、卒論を書かねばならなくなった。いや、書かねばならないのは1回生のときから分かっていたのだが、「いつか」卒論書かないと、というふわっとした感じでいたのだ。
そして4回生の冬。本当に書かないと間に合わない、というときになってやっと行動した。ちょうどクリスマスのころである。

何度かゼミで発表していた資料と、何となく集めていた文献はあった。何となく思い描いていた全体像も、一応あった。ただそれを曲がりなりにも「ロンブン」にするものが欠けていた。
12月25日から12月30日まで、ほとんど睡眠をとらず、食事もろくにせず、コーヒーと煙草だけ口にして、書いた。大晦日の早朝、なんとか規定枚数に達したものができた。

文章の分かりにくい部分が散見され、誤字も多々あったが、一つだけ誇れることがあった。それは、自分の気持ちに素直に書いた、ということだ。
論の展開を矛盾なくするために思ってもいないことを書いたり、などということはなかった(どうでもいい授業のレポートではよくやっていたが)。自分が信じていることを裏切らない内容だった。

2.論旨


私が卒論で言いたかったのは、こんなことだ。
「物語というものを通して、人は自分の経験ではない経験を、まるで自分のものであるかのように感じることができる。それによって人は救いを感じることもあるだろうし、ちょっとは思いやりのある人になれる」
実際はもっと小賢しいことを書いているわけだが、基本的にはこの内容だ。

こうやって書いてみると、あまりにも当たり前のことではないか。その当たり前のことを、自分で四苦八苦しないと知ることすらできないのが私だ。
そして数年を経て、また沢山の失敗をして、やっと自分で学んだのは、実は自分が学生時代に思っていたようなことだったのだ。

3.おわりに


口頭諮問のとき、指導教授に言われたことを覚えている。私はとある日本人作家の作品を題材にしていて、当然卒論には引用が大量にあった。教授はこんな事を言った。
「こうやって、君の書いた文章と〇〇の書いた文章を読み比べると、さすが〇〇の文章はうまいよね」
私の文章が稚拙だということを言われていたわけだが、果たして今の私の文章はどうなのだろう?
多少はうまくなっていれば、反芻型でよかったと思えるのだが。

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