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『鬼滅の刃』のあのシーンに、実は浄土真宗の存在が? お坊さんが語る「仏教と鬼」【前編】

鬼と言うと、映画の記録的なヒットで話題となった「鬼滅の刃」(原作: 吾峠呼世晴/ごとうげこよはる)を連想する方も多いでしょう。仏教の中にも鬼はいます。そして「鬼滅の刃」は、かなり仏教(とくに浄土真宗)的なのです。そこで前半となる今回は、「鬼滅の刃」と浄土真宗の「鬼」について考えてみたいと思います。

「鬼滅の刃」の中の仏教


「鬼滅の刃」は、家族を鬼に殺された少年・竈門炭治郎(かまどたんじろう)が、鬼にされた妹・禰豆子(ねずこ)を人間に戻し、家族のかたきを討つため、鬼を倒す組織、鬼殺隊に入り、鬼の首領・鬼舞辻無惨(きぶつじむざん)をはじめとする鬼たちと戦う…というストーリーです。この作品には仏教(とくに浄土真宗)的な要素がかなり見られます。そこで今回は、まだご覧になっていない方にもわかるように、話の設定やストーリーをご紹介しながら解説していきます。

まだアニメ化されていない話にも触れていますので、ご了承ください。内容は『鬼滅の刃』の単行本(集英社ジャンプコミックス)に基づいています。

「鬼滅の刃」の鬼とは?


「鬼滅の刃」の舞台は、大正時代の日本です。作品の中での鬼は、このような設定になっています。

・鬼は元々人間。鬼の首領、鬼舞辻無惨の血によって人が鬼になります。無惨は平安時代の生まれ(作中の描写からすると貴族と思われる)で、病気を治すために医者が処方した薬によって(医者が意図した結果ではないのですが)鬼の祖となり、約1000年生き続けています。

・不老不死。激しく戦い続けても疲労せず、肉体を損傷しても回復できます。鬼を倒す方法は3通り。⑴太陽の光を浴びせる。⑵首を切る。⑶藤の花から作られた毒を注入する。ただし無惨は⑴以外の弱点を克服済み。なお、鬼が藤の花に弱いという設定は、本願寺の紋が藤であることに由来するという噂が一部の読者の間で出回っているようですが、真偽のほどは定かではありません。

・鬼の食料は人間であり、人間を多く食べることで鬼は強くなります。だから、鬼は人間にとって危険な存在です。鬼は人間の食べ物を受け付けません(食べても戻してしまう)。

そして、鬼を倒すための組織が鬼殺隊です。鬼殺隊は次のような特徴があります。

・鬼を倒すことを目的とした、政府非公認の組織。

・鬼殺隊の隊士にはいくつかの階級があり、最上位は「柱(はしら)」。なお、物語の主人公・竈門炭治郎は柱ではありません。

・鬼殺隊を率いるのは産屋敷(うぶやしき)家の当主。歴代の当主は短命ですが、先見の明と統率力にすぐれていて、そのために存続してきました。鬼の首領、無惨は産屋敷家と同じ一族の出身です。

・鬼殺隊を支援する家が各地にあり、その家は藤の紋を掲げています。

不老不死は苦の解決か?

鬼は不老不死です。これは、仏教で言うところの老・病・死の苦を克服していることになります。では、鬼は苦から完全に解放されているのでしょうか? そうではありません。その様子を上弦の壱(上弦とは首領に仕える上級幹部の鬼。壱はその筆頭)、黒死牟を例に見ていきましょう。

黒死牟は、鬼になる前は戦国時代の卓越した剣士でした。しかし黒死牟の双子の弟は、兄を上回る腕の持ち主です。そこで兄は、弟に敵わないことに劣等感を抱いていました。すると、無惨に勧誘されました。鬼になれば不老不死です。加齢による肉体の衰えがないので、人間には不可能な長期にわたる鍛錬が可能です。結局、鬼になりました。

時は流れ、兄弟が再会し、勝負することとなります。弟は80歳を超える老剣士になっていましたが、腕に衰えがありません。鬼となった兄をあと一歩で討ち取るという瞬間、弟は寿命が尽きました。弟は鬼になった兄よりも腕が立ち、そして兄が弟に勝つ機会が失われたということです。

兄は、弟に対する嫉妬など複雑な思いを抱えたまま、300年以上の時を過ごしてきました。鬼殺隊の剣士に討ち取られた時、次のような思いを述べています。

「何故私とお前はこれ程違う。私は一体何の為に生まれて来たのだ。教えてくれ。縁壱(※縁壱は弟の名)」

このエピソードからわかるのは、たとえ不老不死になっても老・病・死以外の苦は解決できないということです。

「鬼滅の刃」の中では、鬼は倒されるべき存在なだけではありません。このエピソードに見られるように、救いを必要としている存在としても描かれています。

【用語解説】四苦八苦(しくはっく)
 仏教では、生に必ず伴う苦を4種あるいは8種あげます。
生(しょう):苦のある世界に生まれること。
老:年を取ること。
病:病気になること。
死:命が尽きること。
愛別離苦(あいべつりく):好きなものと離れること。
怨憎会苦(おんぞうえく):イヤなものに遭うこと。
求不得苦(ぐふとくく):欲しいものが手に入らないこと。
五取蘊苦(ごしゅうんく):何らかの存在への執着が苦を引き起こすこと。

これらのうち、生・老・病・死を「四苦」、それに愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五取蘊苦を加えて「八苦」と呼びます。これらの苦から完全に解放された状態が「さとり」であり、この境地に到達することが仏教の目標です。そして、さとりの世界が浄土です。

宗教心の目覚め

 救いの糸口をつかんだのではないかと思える鬼がいます。上弦の弐、童磨です。童磨は生まれた時の特徴から「神の声が聞こえる特別な子」と言われ、両親が作った新興宗教の教祖に祭り上げられます。しかし童磨は神の声を聞いたことがなく、「極楽なんて存在しないんだよ。人間が妄想して創作したお伽とぎ話ばなしなんだよ」「悪人は死後地獄に行くって、そうでも思わなきゃ精神の弱い人たちはやってられないでしょ?」と言い、神や仏を信じている人を哀(あわ)れだと見ています。さらに、信者の相談を聞いている中で、金や地位、恋愛などへの執着が原因で身を持ち崩くずす姿を馬鹿らしいと思うようになります。童磨にとって、人間とは愚かで哀れな存在であって、人間社会は希望の持てる所ではなかったのです。

執着が苦の原因であると考えるのは、仏教と同じです。違うのは、童磨は自分の執着に気づいている様子がないことです(鬼殺隊は童磨と戦うにあたって、童磨の執着を利用した作戦を立てています)。

童磨は鬼になっても姿は人間と変わらず、教祖を続けます。鬼になって人間を喰らうようになるのですが、それを「救い」と称しています。鬼は不老不死であり、喰われた人は鬼の一部となって永遠に生き続けるという言い分です。

結局は鬼殺隊に討ち取られますが、最後に「地獄もあるのかな?」など、地獄について語り出します。宗教的な考えを否定しなくなったということです。

人は、それまでの信念を覆す事態に出くわすと、信念の転換が起こります。すると、それまで「価値がない」と否定的に見ていたものに、価値を見いだせるようになります。童磨の場合は、人間に負けたことがきっかけでした。

仏教の教えでは、地獄に落ちても永遠にいるわけではありません。人間と比べれば途方もなく長いのですが地獄にも寿命があり、寿命が尽きれば別の世界に生まれ変わります。童磨は地獄に落ちたとしても、後々の救いの糸口をつかんだのかもしれません。

地獄に行っても見捨てない


「鬼滅の刃」の中では、鬼への救いが描かれている場面があります。その一人が下弦(上弦に次ぐ幹部)の鬼、累です。累は人間だった時、病弱な子どもでした。無惨によって不老不死の鬼になり、身体は丈夫になったのですが、人間を喰らうようになります。それを見た両親は累を殺そうとするため、累は家族に裏切られたという思いを抱きます。結果として両親が返り討ちに遭あうのですが、母親は息絶えようとする時、こう言い残します。

「丈夫に産んであげられなくてごめんね…」

これを聞いて、累は家族の絆を自分で断ったとの思いに駆られます。

累は鬼となってからも「家族の絆」に執着します。支配下に置いた鬼に、累の家族を演じさせます。ただし両親役の鬼であっても、累の支配下には違いありません。そのため炭治郎から、恐怖で支配しているだけで、偽にせ物ものの絆だと指摘され、累は激怒します。結局、累は鬼殺隊に倒されるのですが、命尽つきようとしている時こうつぶやきます。

「山ほど人を殺した僕は…地獄に行くよね…父さんと母さんと…同じところへは…行けないよね…」

すると累の前に両親が現れ、こう話しかけます。

「一緒に行くよ地獄でも。父さんと母さんは累と同じところに行くよ」


こう言って、両親は累を抱きしめます。

累を倒した後、炭治郎はこう言います。

「殺された人たちの無念を晴らすため、これ以上被害者を出さないため…勿論俺は容赦なく鬼の頸に刃を振るいます。だけど鬼であることに苦しみ、自らの行いを悔いている者を踏みつけにはしない。(中略)鬼は虚しい生き物だ。悲しい生き物だ」

 実は、これと似た話が『涅槃経(ねはんぎょう)』という経典にあります(親鸞聖人はこの話を『教行信証(きょうぎょうしょう)』信巻に引用しています)。

それはこのような話です。古代インドにあった国の一つ、マガダ国での出来事です。その国の王妃が身ごもりました。その子について占うらなったところ、親を殺すことになると出ました。そこで両親は、生まれた王子の命を取ろうとしますが、未遂に終わります。その後、この王子・阿闍世(あじゃせ)は何事もなかったかのように育てられます。

やがて阿闍世は、ことの真相を知ります。両親が自分を殺そうとしたことに激怒した阿闍世は父を幽閉し、その結果父は命を落とします。

母の命も取ろうとしたのですが、大臣から「父を殺して王になったという話は昔からよくあるが、母を殺したという話は未だかつてない。そんな王に仕えることはできない」と止められます。

父が亡くなった後、阿闍世は罪の意識にさいなまされ、病気になってしまいます。薬でも治りません。阿闍世は「私は父を殺した報いを受けている。地獄に落ちるのも遠いことではないだろう」と言います。そんな阿闍世に、お釈迦さまはこう説きます。

「私は阿闍世のために涅槃(ねはん)に入らない」


お釈迦さまが涅槃(さとりの境地)に行かず、阿闍世と同じ世界にとどまるということです。そしてお釈迦さまは光明を放ち、阿闍世の病気は癒いえました。この経典には、「自らの罪を恥じるという善の心のある者に、仏は慈しみの心をかける」とも説かれています。

鬼と人の違いは?

「鬼滅の刃」では、人間社会に希望を持てなくなって鬼になったように描かれている例がよくあります。では、鬼殺隊の隊士は希望の持てる人生を送っていたのかというと、そうではありません。

たとえば隊士の一人、栗花落(つゆり)カナヲは子どもの頃、虐待により多くの兄弟姉妹を亡くし、自身も命の危険にさらされていました。泣くとさらに激しくなぐられるため、泣くことができません。

鬼殺隊の柱(はしら/隊士で最上位の階級)の一人、悲鳴嶼行冥(ひめじまぎょうめい)は入隊前、無実の罪で投獄されていました。殺人を疑われたためです。実際には人を襲っている鬼と戦っていたのですが、生き残った幼女が「あの人がみんな殺した」と話します。

「あの人」とは鬼のことなのですが、幼いため言葉が不十分で、聞いた人は行冥が殺したという意味に取ります。鬼は日光に当たって消滅しており、生き残ったのは行冥と幼女だけなので、疑いを晴らすことができません。助けた幼女の発言により、死刑になりかけていました。

どちらも、人生の望みを絶たれそうな状況です。しかし、鬼になっていません。何が違ったのでしょうか? それは、「私を信用してくれる人がいる」と感じられるかどうかの違いです。

カナヲは、鬼殺隊の柱である胡蝶カナエ・しのぶの姉妹に引き取られます。カナヲはカナエとしのぶを師として、姉として、慕います。カナエとしのぶも、カナヲを弟子として、妹として、育てます。行冥は、鬼殺隊を率いる産屋敷(うぶやしき)家の当主の働きかけにより、釈放されています。当主はその事件が鬼の仕業であることを見抜いていたということです。

自分を信用してくれる相手がいました。だから、人間社会に希望を失わずにすみました。これが、鬼になった者との違いです。

「鬼滅の刃」はフィクションですが、社会に希望を持てなくなった人が、反社会的なものに引き寄せられるのは、現実にあり得ることです。だれもが社会のどこかに居場所を見つけられるようにすることは、私たちの社会を守ることになります。

『鬼滅の刃』こんな所に浄土真宗



・「鬼滅の刃」には墓地がよく描かれています。墓石に刻まれている言葉は、確認できる限り、一場面を除いてすべて「南無阿弥陀佛」です。「〇〇家之墓」ではなく「南無阿弥陀佛」と刻むのは、浄土真宗の習慣です。

・隊士の一人、不死川玄弥(しなずがわげんや)が戦いの最中に『阿弥陀経』を唱えている場面があります。鬼はそれを聞いて「阿弥陀経か? 何とまあ信心深いことじゃ」と返しています。『阿弥陀経』は浄土真宗でよく唱えられるお経の一つです。玄弥は集中力を高めるために習慣として行っている動作(スポーツで言うルーティン)として、『阿弥陀経』を唱えます。

・悲鳴嶼行冥(ひめじまぎょうめい)は「南無阿弥陀佛」と書かれたたすきを掛けています。行冥は鬼殺隊に入る前は寺にいました。その回想シーンでは、剃髪していません。浄土真宗では、僧侶が剃髪する必要がありません。ただし、話の舞台になっている大正時代では、浄土真宗でも僧侶は剃髪するのが一般的だったようです。それに、回想シーンで着ている服が僧衣ではなさそうなので、行冥は寺にいても僧侶ではなかった可能性があります。


(文/編集委員・多田修)

【参考文献】
・植木雅俊著『梵文『法華経』翻訳語彙典』上・下(法蔵館)
・貝塚茂樹著『中国の神話』(筑摩書房)
・桂紹隆著「インド仏教思想史における大乗仏教 有と無との対話」(春秋社『シリーズ大乗仏教1大乗仏教とは何か』所収)
・子安宣邦著『鬼神論 儒家知識のディスクール』(福武書店)
・奈良康明著「餓鬼(preta)観変遷の一過程とその意味」(春秋社『大乗仏教から密教へ』所収
・馬場あき子著『鬼の研究』(筑摩書房)
・正木晃著『お坊さんなら知っておきたい「説法入門」』(春秋社)

お坊さんが語る「仏教と鬼」【後編】はこちらからご確認できます!

※本記事は『築地本願寺新報』に掲載された記事を転載したものです。本誌やバックナンバーをご覧になりたい方はこちらからどうぞ。

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