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接触者追跡と『データの見えざる手』

GoogleとAppleの共同開発で注目の集まる接触者追跡の技術は、人と人とのつながりを可視化するものです。2014年の名著『データの見えざる手』を引けば、これがCOVID-19の蔓延を食い止めるだけではなく、その後のウェルビーイングにも寄与する可能性を秘めていると分かります。COVID-19がまたひとつ、世の中の変化を加速させるかも知れないのです。

接触者追跡の始まり

 COVID-19の蔓延を食い止めるために、日本政府は当初から「クラスター」と呼ばれる集団感染の特定に力を入れてきた。これは感染者と非感染者の大規模な接触を意味する。新型コロナウィルスはその特性上、感染者と接触した人を感染被疑者として隔離すれば、それ以上に広がる可能性が低い。理論上は食い止めが可能なのだ。

 しかし実際には、感染経路の不明な患者が増えている。クラスター外での感染が広がれば広がるほど、すべての人と人との接触をあらかじめ記録しておこうとする機運が高まるだろう。新たな感染者が、ウィルスの潜伏期間である過去2週間に接触した人を追うことができれば、感染被疑者が分かる。これを叶えるテクノロジーが接触者追跡(コンタクト・トレーシング、Contact Tracing)と呼ばれているものなのだ。

 個人の行動追跡を思わせるこの技術が日本国内で注目を集めたのは、GoogleとAppleが共同開発を発表したことがきっかけだ。世界を代表するプラットフォーマーの2社がタッグを組んだとなると、実装に対する現実味がぐっと近づいてくる。しかし、あまり知られていないだけで、アジアの中には既に運用を始めている国々もある。シンガポールにはTraceTogether、インドにはAarogya Setu(健康の架け橋)といったシステムがあるのだ。両国とも政権が強い力を持つから、国民感情に振り回されずに大胆な舵取りができるのかもしれない。

 一方、プライバシーに敏感なヨーロッパも、PEPP-PT(Pan-European Privacy-Preserving Proximity Tracing)というプロジェクトを立ち上げ、スイスを中心とする8カ国が足並みを揃える形で検討を進めている。

接触者追跡の仕組み

 各国のプロジェクトとも、基本的な実装方式は同じだ。スマートフォンとスマートフォンの一定時間(10〜15分程度)を超えての近接(5m程度)を検知し、その所有者同士を濃厚接触者として記録する。この判定にはBluetooth Low Energy(BLE)による相互通信が使用され、結果は2台の端末のみに保存されることから、GPSによる全方位的なトラッキングと比べればプライバシーに配慮されていると言えるだろう。「誰といつ接触したか」は分かるけれど、「どこで接触したか」までは分からない仕組みだ。

 各端末に保存された自身の濃厚接触者リストは、センターサーバに置かれる感染者リストと定期的に突合される。これによって、自分が感染した可能性の有無を判断できるのだ。この先の運用は非常にセンシティブな問題となるので、例えばPEPP-PTでは国ごとにその対応を決められるよう、実装仕様にも余白が残されている。

 近接という相対的な位置情報を取り扱うテクノロジーは、これまで主に人とモノの接触を検知する目的で使われてきた。例えばLINEは「LINE Beacon」というサービスにて、同じくBluetooth Low Energyを使い、特定の場所に近づいたスマートフォンに対してアクションを起こすことができる仕組みを提供している。キリンの自動販売機や、ローソンの店舗での活用が有名だ。誰もがスマートフォンを持つ時代に、オンラインとオフラインをつなぐ手段の一つと言われている。

接触者追跡データの活用

 人と人の接触を捉えようとする仕組みは、ウィルス感染症の撲滅以外にも大きな可能性を秘めている。日立製作所でフェローを務められている矢野和男氏はBluetooth Low Energyが生まれる以前から、赤外線センサを内蔵したウェラブル端末を使い、組織内における人と人との繋がりがもたらす効果を研究されている。その結果は著書『データの見えざる手』に詳しいけれど、各従業員に「知り合いの知り合い」が多い企業は問題解決能力が高いのだという。

 「知り合いの知り合い」の把握はSNSの普及と共に、ソーシャルグラフとして、オンラインの世界ではよく知られるようになった。これをオフラインに持ち込むことができれば、知の利活用、組織の活性化が期待できるのだ。

 矢野氏はハピネスを探求される過程において、その一要素としてコンタクト・トレーシングを扱っている。ハピネスとは、ウェルビーイングに置き換えると分かりやすい。より良く生きることに向けて、先駆的にデータ解析に取り組まれたのが矢野氏なのだ。先のウェラブルデバイスは2006年に発表されている。同氏とも交流があり、ウェルビーイングにテクノロジーを充てているドミニク・チェン氏は、西洋と東洋の思想の違いから、日本のウェルビーイングにおいては「私」ではなく「私たち」の視点が欠かせないと言う。まさにそのためのヒントを与えてくれるのが、つながりを可視化するコンタクト・トレーシングの技術だろう。

 オンライン会議や電子契約、マイナンバー制度など、COVID-19の広まりが多くのテクノロジーに対する抵抗感を下げ、その普及を加速させている。これを機に始まるコンタクト・トレーシングも、今後の当たり前の技術の一つになる可能性は高い。AndroidとiOSというスマートデバイスのOS市場を2分する雄同士のコラボレーションは、これを裏付けるものだろう。

つながりと隔たりをテーマとした拙著『さよならセキュリティ』では、「6章 噂と真実 ー情報の確からしさ」において、ウェルビーイングついて触れております。是非、お手にとっていただけますと幸いです。

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