認知症の母のこと2
面会のこと
母の面会に毎日行くのは難しかったので、週2回を目標に通いました。
面会は15分以内で、家族2人までという制限がありました。
面会室で車いすに乗せてもらった母に会いました。
母は「お父さんに会いたい」といつも言うので、時々父も誘っていきました。
母は
「帰りたい」
「どうしてここにいるのか」
「お父さんに会いたい」
「痛い」
と繰り返しました。
私や孫を見ても、目がうつろで、反応がありませんでした。
それでも私は
「お母さんいままでありがとう」
「がんばってくれたな」
「お母さんの作ったハンバーグが好きやったよ」
と伝えました。
母はだまっていました。
「はい」と返事してくれることもありました。
父は「どうせもう何を言ってもわからへん」
と言っていましたが
「今までようがんばってくれたな、ありがとう」
と言うこともありました。
ずっと話しかけていると母の表情がだんだん柔らかくなるように見えました。
私はたくさんありがとうとごめんねを伝えたいと思いました。
看護師のことば
何度目かの面会の時、初対面の看護師に
「娘さんは看護師ですよね。訪問看護を使うなりして、最期は家に連れて帰ってあげたらどうですか。」
と言われました。
私は
「父は腰を痛めたので、家で看ることは難しいんです」
と言いましたが
「もう点滴も出来なくなったら、病院でできることはありませんよ。最期くらいは家でみてあげたらと思いますけどね」
と言い返されました。
私は責められているように聞こえました。
よく知る看護師ならともかく、初対面の看護師に一方的に言われて怒りが抑えきれませんでした。
「うちの事情も知らないであんな風に言われるなら、もう面会に行きたくない」
と思いました。
夫は精神科の看護師なので、夫に聞いてみると
「精神科病棟の面会は、2週間に1回でも多いほうだと思う」
「そんなに面会に来れるなら家で看れると思われたんじゃないか」
と言いました。
私は面会に行ってまた看護師に何か言われたら、怒ってしまうと思いました。
それでも母に会わないと後悔するので、少し時間を空けて2週間に1度のペースで面会に行くことにしました。
ただどの看護師に会っても、私は一言もしゃべらないと決めました。
父は
「看護師さんに、面会室まで母を車いすに乗せてきてもらうのが申し訳ない。週2回の面会は多いと思う」
と言いました。
私は小柄な母を車いすに移乗させるくらい大したことないだろうと思いましたが、自分が行きたくない気持ちもあるので、1か月に一度の面会にすることにしました。
母の面会に行かないことへの罪悪感に蓋をしました。
延命処置について
母は口から食事が出来なくなり4か月たちました。点滴で水分だけは入っている状態でした。
ついにベッドから起き上がることもできなくなりました。
寝たきりなので、仙骨部(腰)にひどい褥瘡ができ、膿が出てにおいもすると聞きショックでした。
母がかわいそうでしたが
「痛い」と言う母の頭をなでて「痛いなあ」と繰り返すことしかできませんでした。
2024年の正月明け、主治医から連絡がありました。
「尿が出なくなってきていて、点滴も入りにくくなっています。胃瘻はどうしますか」
と、再度延命治療のことを聞かれました。
父は
「母が元気だったころに、もしものときは自然に任せたいという話をした」
と主治医に伝えました。
点滴がなくなり尿もでなくなると、数日で亡くなります。
いつかこの状態になることは分かっていたことだけれど、私は動揺していました。
病院側の配慮で、母は個室に移され、面会室ではなくベッドサイドで会えるようにしてもらえました。
そして時間制限もなく、日中はいつ来てもいいことになりました。
それからは毎日面会に行きました。
夜中の電話
主治医の話から1週間ほどたった日でした。
その日はとても疲れていて、面会に行けていませんでした。
前日まで点滴が繋がっていたので、母にはまだ猶予がある気持ちになっていました。
夜中の午前2時にふと目が覚め、携帯を見ると病院からの着信履歴がありました。
履歴は23時半で、私は寝ていて気付きませんでした。
「脈拍が早くなっていて、呼吸も苦しそうです」
と看護師からの留守電が入っていました。
私は焦りました。
急いで父の家まで行き、寝ていた父を起こしました。
父にも病院から着信があったけれど、寝ていて気付かなかったそうです。
病院に向かう車内で、父に
「昨日会いにいっていればよかった、今日行こうと思っていたのに」
と言うと
父は
「朝に面会に行った時はいつもと変わらないように見えた」
と言いました。
父は「どうせ行っても母は分かっていないから」と言っていけれど、主治医の話の日からは毎日母のお見舞いに行っていたと知りました。
病院に着いたのは午前2時半でした。
あとから、家を出る前に病院に電話すればよかったと気づきましたが、そのときは気が動転していて思いつきもしませんでした。
母は持ち直したようで、意識があり、目をあけていました。
父は「〇〇ちゃん、きたよ」
と言って母によびかけました。
私は父が母のことを名前で呼ぶのを初めて聞きました。
それを伝えると
「まさか「おばあちゃん」なんて呼ばれへんやろ」
と言いいました。
二人でいる時は、母のことを名前で呼んでいたと知り、私は父の母への思いやりを感じました。
父は母を大切にしてきたんだなと思い、嬉しくなりました。
帰りの車内で、父は
「二人でお寺にお参りに行ったとき、階段が急だったから手をひいてやったんや。そのとき、お母さんがすごく喜んでいた。こんなことで喜ぶんだなと思った」
と何年も前の思い出を話してくれました。
父は普段無口で、必要なこと以外あまり話しません。
だから、両親の思い出話を聞く機会がほとんどありませんでした。
わたしはそれがどこかでさみしくて、もっと聞きたいと思っていたので、嬉しかったです。
そして母がまだ生きていることにホッとしていました。
そして、これからは毎日ほんの少しでも面会に行こうと決めました。
あの日の電話は、大切なことに気づかせてもらう貴重な出来事でした。
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