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幸せの基準 #45

すっかり寒くなった10月。読書の秋ということもあって、最近は積読本をたくさん消化している日々です。

さて、今日のタイトルは「幸せの基準」

また胡散臭いタイトルを持ってきた自分。決して病んではいないからご安心を。これについて書こうと思ったのは、土日の快晴でポカポカした日当たりのいい場所で本を読んでいた時のことである。

みなさんが心から「幸せ」だと感じることは?感じる場面は?誰と?何をしている時?想像してみてほしい。

おそらく100人いれば100通りの答えがあるだろう。まあ言わずともそれは当たり前である。幸せだと感じるのは、1人1人違って当然。なぜならば、置かれている環境も関わる人も、趣味も過去も何もかも違うからである。

本を読んでいて改めて、「今」を生きることがどれだけ大切なのかを実感する。現在の自分は過去の選択から作られたもの。だから、過去にどんな経験をしたかによっても、「今」の幸せの基準が変わった人も多いことと思う。

いつもなら、ここから私の幸せの基準は〜…的な話になるだろうが、今日は違う。

最近のニュースで誰もが見ているだろう問題。
そう、「ガザでの戦争」のニュースである。

毎日のように空爆、誘拐、銃の乱射。食糧難が起こり、水道は止められて、逃げる場所もない。いつ、自分の身に危険が及ぶかもわからない状況にいる。「死」がすぐ隣にあるのだ。目の前で人が死に、歩けば誰かが倒れている。そんな状況は想像を絶するもので、自分には到底、状況を置き換えて考えることが難しい。

そんな中でも自分はカフェでのんびりと飲みたいものを注文し、好きな本を買い、ページを味わいながらゆっくりと読む時間がある。「この状況がいかに幸せか」そう感じたのである。

「幸せって何だろうか」
こう考える時間があること自体、きっと僕たちは幸せで、恵まれているだろう。

死が隣り合わせの状況で、食糧が水分が、逃げる場所がない状況で「幸せとは何か」なんて考える余裕なんて絶対にない。むしろ「今日」をいかにして生きるかでやっとだ。

「不確定な明日」に希望を見い出し、今を生きている世界の人々はたくさんいる。今この文章を書いているときにも世界の人々で戦争によって命をなくしている人はきっといる。

「幸せの基準」「幸せとは何か」「自分のやりたいことは何か」「やりたいことが見つからない」このことを考えることができること自体、それは幸せなことなのかもしれない。

私たちは他人を羨み、妬み、比較しながら生きている。でも多くの人は、その範囲なんて、せいぜい地元の友達や幼馴染、会社の同僚くらいだと思う。僕だってそうだ。

でも、少し世界に目を向けると、そんな比較が馬鹿らしいことに気づくはずだ。なぜなら、そこには比較すらもできない人々が何千といるからだ。

「幸せの基準」は他人と比較するものではなく、自分自身から見つけるものだ。そして、やりたいことができる豊かで平和で幸せな、この日本という国で生まれたことに感謝し、やりたいことに思いっきり飛び込むべきだ。グズグズする理由なんてないだろう。世界にはやりたいことができない人がたくさんいる。勉強したくてもできない人がいる。この幸せな環境に感謝して、今日も進んでいきたい。

いつもnoteは発信するけど、いつだって自分への言葉だと思って書いている。

世界の平和を願って。

明日からも頑張って生きよう。

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