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涼宮ハルヒの憂鬱という作品について、あるいは青春という言葉が懐かしく感じる年ごろ

表題にもある通り、涼宮ハルヒの憂鬱という作品をご存じだろうか。当該作品は谷川流氏が執筆するライトノベルであり、第8回スニーカー大賞にて大賞を受賞した作品である。その後、京都アニメーションにてアニメが放映され、一大ムーブメントを巻き起こした。

 筆者くらいの年齢となると知らないわけがないこの作品であるが、もしかしたら今現在を生きる現役のナウでヤングな御仁方にとっては、いわゆる「ひと昔前の作品」という位置づけになってしまっているのではないか?

そこで今回、涼宮ハルヒシリーズ最新刊、『涼宮ハルヒの直観』の発売にあやかり、本作における所感を徒然なるままに書き連ねてみようと思う。

本作における魅力というのはそれこそ語ればキリがない。レビュー系ユーチューバーのごとくそれを語るさまを動画にでもすれば映画一本分の尺くらいは余裕で稼いでだろう。なので今回は端的に、筆者が思う一番の魅力を語ろう。

それは、作品と読者の距離の近さだ。

作品と読者の距離が近いとはどういうことか。

本作の代名詞ともいえるセリフがある。それは

「ただの人間に興味はありません。この中に、宇宙人、未来人、異世界人、超能力者が居たら私のところに来なさい。以上」

という、高校入学しょっぱなの挨拶という晴れの舞台で、本作のヒロインである涼宮ハルヒがクラスメイト全員に言い放った言葉である。その後、主人公であるキョンも「これ、笑うとこ?」という反応を示している。そりゃそうだ。入学早々、初めましてのご挨拶でこんなエキセントリックなワードをぶっこまれたら常識的に考えたら怖い。めっちゃ怖い。「なんじゃこいつ」というのが一般人の抱く反応だろう。余談になるが、涼宮ハルヒの憂鬱の舞台は関西である。ということはこのセリフも関西弁で言ってたのだろうか?そうするとキョンの「これ笑うとこ?」というセリフも、ネイティブな発音にするとさながら不条理ボケに対するツッコミのような感じになるのだろうか?なんだか脳内再生すると松本人志ボイスになってしまうぞ。

さておき、このイカれたセリフははてさて現実のものとなってしまう。宇宙人については長門有希、未来人については朝比奈みくる、超能力者については古泉一樹と、メインキャラとして、涼宮ハルヒの周囲に集まってくるのだ。異世界人はどうしたという声については、まあ、その後の話の展開で主人公であるキョンが異世界人ともとれるような状況に陥ることになるのだが、それは割愛。

さて、これらのキャラの特性を鑑みれば、正直単独でも扱うには十分すぎる個性を持ち合わせていると言える。それが三つも集まってしまった。表面上で見れば、明らかに供給過多だ。それこそ、孤独のグルメにてゴローちゃんがおでんのシューマイ巻きに対して「味の過剰包装じゃないか」なんてセリフを言っていたような気もするが、シューマイ巻きについては肉を包んだシューマイを練り物で巻いて揚げて煮て…という4段構成になっているが、涼宮ハルヒについては、ヒロインは世界を思い通りに出来る容姿端麗成績優秀な美少女、遥か宇宙に存在する情報統合思念体が作り出した対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェースなメガネっ子、未来からやってきたロリ巨乳美少女、爽やかイケメンな超能力戦隊の一員と、シューマイ巻きに勝るとも劣らぬてんこ盛りっぷりだ。

涼宮ハルヒの憂鬱第一巻では、それぞれのキャラが主人公であるキョンに対し各々の正体を告げ、その証拠を見せるという流れになっている。しかしながら、その展開は上記のような過剰包装っぷりからすると、味気ないと思ええるほどにシンプルなものだ。たしかに、長門有希が同じく対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェースの急進派、朝倉涼子と戦闘するシーンや、古泉一樹が閉鎖空間にて涼宮ハルヒのイライラの具現化、神人と戦闘するシーンなど、SF要素の強いシーンはあれども、全体のバランスでみれば少ない。それどころか、「涼宮ハルヒは世界を意のままに作り替えることができ、その鍵となるのはキョン」などという壮大な設定にも関わらず、舞台となるのは基本的に学校とその周辺であり、話の展開も各キャラ同士の会話によって進んでいく。そこには、特別な舞台装置等はない。

もし自分がキョンの立場だったら一回は思うであろう。

「これドッキリでみんなで俺のことをだましてるだけなのでは?」

と。

実際、さまざまな事件が起こりその発端は全て涼宮ハルヒと語られるが、その確固たる証拠というのは明示されない。

そう、周りがそう言っているだけである。

ここにこそ、本作品の魅力が詰まっているのではないかと思う。つまり、この作品の読者は、読み進めていくうちにどんどんキョン自身と同化していくのだ。自分以外の周囲の人間は自分の知らない事を知っている、その断片的な情報を、キョンは、そして自分は、同じく物語内のキャラから会話という形で得るのだ。確かに実際の高校生活においてこんな濃いキャラクター達とともに青春を過ごした記憶を持つ人はそうそういないだろう。でも、誰しも高校時代には思うだろう、ジュブナイル的な世界に飛び込んでみたいといいう欲求、自分が創作の物語の主人公だったらどうなるのかというもしもの世界へのダイブという体験を、涼宮ハルヒの憂鬱という作品はもたらしてくれるのだ。

筆者と同じく、作中のキョンと同じような年齢の時のこの作品に触れた者たちは思ったであろう。「なんかこのくらいの出来事なら自分の身に降りかかってもおかしくない」と。冷静に考えればそんなことはない。クラスに居るエキセントリックな言動の同級生は十中八九ただのぶっとんだ人でしかなく、クラスの片隅でずっと本を読んでいる少女は単に読書好きなだけだ。未来から来たと名乗るようなやつは頭がおかしいか詐欺師だろうし、超能力者の大半は手品師だ。

しかし、高校生活の日常的描写を多く描き、そこに少しづつ非日常のエッセンスを加える巧みな手法により、読者に「あ、この世界は自分対達が暮らす現実世界と同じなんだ」と違和感なく思わせることが出来るのだろう。

さて、本作が世に出てから10年以上経った。当時十代だった人も今や社会人となっているだろう。かくいう筆者もそうであるが、そういう年齢になって思う。涼宮ハルヒの憂鬱という作品、本作の最大の魅力は、個性豊かな登場人物でも、本格的なSE描写でもなく、「高校時代という人生で一度きりのかけがえのない時間に出会った様々な仲間たちと、全力で青春を謳歌している様をこれでもかと堪能できる」ということだと思う。これぞまさに、距離が近いということだ。SOS団というクラブの設立から始まり、さまざまな大会に出たり合宿をしたり夏休みを満喫いしたりと、当たり前にある日常の冒険を全力で楽しむ等身大の姿、それに人は惹かれるのだろう。そして、大人になってから本作を再び楽しむ度に思うのだ。ああ、青春っていいなあと。

ところで、とある専門学校の宣伝の看板にこんな文句があった。

「夢を残したまま大人になるな」

確かにその通りだ。残した夢はやがて自身を縛る呪いとなってしまう。その呪いはそうそう簡単に解けるものではない。

しかし、大人になったら夢は追えないのか?そんなことはない。誰の心の中にも、いつでもあの時の、全てにおいて全力だった心が残っているはずだ。

涼宮ハルヒの憂鬱を手にとり読んでみよう、きっとハルヒがニカッと笑い語り掛けてくれるはずだ。

「行くわよ!キョン!」と。




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