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回想特急 けごん55号

日光は栃木県にあるが概念としては江戸である。江戸幕府を開いた徳川家康が神として鎮座する日光東照宮、そこに詣でる人々は、今でも徳川の威光に「ははーっ」とかしずかずにはおれないからである。

ということは浅草から日光まで繋がる日光街道の途中にある草加、越谷も、埼玉県ではあるが概念としては江戸。だから越谷育ちの私は、今住んでいる大阪では「東京から来た人」というコンセプトで生きている。

現在、東京都の西の方に住んでいる母と浅草で待ち合わせし、日光まで走る東武特急「けごん55号」に乗る。母と二人で旅行をするのは初めてだ。

けごん55号は出発してすぐに隅田川を渡り、東京スカイツリーすれすれを通る。近すぎてスカイツリーの全貌がわからないが、心はすでにお祭り状態である。

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子供のころ住んでいたのは、けごん55号がすさまじい速度で通り過ぎる「北越谷」だ。私は中学・高校の6年間、通学で東武線の北越谷⇄北千住間を1,200回ぐらい往復している。いうことは、けごん55号と同じ車窓からの景色をおよそ2,400回見ているはずなのである。あいだにある西新井の東京マリンにも泳ぎに行ったし、そのとき西新井の駅ビルtoskaで買ったアロハ柄の短パンは今でも持っている。

小さな時には、東武線は床が油の染み込んだ木材で出来ている車両もまだ走っていたし、高架ではなかったので開かずの踏切もあちこちにあった。しかし今は北千住から北越谷までの線路はすべて高架になっている。高いところからのアングルに慣れない。景色が遠い。建物が増えたせいもあり、車窓の景色がまるで違うように見える。「世にも奇妙な物語」にはいり込んでしまったかのようだ。

だんだん目が特急の速度と高架の高さに慣れてくると、2,400回見た景色の断片を発見できるようになってきた。かつて田んぼの真ん中にあった、変な壁アートが描いてある農機小屋が、新しい建物に囲まれながらも残っている。いつも屋上に洗濯物を干していたオンボロビルもまだあった。「ああ、あれはまだ残っている」「今日も洗濯物を干している」「一体何十年洗濯物を干し続けているんだ」と思うと駆け寄りたくなるほどうれしい。が、けごん55号は特急なので、それらの景色をちぎるようにぐんぐん走り去る。

駅前に一件の寂れたパチンコ屋しかなかった北越谷の駅前は、今やロータリーができてビルが立ち並んでいる。

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父と母がインドのムンバイから子連れ帰国して北越谷に家を建てたのは、彼らが三十前半と二十代後半の頃で、そこは田んぼと原っぱだけの土地だった。若い父が北越谷を選んだのは、東武伊勢崎線が日比谷線に乗り入れており、会社のある茅場町まで一本で行けるからで、北越谷は始発駅なので座って通勤が可能だった。

商社に勤めていた父は、その後単身でリビアとイランに長いあいだ赴任した。どちらの国も内戦や戦争状態だったので家族は北越谷に残った。東京の山手線の内側で生まれ育った母が、北越谷の田んぼと原っぱだけの土地で、幼い姉と私との女三人世帯を守っていた。

「インドではコックとナニー(子守)がいる暮らししてたでしょ。接待や麻雀や駐在員妻の付き合いはそれなりに大変だったけど、暮らしとしては北越谷の方がよほど大変だったわよ。何にもないんだもの!」

SNSはおろかインターネットもない時代、原っぱと田んぼばかりで、はっきり言って文化もないし友達もいない土地で子育てするのは、かつて父と同じ商社で部長秘書をしていた母には酷だったろう。当時の北越谷の最果さいはて感は、半端ではなかった。外食するお店も一軒もなかった。駅へ行く途中に草加せんべいの店があって、店主が一枚ずつおせんべいをひっくり返しては醤油をつけて焼いていた。たまにそれを買って食べるのが楽しみだった。

そのころ北越谷では定期的に地域でドブさらいをする日があった。ドブと言っても今でいう側溝の大きめのもので、ドブのふたは猛烈に重かったので、うちの前のドブは、ご近所のお父さんたちにふたを上げてもらわねばならなかった。

カダフィ大佐全盛期のリビアに赴任していた父は、いっとき戦火の中で行方不明になった。会社からのテレックスにも応じない。当時、商社マンは大使が帰国するほどの緊急事態でも、まだ現地に残っているのが普通だった。しばらく安否がわからない日を過ごしたのち、父は無事であることがわかったが、北越谷の家ではこれをきっかけにオスの柴犬を飼うことになった。ずっと犬欲しい犬欲しいと言い続けて来た私の願いがこの時叶ったのだった。

家に来た柴犬「タロー」はこんがり焼けたパンみたいな色をしていて、北越谷の原っぱに似合う素朴な犬だった。そして北越谷の家における唯一の男だった。犬なのでドブのふたを上げることはできなかったが、何よりも全身で喜びを爆発させ、その辺をめちゃくちゃに行ったり来たりする様子が男の子そのものに感じられた。

雨の降った翌日には、田んぼからザリガニが道にワンサカ出てくる。タローを散歩させると、ザリガニたちは腰からのけぞって体を最大に見せ、ハサミをバルタン星人のようにバンザイして威嚇してきた。タローはおおげさに飛び上がってはザリガニの寸前に前足を着地させ、また飛び上がることを繰り返してザリガニとケンカする。ただこのケンカもタローにとっては真似事で、猫のように実際に獲物を仕留めて自慢してきたりはしなかった。

タローは、私が大学2年のとき東京に一人暮らしを始めたその夏に死んだ。すこぶる元気だったのに、母が外出して帰宅した時には死んでいたのだ。電話口でそれを知らせる母が泣いていたので、「泣かないで」と言ったが、電話を切ったあと自分もわんわん泣いた。私が家を離れたためにタローはさびしくなって、さびしすぎて死んだのだと思った。動かないタローに会いに、北越谷へ帰るのは怖かった。当時の彼氏に北越谷の駅まで付き添ってもらった。東武線の中でも泣いた。

父が単身赴任から帰り、やがて退職すると、父母は北越谷の家を引き払って東京の武蔵野に家遷りした。私は独立したあとだったから、その家には住んだことがない。北越谷の家はもう他の人が住んでいるし、わざわざ尋ねる友人もいない。ここ20年は北越谷に行くことも通り過ぎることもなかった。

ところが自分も大阪で親となり二人の子を育てるようになったら、なぜか北越谷での出来事が鮮やかに甦ってくるのだ。

越谷市はレイクタウンの出現で大きく変貌を遂げ、のどかな田園地帯は見る影もなくなったが、それゆえに、ますますタローと駆け回った原っぱや、タニシを取りまくった田んぼが自分の中で存在感を増してゆくのである。

児童文学作家の石井桃子さんが残した言葉に、
『子どもたちよ。子ども時代を しっかりとたのしんで ください。
おとなになってから 老人に なってから あなたを 支えてくれるのは
子ども時代の 「あなた」 です。』
というものがあるが、これは真理だなあと、けごん55号の中で思う。

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けごん55号が北越谷を通りすぎる際には駅前の変貌ぶりに驚いて、母と二人、ひとしきり思い出を喋ったが、北越谷を過ぎると高架ではなくなり田んぼと畑と原っぱが続く慣れ親しんだ景色になった。

ようやく落ち着きを取り戻して、母が浅草で買っておいてくれた弁当を食べる。八角形の紙容器に色々なおかずが入っているが、特に貝の炊き込みごはんが美味しい。東京の真っ黒い佃煮も入っている。母は丸い紙容器に入った穴子のお弁当である。この間の秋、父のお墓参りの後に寄った谷中の寿司屋の穴子寿司は美味しかったね、という話をする。父が亡くなってもう8年になる。父は東京の台東区谷中やなかのうまれで、生まれた家のはすかいのお寺に、お墓がある。考えてみれば父も母も東京っ子で、姉も東京で生まれているから、インドで生まれ直で北越谷に移り住んだ埼玉っ子は家族の中で私だけなのだ。彼らはリアルな江戸っ子で、私だけが概念としての江戸っ子というわけだ。

東京での穴子寿司は大阪や京都の鯖寿司の位置にある。つまり祭りやハレの日に食べたり差し入れにしたりする食べ物である。だから東京の人は穴子を食べると心が沸き立つのだ。そういえば谷中の父の生家に結婚の挨拶に行った時も穴子のお寿司をとってくれた。

けごん55号は南栗橋、今市、栃木などを経て東武日光に到着。私たちはこれからクラシックホテルの「日光金谷ホテル」へ向かう。たっぷりお喋りをするために。



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