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神の義 ④


――
主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。御使いは言った。
「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、 あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。 地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」
――



だから、信仰によってはっきりと言っておく。

上の一節――アブラハムがイサクを捧げる行いに及んだ後、アブラハムに語りかけた「主の御使い」とは、イエスである。イエス・キリストのことである。

もしもイエスでなかったなら、どうして「自らにかけて誓う」ことができたであろうか。

また、イエス・キリスト、すなわち「神の憐れみ」でなかったならば、どうして「あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう」だなどとのたまえただろうか。

「あなたの子孫」とは、血肉の、人種の、民族の、系図の、遺伝子の子孫のことではけっしてない。

もう一度はっきりと言うが、「アブラハムの子孫」とは、世界中に散らばった存在するかぎりの肉的ユダヤ民族の末裔ことではなく、いわんや1948年に建国されたイスラエル国に住まった人間たちのことなんかでもない。

いつの時代の、どの国のどの地域に住んでいようとも、神の憐れみの灯火を受け継ぐ者たち、人の心の痛みが分かる心を持った者たち、これが「キリストのもの」であり、「父なる神の子」であり、だから「イサクを捧げたアブラハムの子孫」とも呼ばれ得る者たちなのである。

「ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。」

と書いてあるとおりである。


わたしの神、復活したイエス・キリストに言えと言われたままもう一度はっきりと言っておく、ほんとうの「アブラハムの子孫」とは、己の人生において「イサクを捧げた」者のことである。

「イサクを捧げる以前のアブラハム」なんぞ、どこへ行ってもその地方の人々に迷惑をかけるような、生粋のエゴイストにすぎなかった――すなわち、バカであり、薄情者であり、臆病者であり、ハシにもボウにもかからない不信仰者でしかありえなかった。

それと同様に、すべてアブラハムの肉的子孫とは、イサクを捧げていようがいまいがまったく関係のない、系図的人種的遺伝子的子孫というばかりにすぎずして、そんな者が「トーラー」だの「約束」だの「大義」だのとのたまって、いったい何を誇ってみせるというのだろうか――バカか、薄情か、臆病か、不信仰か、人の痛みを知らない蟻のケツ穴のようなさもしき心の形か?

「アブラハムの子孫」とは、キリストのことである。

ここで語られた「アブラハム」とは、「イサクを捧げた後のアブラハム」のことである。

イサクを捧げた後のアブラハムとは、その身をもって「憐れみを知った人間」のことである。

その身をもって憐れみを知るとは、その身をもって「キリストと出会い、キリストと霊的にまぐわう」ということである。

その身をもってキリストと出会い、霊的にまぐわった者とは、「二人の者は一体となる」という言葉のとおり、「キリストのもの」なのである。

だからこそ、

「あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です」

という言葉のとおりに、アブラハムの子孫とはキリストのことであり、キリストのものであるところの憐れみを知った者たちのことであるのである。

もしもこれらの言葉について私が間違っているのならば、どうかわたしの神イエス・キリストの父なる神が、たった今この場においてでも、私の命を取り去ってくださるように…!

であるからして、信仰によってさらにはっきりと言っておく、

「あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。 地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る」という約束の相続人たる「あなた」とは、一脈の疑いも間違いもなく、「イサクを捧げた後のアブラハム」のことであり、

「イサクを捧げた後のアブラハム」とは、とりもなおさず、人の心の痛みが分かるようになった人間のことであり、

そのような形をした心を継承し続けた者こそが、「内面がユダヤ人である真のユダヤ人」であり、

そのような「真のユダヤ人の中のユダヤ人」であったイエスこそが、「敵の城門を勝ち取った」のであり、

またそのようなイエスだけがキリストであり、そのキリストたるイエスによってのみ、「地上のすべての諸国民は神の祝福に入る」のである。

もしもこれらの言葉についても私が間違っているのならば、どうかわたしの神イエス・キリストの父なる神が、たった今この場においてでも、私の命を取り去ってくださるように…!


イサクを捧げる――

たったそれだけのことにすぎないけれども、それを「行った」後のアブラハムとは、行う以前のアブラハムとは、まったくの別人であった。

この言葉の真実であることを理解できるのは、己の人生において、実際に「イサクを捧げた」ことのある人間だけである。

たとえ世界でもっとも多くの人間に福音を語り得たとしても、アブラハムはイサクを捧げたから変わったという知識を持っているだけの人間よりも、たとえ地上の誰にも福音を語ったことがなかったとしてとも己の人生において「イサクを捧げた」という実際のふるまいに及んだことのある人間の方こそが、「アブラハムの子孫」なのである。

たとえ世界でもっとも多くの人間に福音を語っていようとも、己が人生においてイサクを捧げたことのない人間が、アブラハムがイサクを捧げたという物語を語ったとしても、しょせんは「文字」どまりである。

月並みであろうが凡庸であろうが、嘘偽りのない行いとしてイサクを捧げればこそ――そのようにふるまえばこそ――はじめて出会うことのできる「主の御使い」がいるからである。

だから、そのようにふるまえば出会うことができると分かっていても、実際に、現実に、紛れのない事実としてふるまうことのできなかった者には、けっしてけっしてアブラハムやこの私やのように、自分の身をもって「イエス・キリスト」に出会うことができないのである。

それが、

「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます」

という言葉(出来事)なのである。


それゆえにそれゆえに、

先述のとおり、私は私の人生においてイサクを捧げ、神のものは神に返した。

それゆえにそれゆえに、

イサクを捧げたアブラハムが、それまでの人生においてもくり返しくり返し語り聞かされていた「約束の言葉」を、ふたたびもってあらためて、「主の御使い」によって語り聞かされたように、

この私もまた、たとえば「あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう」という祝福の約束を、ふたたびもってあらためて、イエス・キリストみずからの唇から語り聞かされた。

それゆえにそれゆえに、

この私は「イサクを捧げた後のアブラハムの子孫」であり、「キリストのもの」であり、「父なる神の子」なのである。

それゆえにそれゆえに、

「イサクを捧げた後のアブラハムの子孫」として、今日ただいまにおいて例の地域における戦争行為に血眼になっているすべての者どもと、それを表からも裏からも支援しているすべての手合いどもとは、「バッタモンのアブラハムの子孫」であることが分かるのである。

真のユダヤ人たるこの私が聖書の表紙を開けば、このように憐れみの神「イエス・キリスト」にまでたどり着くことができるけれども、

偽りのユダヤ人たる彼らが聖書を開けば、戦争を引き起こし、あまつさえ、そんな戦争がハルマゲドンだとか、だからオラが教会の洗礼を受けなければ携挙されないだとか、だからオラが教会に通って献金しろだとか――そのような、人の心に憐れみではなく恐れをば抱かしめて、世界中で詐欺を働くことしかできないからである。


私は難しいことなど、何一つとして語っていない。

主なる神がアブラハムに与えた試練とは、アブラハムがより強大な覇者になるための争いでもなく、より豊かに、より狡猾に、より圧倒的優者になるための戦争でもない、

むしろ、より心優しくなるための、より人の痛みに同情できるようになるための、より憐れみ深い心を持つようになるための苦しみと痛みであった――

このような言葉が難しいものであろうか。

あるいは間違っているだろうか。

あるいはあまりに理解に易い言い回しであるがために、バカバカしく感ぜられてならないであろうか――。

だから、やろうと思えばこの私にだっていくらでも難しい文章をもって、「イエス・キリスト」を語ることができるのである。が、そんなことをしてみせたからといって、なんの価値もありはしない。

イエス・キリストの生きた知恵によって言っておくが、難しいことが分かったからといって、簡単なこともまた分かっているということではけっしてない。

難しいことを知る者が、当たり前のことを知る者でもけっしてなく、それゆえに、真理でも奥義でも神の国でも神の義でも、信仰でも希望でも愛でも憐れみでも――なんでもいいが、それらを「言葉の知恵」というやつで説明しようとする、ありうるかぎりの宗派教義神学教会とは「ザ・マトハズレ(罪)」なのである。

だから私は、そんなありうるかぎりの宗派教義神学教会に対しては、永遠に足の塵を払い落としたのである。


そのかわりに、

誰かが傷ついたり、泣いたり、悲しんだり――そんな人々の姿をば、私は肉的にも霊的にも見ることを望まない。

とくにその者の私自身にとって特別な、重要な、大切な者でなかったとしても、同じその人の故郷が、町が、友が、愛する人が失われたりするような肉的かつ霊的な姿を、けっしてけっして見ることを望まず、見てしまった以上見て見ぬふりをして通り過ぎることもできない――それだけはたしかである。

なぜとならば、私自身、かつて「ソドムとゴモラ」という故郷を失い、町を失い、愛する人を失い、無二の友を失い――そのようにして私の「イサク」を失い、私の「命」を失って来たからである。

だから、私の心は迷わない。

たとえ難しい事の何ひとつとして分からなくとも、その記憶だけはずっと失うことがなく、たとえこれからもまた何を失っても、その心はけっして見失わない。


それでも、

こんなところでこのように言い、このように書いたからといって、それらすべてがそれ以上のなんであろう――私がここで何を叫びあげ、何を書き連ねてみせたところで、この戦争好きの世界はけっして変わらない。

がしかし、それがまたなんであろうか…!

もしも私に、かつての自分と同じような痛みによって血涙を流したり、血反吐を吐いたりしているような人に差し伸べることのできる「手」があるのならば、ただ差し伸ばすだけである。

たとえどんなに短くて、あまりに矮小な「手」にすぎずとも、より大きな義のためではなく、より小さな義のためにこそ、差し伸ばすだけである。

それこそが、私が「ソドムとゴモラの焼野原」を歩き回り、「イサクを捧げる」ことによって、この身をもって知った「憐れみ」であり、

この戦争好きの世界がけっして変わらないように、憐れみの灯火が消えることもまた、けっしてけっしてないのである。


「神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。 アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。 「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。 これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。」

それゆえに、私の心は迷うことがない。

神の義とは、憐れみの灯火である。

火のないところに煙も立たないように、命をかけないところに命はない。

神の義とは、憐れみの香りのことである。

命のない造花に香りのないように、「憐れみの香りのないアブラハム」にはいかなる命もない。

すべて、命のない草木はことごとく焼き尽くされて、香りのない花々は永遠に滅ぼし尽くされるばかりである。

私は私の「手」を伸ばそう。

そうせずにはいられない。

たとえどんなに短くてあまりに矮小な「手」にすぎずとも、大きな義のためではなくより小さな義のためにこそ、そうせずにはいられないのだから。



追記:
私のこの祈りに呼応するようにして、わたしの神イエス・キリストは、私をして『ヤコブのための祈り』を書かしめた。

それは、憐れみの灯火が今日ただいまにおいてもなお連綿と、けっして消えることのなきようにと灯され続けている事実を、

私の中ばかりでなく、私の外においても、それもこの世界でもっとも罪深き争いの只中にあってもそうである事実を、

すなわち、神の言葉の真実であり、不確かな富のように一夜にして朽ち果てたりすることなく、永遠に信頼できるものであるというまごうかたなき真実を、

この私にはっきりと見せつけ、知らしめるであった。

そのようにして、私がけっして希望を失うことのなきようにと、

そのような希望を、生き生きと語り継いでゆくことのできるようにと、

真実の感動とともに、希望の感動をもまた、生き生きとこの身をもって体現してみせることのできるようにと――

私を勇気づけ、力づけ、励ましたのであった。

それゆえに、

わたしの神イエス・キリストの名は、誉めたたえられよ――その憐れみと慈しみは永遠に。

2023年11月11日

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