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夏の夜唇焦がす生麩かな * 京都の料理屋さん

京阪電車の丹波橋駅で近鉄に乗り換えた。ホームまでのエレベーターが見える。
スーツケース、無駄に重いし、エレベーターに乗ろうかな。と思い、エレベーターに乗ってホーム階のボタンを押そうとしたところに、青年が走ってきた。
「開ける」ボタンを押して待ってあげた。
青年が乗ったので「閉める」ボタンを押して「ホーム階」ボタンを押す。
青年は、ありがとうございます、と丁寧にお礼を言って、白いゴム手袋を差し出してきた。ちょっと透けた白いゴム手袋だ。私は反射的に受けとってしまった。
「はめてみてください」
「いま?」
「いま。」
「ここで?」
「ここで。」
左手にはめたところで、エレベーターがホーム階に着いた。
青年はただ白いゴム手袋をはめた私の手を見ている。
エレベーターの扉が開く。ちょうど電車がきたところだ。
私はそのままホームへ出て、小走りに電車のドアへ向かう。
ゴム手袋をはずして肩掛けかばんに押し込みながら乗った。
後ろは振り返らなかったが、たぶん青年は電車には乗らなかったと思う。

***

その店は十名で満席になるコの字型のカウンターの内側に、料理人と、女将さん、そしてカウンターの内と外を行ったり来たりするアルバイト、という三名で店を回している、京都のちいさな料理屋だった。夏の夜のことだ。

カウンターの端に座ると、三人の動きも、料理人の手元も、すべてが見える。
料理人の男が使っている厚いまな板には、高さ3センチほどの脚がついていて、その下の空間には、白い布巾をのせた板が入っている。その上に十丁ほどの包丁が、左向きに寝かせてビシッと並んでいる。

料理人の男は板を引き出し、使う包丁をさっと取り出し、使ったらすぐ洗って白い布巾で拭き、元の場所に戻す。一回一回、仕舞うのだ。板を引き出すたびに、十ほどの研がれた包丁が姿を表し、料理人の男はその中から一本を迷わず選び、残りの九本は仕舞われる。具材をしゅ、しゅ、しゅ、と三回ほど切ったあと、さっと洗って布巾で挟むように拭き、また残りの九本たちが載った板を引き出し、使った包丁の定位置に戻して仕舞う。

昔、父はゴルフに行くとゴルフボールの形をしたチョコを買ってきてくれた。真ん中から二つに割れていて、半球が2個合わさったのが1つ。それが、ボールケースに12個入っている。私は引き出しにしまって、それを出したり引いたりして楽しんだ。引き出して、半球一個を取り出し、ちょっと齧っては、箱に置いて、一旦仕舞う。また引き出して、齧る。この料理人の包丁仕舞いは、あれに似てる。

料理人の男は、揚げ物も、茹でるのも、一回ずつ、小さな場所でテキパキとこなしてゆく。小鍋で一品ずつ。焼き物も一品ずつ。狭いが物がぴちっと収まった厨房はコックピットのようで、料理人の男は一つ一つの手順を決して間違わない操縦士である。
時間をかけて味を染み込ませるもの以外は、下拵えの段階から、その場で一回分ずつあっという間に仕上げていく。
盛り付けは女将さんだ。アルバイトは、カウンターの外に出てお客さんにお酒を運んだり、そのついでに注文を受けたり、机を拭いたりする仕事をしている。

手書きのメニュー表に、すっぽん入り卵焼きがあった。

知ってはる? 近所のFさんなあ、淀川ですっぽん釣ってきて、家のたらいで泥吐かせて、すっぽん鍋しはんねん、それであんな元気やねんで、もう八十超えてはんねんけどダンスもしてるし、ビルのお掃除のお仕事もしてんねん。すごいやろ。

友達の仕事場で立ち話をしている時に聞いた話を思い出す。私はその時、淀川ですっぽんが釣れることに驚いたが、よく考えたら昔からある川なのだから魚も貝もすっぽんもいて当然だ。一説には、淀川沿いの枚方に住む漁師たちの家を参考にして、千利休が茶室の躙口にじりぐちを考案したと言われている。

にしても、すっぽんの料理を注文したら精力をつけようとしてる人と思われるのでは。
と、逡巡しているまに隣の女子二人組があっさりと注文してしまった。

料理人の男が黙ってすっぽんらしきものが入った卵液を卵焼きフライパンに流し込む。薄く巻いては、一回一回フライパンに油を塗って、そこにまた卵液を流し込む。これでもかと卵液を追加して、めちゃくちゃ太い卵焼きが完成した。
その卵焼きが女子二人に提供されるのを見届けてから、生麩の磯辺焼きを注文する。

生麩は直方体をしているが、生麩なのでぷっくりしている。
料理人の男が、それを炭火の上の網に乗せると、みるみる網の形に、焦げ跡がつく。そこにバターを乗せて、はいどうぞされた。
美味しい。唇が熱い。

毎晩、夕食は七輪で何かを焼いて、食べて、また焼いて、食べて、七輪の炭が終わる頃に、夕食が終わるっていうのはどうかな。七輪て、どうして七輪て言うのかな。料理人っていい仕事だな。腕一本で、いろんな土地に行ってさ、女将さんといい仲になっちゃったりしてさ。

夏野菜の冷たい煮物は、なす、ベビーコーン、きゅうり、みょうがを出し汁で煮てひやしたものに、トマトのソースがかかっている。

それから、たこの柔らか煮、栃尾の油揚げ、山椒がかかったあなごの天ぷら、ねぎとさばが一緒に巻かれている鯖寿司。

腹ごなしに高瀬川ぞいを歩く。風が頬を撫でる。お腹は重くなっているはずなのに足はふわふわ浮いているように軽い。お腹いっぱいの時の川沿い散歩の多幸感は、どこか現実味がなく儚い。

子供の頃、海外出張や単身赴任でめったにいない父が、数日間一緒にいてくれる家族旅行が大好きだった。最終日、二泊三日なら三日目が悲しくて悲しくて、この世の終わりのように思った。初日と最終日の落差が激しすぎて逆に旅行が嫌いになったぐらいだ。それは今も変わらない。楽しみなことがあると早く来ないかなぁと思うと同時に来てしまったら終わりが来ることを考えると永遠に来ない方がいい気もする。もしかしたらこの感じは、国も世代も関係なく共通なのではないかな。

***

帰りの京阪電車で、肩掛け鞄から手帳を出したら、白いゴム手袋がびろんとついてきた。おとといの物なのに、ずいぶん昔の物に見える。私はそれを駅のゴミ箱に捨てて家に帰った。


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