見出し画像

「猿の肉」を食べる(※文学ってなんだ 6)

どの小説か、あるいは映画か、忘れてしまったが、雪山で遭難した若い男女が、暖を取るために、所持していた「大量の札束を燃やす」という場面が、心に残っている。

これも、どの物語だったか、思い出せないが、やはり砂漠で遭難した男たちが、何日かぶりに捕らえた、野ネズミか何かの「生き血をすする」場面が、印象に残っている。たしかその男たち、自分たちの「尿を飲んだり」もして、渇きをいやしていたようにも思う。

「札束を燃やす」でも、「野ネズミの生き血や尿を飲む」でも、背に腹はかえられないような状況下におけるサバイバルのために、人間が取った行動として、特段、非難すべき点はなかろう。

そして、これははっきりと「題名」まで覚えているが、人肉を喰った喰わないで、極限状況下にあっても、懊悩を繰り返す「人間」の姿が描かれた小説を、その昔、面白く読んだ。

この物語の主人公は、野ネズミの血のかわりに、人間の血をすすっている。

自分の目の前で死に絶えた人間を、貪ろうとしてむらがって来た山蛭(やまびる)を、「もぎ離し、ふくらんだ体腔を押し潰して、中に充ちた血をすすった」のである。

しかし、この行為についても、やはり、どこにも非難すべき点はなかろう。主人公自身は、「私は自分で手を下すのを怖れながら、他の生物の体を経由すれば、人間の血を摂るのに、罪を感じない自分を変に思った」と、回想しているが。

で、いざ、目の前に横たわった人間の屍体から、肉を切り取って…という行為に及ぼうとした時に、主人公の身の上に、異変が起こる。すなわち、

「剣を持った私の右の手首を、左の手が握ったのである。」

そして、どこからか声が聞こえて来て、その声に聞き従い、屍体から離れていくと、「離れる一歩一歩につれて、右手を握った左手の指は、一本一本離れて行った」のである。

こんな体験を経てまでして、極限の飢えから来る、「人食」の誘惑にも耐えたはずの主人公だったのだが――

次の場面で、ごくあっさりと、「黒い煎餅のようなもの」を、黙って口に押し込まれてしまう。

その時、主人公は、「いいようのない悲しみ」によって、心を貫かれる。「私のこれまでの抑制も、決意も、みんな幻想にすぎなかったのであろうか」、と。

自分の口へ、「黙って押し込んだ」者に向かって問えば、「猿の肉」だという。

しかし、主人公は、そんな答えを、そのまま信ずることができずに、疑義を抱く。疑義を抱きながら、「あの猿の肉を食べて以来、すべてがなるようにしかならない」と感じ入るのである。

それから、とある事件を通して、主人公は「猿の肉」が、「猿」でなかったことを知る。

知るというよりも、紛れもない事実として、自分の目をもって見る。そして、それを見た時に、「私はそれを予期していた」と、主人公は告白する。

予期以上に、既に知っていたのであろう。既に知っていたからこそ、

「私の運の導くところに、これがあったことを、私は少しも驚かなかった。これと一緒に生きて行くことを、私は少しも怖れなかった。神がいた。
ただ私の体が変わらなければならなかった。」と、さらに告白するのである。

――さて、こんなふうにクライマックスを迎えていく、この小説であるが、ところどころ、「おしゃべり」が過ぎるのが、玉に瑕といったところである。

それが顕著に表れてしまうのが、小説の最後を締めくくる、「狂人日記」や「死者の書」といった章である。

精神病院内で、自分の身に起こったことや、途切れてしまった記憶のことを、ああでもない、こうでもないと、想い起したり、推理を試みたりしてみては、脳裏に沸きあがる、詩的な、夢幻的な、彼岸的な映像をためつすがめつ、思弁を書き連ねていくのだが、――そんなすべてが、「無くもがな」と思わせるのである。

これはいわば、『戦争と平和』や『レ・ミゼラブル』なんかで、ゲンナリさせられるほど読まされ、押しつけられる、「作者の思想」である。(まあ、あの近代ロシアやフランスの貴族共ほど、ペダンチックで、ロマンチックで、ファナティックで――もしくは単純で浅薄で幼稚な愛国心をば、過剰な屁理屈で着飾らせました! って感じではない分、読みやすいと言えば読みやすいのだが…。)

「作者の思想」なんか、別に書かなくても良いものである。

というか、たぶん、一文たりとも、物語の中で、書くべきではない。

というのも、小説の読者としては、そんなものには、はっきり言って、興味がないからである。

意志的であったか、意志的でなかったかによらず、「猿ではない肉」を食してしまった事実を、事実のまま、冷徹な目で見つめた「光景」として描き、そのまま筆をおいてしまえば、『野火』はもっと、ずっと偉大な小説となったはずだった。

もちろん、これは言うに易く、中々できないことなのだろう。そもそも小説家とは、「おしゃべり」な人種として生まれついたからこそ、小説なんかが書けるのだから。

しかし、「おしゃべり」であっていいのは、「光景」までなのだ。

大量の札束を燃やし、野ネズミの生き血や自らの尿を飲み下す。あるいは、山蛭が貪った人間の血をすすり、「猿ではない猿の肉」を咀嚼し、嚥下した…という「場面」だけを、淡々と、冷徹に、あるいは、コミカルに、ユーモラスに描写すれば、ただそれだけで、百万言の思想をもはるかに凌駕する、「真実」にまで至らしめることができるのだ。

どうして…?

繰り返すが、小説の読者は、作者の思想や思弁なんかには、興味がない。

それは、ひっきょう、「ヒトサマの神学」であり、「噂に聞いた神」であるから。

しかし、冷徹な目が見つめた「光景」は、その奥にあるべき「人間の心情」まで、勝手に描写してくれる。というよりも、読者が勝手に、自分の心情を投影するのである。

読者に興味があるのは、物語の中で、そんな読者側に許された「自分勝手な作業」の方なのだ。だから、物語の中では、読者は自由であればあるほど、ありがたいのである。

そうやって、自由に、自分勝手に、「自分の心情」を汲み取ったという「体験」こそが、読者の「真実」となる。それが仮に「誤解」だったとして、何であろう。

それゆえに、あえて言ってしまえば、『野火』の中の「猿の肉」は、「猿の肉」のままにしておいた方が、良かったかもしれない。「本当に猿だったのか、猿でなかったのか」なんて、永久に、読者側の想像に任せてしまえば――。

『野火』のように、作者側で、読者の自由な作業を邪魔し、制限し、あまつさえ、「作者の思弁」をば押しつけてしまったら、読者は、「自分の心情」には、永久に出会うことはできない。

「自分の心情」に出会うことができなければ、その小説は、心に残らないのだ。

『野火』が私の記憶に残っていたのは、「自分の心情」に出会えたからではない。ただ、「人食」という行為が、極限状況下の人間の体験として、きわめて特異だったからである。

若き頃、多少なりとも、夢中になって読んだ記憶のある『野火』について、こんなふうに書かなければならなかったのが、残念でならない。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?