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柿食ふて国見もすなる奈良の鳥 * 奈良、白毫寺

師走に入ったので床の間の掛軸を替えようとしたら、十月の「柿に目白図」のままだった。十一月はまるでワープしたかのように過ぎ、掛軸を替えていないことに気づかなかった。

先代が三十年ほど前に出入りの美術商から買った江戸琳派の酒井抱一作「十二か月花鳥図」(もちろん複製)を納戸で発見した時、すぐにこれを毎月床の間にかけようと思い立った。三月に最初の「桜に雉子図」を掛けた時には小躍りしたくなるほどうれしくて、早く来月にならんかなあと思った。単に掛け替える行為がしたかったのである。

なのに六月くらいから月の半ばを過ぎた頃「はっ」と気がつき、急いで軸を掛け替えるという、ていたらく。にしても、一ト月まるまる飛ばしてしまうのは十一月が初めてだった。十一月の存在感の薄さ。十一月生まれの人は誕生日を忘れられがちなのではないだろうか。そんなことはないか。

美術商のH氏からもらった掛軸専用の棒には、先端にきわめて小さなフックがついている。これを使って、十月からかけっぱなしだった「柿に目白」図をはずす。目白といえば梅や桜との取り合わせが多いが、柿も悪くない。ワープした十一月だったが、一日だけ休みをもらって奈良に行った日のことを思い出す。そこは柿がいっぱいだった。

***

大好きな京阪電車に乗り、伏見桃山駅で降りて御香宮さん方面へ少しだけ歩くと近鉄の桃山御陵前駅。ここから奈良まで一本でいける。

奈良駅からバスに乗って白毫寺へ向かう。
バス停からお寺までの道に、柿が鈴なりだ。
あっちにもこっちにも柿の木。
盛大に干し柿をしている家もある。
山の斜面に生えていて、どう考えても人間が取れない位置に、百も二百も実がついた柿の木が見える。
鳥は楽勝で食べられるはずなのに、まだ鳥が食べていないということは、食べごろになっていないのだろう。

鳥は果実を絶妙のタイミングで食べる。
一説によると鳥は人間が見えない波長の光を見ることができ、それによって果実が食べ頃かどうかわかるらしい。
やはり鳥が動物の中で最強だと思う。

それにしても、秋の奈良がこんなに柿尽くしだとは知らなかった。
よく考えたらこの二十年、十一月には休みを取らなかった。正倉院展にすら、行ったことがない。秋の奈良を散策することもなかった。

あちこちに、仏花と西洋風の植物を栽培している畑がある。
西洋風の植物であっても意外と万葉集にも歌われている日本在来植物だったりする。馬酔木なんかそのいい例だ。
と思って西洋風の植物をスマートフォンで撮り、検索してみたらセージという西洋ハーブだった。なんだ、見た目そのままじゃないか。

朝から穏やかに晴れていい天気。
日差しが柿のオレンジ色をますます鮮やかに照らしている。
私は社寺仏閣にお参りする時にはパリッとした格好で行く。今日もハーフコートに革靴といういでたちだが、坂道を登っている間に暑くなった。ハーフコートを脱いで頭からかぶり、日除けにしながら歩く。

白毫寺は山の上にあるこぢんまりとした感じのいいお寺だ。
いいあんばいに手入れされた草木、花。
「きれいなぁ」と、リュックサックを背負ったおばちゃんたちが言っている。
声を出さずにはいられないのだ。
嬉しければ鳥のようにさえずるのだ。
ここにも、いつも私が親しんでいる光景がある。

白毫寺のパンフレットの文字は小学生みたいな字である。
御朱印も同じ字だし、いろんな看板も同じ字だ。
同じ小学生が書いているのか。
それとも住職の字が小学生みたいだから、寺の者たちもそのフォントに倣うのか。

庭には白と赤の椿がちらほら咲いている。
すすきも景色になるように庭がデザインされている。
山の途中で、ちいさな石仏がたくさんこちらを向いている。素朴で稚拙な感じの石仏は、おそらく一般の人が自分で彫って納めたものだろう。

生やしたままのような風情を醸し出しているが、実はかなり計算され尽くした植物の植え方だ。決して広くはない境内を歩くと、五、六歩進むごとにさまざまな景色が現れる。
ひょっとするとこれは手強いかもしれない。小学生みたいなフォントも、ピカソのようにめちゃうまい人がたどり着いた境地なのかもしれない。

ちいさめサイズの仏さまもいい。
阿弥陀如来。
重要文化財であるのに手を伸ばせば触れる位置にある。
触りたい。
だが、さすがにセンサーが設置されている。
仏像の触り心地を想像する。
ひんやりしている。

蜜柑とふえるわかめちゃんがお供えされている


顔が丸いよね。それで肘から先が長いから、仏像みたいなんだ。
恋人が私の腕を撫でながら言ったことを思い出す。
それから私は腕が自慢だ。
それに、仏像みたいにいつも背筋を伸ばしている。
あの日は三人くらいの短い行列ができていた小さなお店で大福を買い、部屋に帰って食べることにした。
大福を手に取り、無意識に匂いをかぐと、なんでもすぐ匂いをかぐのは良くないよ。と恋人が言うので、ああ行儀が悪いってことか、と思ったら、サリンみたいな毒物だったら匂いをかいじゃった人が一番先に死ぬんだ。と言うので、ああ、この人は私に死んでほしくないんだなと思った。途上国で仕事をしてきて、いつも死が近くにあったためか、私たちはふざけた話の中にもどちらかが急に死んだり救急車で運ばれたりすることをリアルに想定して話すことが時々あった。死んでも魂は残るから、気合いでメールを打つよと言ってみても、魂の存在を信じていない彼はそれは無理だ、死んだら無なのだと言った。

***

その人の存在が、自分の一部を構成していると感じるような人がいる。
家族でも、友達でも、会ったことのない人でも。あるいは、犬や猫や、鳥でも。そういう存在がこの世からいなくなると、自分の一部が欠ける。
人生進むと、だんだん、欠けが増えてくる。そうなると、人にあちこちぶつかるような人気のある場所がつらい。山の寂しいお寺は、欠けまくってほとんど透けていても、ただそこにいれば良いので助かる。


ここから奈良市街が一望できる。向こうに生駒山。
国見をする。
そういえば、二上山でも国見をしたなあ。
私は高い所から都を眺めることを国見と呼んでいる。
そして、水辺を散歩することを結婚式と呼んでいる。
国見も結婚式も、何回しても、良いものだ。
季節が違えば、味わいも違う。

絶景かな、絶景かな。

帰り道。紅葉を見ようとすると、先に柿のオレンジが目に飛び込んでくる。
下界におりる。
商店街に人だかり。高速餅つきが復活している!
柿の葉寿司が食べたい。平宗の柿の葉寿司が。
柿も食べたい。
奈良は名物がないというけれど、そうだろうか。
たくさん歩くから、お腹がすく町だ。
柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺。
松尾芭蕉はやっぱり天才だな。と思ったら正岡子規の俳句だった。

***

「柿に目白図」の軸を、下からゆっくりと巻いてゆく。
一番上の風帯を左、右と畳んで、和紙をはさみ、最後の一巻きをする。紐の掛け方はYouTubeにも上がっているが、私は美術商のH氏のやり方がいかにも現場の人の叩き上げの感じがして好きなので、毎回聞きに行っては結局やってもらっている。桐箱に掛けてある紐の結び方も、いまだにH氏に聞きにゆく。




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