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「ユダヤ人」がつまずき、「異邦人」に救いがもたらされた…(最悪の聖書の読み方 補足2)

もう二度と、最低最悪の「ナッシュビル」について、発言すまい思っていた。

しかし、この歴史的なおバカ宣言に、胸は焼かれ、はらわたも焦がれる思いにかき立てられて、掲題の一点に的を絞って、述べてみたい。

「ユダヤ人がつまずいて、かえって、異邦人に救いがもたらされた」

という言葉は、パウロというキリストの使徒が、その手紙の中で書いた言葉で、聖書の中に見出すことができる。

で、この構図であるが、16世紀以降のクリスチャンたちの歴史を見ても、そっくり、ぴったり、ばっちりと、当てはまっている。すなわち、「ユダヤ人がつまずいて」という部分が、である。

カトリックが贖宥状でつまずいて、王政専制の時代の終わりが始まった。プロテスタントが予定説でつまずいて、資本主義も(その双子たる共産・社会主義も)、いまや風前の灯である。

ナッシュビルがどこまでの「つまずきの石」になるかしれないが、多数(マジョリティ)と少数(マイノリティ)を区別(差別)し、多数が少数を取り囲もうとしている点を取ってかんがみれば、「クリスチャンがナッシュビルにつまずいた結果、民主主義の時代もまたバベルの塔となった」という話が、未来の歴史家たちの定説となりうるかもしれない。(余談だが、「あなたは完全に包囲されている」というセリフこそ、民主主義を表象する一言である。そのもっとも醜い例の一つが、ナッシュビルなのだ。)

もし、仮にそうなったとしても、別に驚くにはおよばない。そうやって、何千年も、「ユダヤ人はつまずいて、異邦人に救いが…」という構図は、繰り返されて来たからだ。

つまり、「専門家こそ、その道についてもっとも分かっていない人である」ということだ。それは決して、珍しい話でも、不思議な話でもない。自分の回りに転がっているような狭苦しい世間にも、往々にして、よくある話、――よくある「皮肉な話」である。

神は皮肉屋である。

神が皮肉屋だからこそ、人間の歴史は、いつも、「皮肉」なエピソードに満ちあふれている。人間の一生を追った、文学だって、皮肉だらけだ。深みへ漕ぎ出して、せっかく命がけで獲ったはずの大魚は、浜辺へ戻ってみたら、骨だけになっていたという、オカシナ物語のように。

それゆえに、「クリスチャンはつまずいて、かえって、ノンクリスチャンに救いがもたらされた」という歴史が、今後、起こってくるのだろうと――、ぼんやりと、もしくは、はっきりと、予想される。

「ノンクリスチャン」とは、だれのことか?
例えば、予定説のような妄念が、「救われないと定められた人」としている人たちのことだ。例えば、ナッシュビルのような蒙昧が、「罪人である」と定めようとしている人たちのことだ。

冒頭のパウロという使徒、この続きを書いている。

「それは、彼ら(ユダヤ人)にねたみを起こさせるためだった」と。

この「ねたみ」が、パウロが、もしくは、神が意図したような、良い方向へと進んでくれればいいが、これまでの歴史に多々見られたような、分裂と紛争の方へ発展するようじゃ、たまったもんじゃない。

今後、クリスチャンたちの動き、そして諸教会の動向は、気をつけて観察していく必要がありそうだ。

しかし、もっと言えば、そんなものの動きなど、追うだけ時間の無駄かもしれない。

そんなものをば追っているよりも、「皮肉」以上に、「憐れみ」という右の手を持った、我らが救い主を探し求めている方が、ずっといい。


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