見出し画像

知的財産(権)は原因か?結果か? ー そして、デザイン経営と身体知

 本日は知的財産の話から。
 中小企業の知財施策では、制度や手続の普及啓発に努めたことで特許権や商標権といった権利を取得する企業が増えているものの、未だその「活用」が不十分であり、活用促進のための支援を強化する必要がある、といった説明がされがちです。
 2000年代に流行った「知的創造サイクル」の名残りから、今も知財は「創造→保護→活用」の流れで整理されることが多いように見受けられますが、その「活用」こそが課題という問題意識、本当にそうなのでしょうか。
 こうした認識は、知的財産にフォーカスするがゆえに、権利化された知的財産を企業が良い方向に動き出す「原因」と捉えてしまっていますが、企業活動全体に目を向ければ、権利化された知的財産は企業が良い方向に動き出した「結果」と捉えるのが適切ではないでしょうか?


1.知的財産は「原因」か?それとも「結果」か?


 権利化された知的財産(以下、単に「知的財産」としますが、ここでは特許権等の取得によって法的に保護される知的財産とご理解ください)は、企業が良い方向に動き出す「原因」と捉える前者の見方は、下の図のようなイメージです。
 特許権や商標権を取得したので、それを活用することで新たな収益が生まれる。つまり、知的財産は企業がよくなるスタートライン、つまり「原因」であるという捉え方です。

知的財産は「原因」?

 よって、特許権や商標権を取得しても、それが収益に結びついていない中小企業には、知的財産を活用する支援を行う必要がある。そういう文脈で知財「活用」の必要性が語られるようになって久しいですが、果たして活用支援は成果につながっているがのでしょうか。
 今も同じような文脈の問題意識を目にすることが少なくなく、未だ道半ばのようにも思えますが、そもそもの課題認識に齟齬があるということではないのか。「活用」のハウツーが問題というわけではなく、活力が乏しく、事業がうまくいっていない企業が知的財産を手にしたところで、それが活かされるような状態にはなく、変革が起こるはずもない、というのが実態ではないでしょうか。

企業に活力がないと知的財産も活かされない

 これに対して、権利化された知的財産は、企業が良い方向に動き出した「結果」と捉える後者の見方は、下の図のようなイメージです。
 企業になんらかの要因で変革が起こり、社内が活性化するとともに外部にも新たな関係性が生まれ、そうした新たな活動の「結果」として、特許権や商標権を取得する場面が増えていく。つまり、知的財産は活力ある企業のエネルギーが表出した「結果」であるという捉え方です。

知的財産(権)は「結果」?

 そうすると、初めに生じているのは企業の活性化であり、会社が温まることで事業の機会が増加し、様々なアイデアが出てくるようになった「結果」として、知的財産が蓄積されていく。それが「知財活用」で知られる多くの中小企業において、実際に起こっていることではないでしょうか。
 こうした状態で表出する知的財産は、事業化の過程で、事業を意識して生まれたものだから、当然に事業の中で「活用」されていくことになります。そしてオンリーワンの証明である知的財産は、さらに企業を温める効果をも生じさせてくれるでしょう。

企業の活力が知的財産を生み出し、さらに活力をもたらす

2.「創造 → 保護 → 活用」のどこにボトルネックがあるのか?


 企業の経営者は普通、知的財産の「創造→保護→活用」という思考回路で経営を考えるわけではないので、個人的にはあまり好きではないのですが、知財の世界ではこのフレームワークでの説明が必要になる場面が少なくないので、先ほどの「原因」か「結果」かの違いに応じて、結局のところ「創造→保護→活用」のどこにボトルネックがあるのかを考えてみたいと思います。

 前者のように知的財産を「原因」と捉え、その「活用」に注力しようとしてもなかなかうまくいかないケースは、以下の図のようになってしまっていることが多いのではないでしょうか。
 知的創造サイクルでいうところの「創造」が、熱のない状態で行われてしまっているから、創造された知的財産を権利化して「保護」したところで、熱がなければ発火、すなわち「活用」されることもなく、フェードアウトしてしまう、というパターンです。

「創造」に熱がないと「保護」しても「活用」に至らない

 他方で、後者のように知的財産を「結果」と捉える場合、「保護」や「活用」の前に、何よりも重要になるのが「創造」の段階です。
 いかに社内を活性化させ、新しいことに取り組む熱量を上げたうえで「創造」を促進するか。企業の熱量が上がり、前進する意欲が生じた流れの中で生まれた知的財産だからこそ、「保護」するモチベーションも高まるし、新しい事業の中で必然的に「活用」されることになる、という流れです。

「創造」の熱が「保護」の意欲を高め、必然的に「活用」される

 つまり、中小企業が知的財産を活用するためのボトルネックは、「活用」ではなく「創造」の段階にあると考えられるのではないでしょうか。

3.「創造」のための知財施策としてのデザイン経営


 次に、中小企業向けの知財施策を、知的創造サイクルの枠組みで整理してみることにしましょう。
 どこに分類するのか難しい施策もありますが、ザックリと配置してみると、下のようなイメージになるのではないかと思います。

知的創造サイクルと様々な知財施策、デザイン経営のポジション

 オーソドックスなのが「保護」の領域で、発明相談や権利化支援などの伝統的な知財施策はここに分類されますが、近時は先に述べたような「保護」された知的財産の「活用」が弱いとの問題意識から、「活用」の領域で様々な施策が進められている傾向が、この図にも表れています。
 これに対して、「保護」や「活用」につながる前提となり、先ほどの流れからは何より重要であるはずの「創造」の領域は、研究開発費の助成など直接的な知財施策としては扱われないものが思い浮かぶ程度で、ずばりここにフォーカスした施策はあまり打たれていない印象です。

 そうした中で、私が近年力を入れているデザイン経営は、知財施策の中では位置付けが曖昧となっているのが現状ですが(それゆえに「なんで知財施策としてやっているの?」と疑問を持たれることが少なくありません)、この枠組みに当てはめるならば、デザイン思考を導入して事業開発を進めるといった文脈から、知財「活用」の一形態に収まりやすいのではないでしょうか。

 しかしながら、少し前に「『デザイン経営のわかりにくさ』 を解きほぐしてみる。」に書いたように、中小企業のデザイン経営は、「デザイン経営」宣言当時の事業開発やブランディングに軸足を置いたスタイルから変化してきています。そして、「デザイン経営の好循環モデル」に示されている「人格形成」を軸とした「文化醸成」「価値創造」の循環が、「創造」の部分に大きく効いてくる、ということに気づかされるようになっています。デザイン経営、特に「人格形成」に該当するアイデンティティの可視化やビジョンの構築が、熱量を帯びた知的財産の「創造」に効いてくるのではないか、という仮説です(仮説というか、自分が目にしてきた限りでは確信に近い感触です)。
 デザイン経営の一環としてワークショップやデプスインタビューを実施し、「人格」が形成(アイデンティティの可視化やビジョンの構築etc.)されていくと、自社の存在意義や目指すべき方向性が腹落ちして、社内の意識共有が進むようになります。それが社内の活性化や新たな価値創出に結びつくメカニズムは、「『デザイン経営の好循環モデル』 の意味するところ」や「『開発マインド』と『デザインマインド』」に書いたとおりですが、デザイン経営をその本質を外すことなく推進していけば、「創造」の基盤となる社内の活性化、熱量の増加、外部との新たな関係性の構築に有効であることは、おそらく間違いないだろうと思います。

 特に中小企業を対象に考える場合、デザイン経営は知的財産の「創造」に有効な施策となるのではないかと思いますが、それがなぜ有効であるのか、その効果を発揮させるためには何が重要になるのかを、もう少し突っ込んで考えてみたいと思います。

4.デザイン経営と身体知


 デザイン経営における「人格形成」の具体策として、アイデンティティ(自社は何者であるのか)やビジョン(自社はどこに向かうのか)の言語化がわかりやすい進め方ですが(詳しくは「アイデンティティ型デザイン経営読本」が参考になります)、言語化の対象はアイデンティティとビジョンといった形に限られるものではなく、より一般的なMVVでもよいですし、私がワークショップでよく取り入れている自社の一言表現のような型式でもよく、要は、言語化することで自社がどういう存在かを社内で確かめ合うことが本旨であると考えられます。
 では、こうした言語化のプロセスは、社長が考えて皆に伝える、あるいは社内で案を募って決定する、といった形で進めればよいのでしょうか?

「人格」は頭で考えて言語化するものか?

 実はここがすごく重要なポイントなのですが、会社の「人格」の言語化は、頭だけで考えるべきものではない、ということです。

 ちょっと何を言い出したのかかわからないと思われてしまうかもしれませんが、人間の「知」というのは、頭の中だけで形成されるものではありません。人間の知識には、身体に刷り込まれた「身体知」もあり、今の世の中において求められているのは、この身体知を生かすことではないか、ということを強く感じるようになっています。
 その身体知とは何かといった話ですが、たとえば、自転車に乗るシーンや、野球のバッティングを思い浮かべてみてもらうと、理解しやすいのではないかと思います。あんなに細いタイヤ・大きな車輪でバランスをとり、自転車を乗りこなすには様々な知識が必要なはずですが、実際に自転車に乗るときには、重心をどこにおいて、左右のペダルをこのタイミングで踏んで、などといちいち考えて自転車に乗る人はいないでしょう。無意識に体が反応して、自転車に乗れてしまっているはずです。野球のバッティングも同様に、スピードのある小さなボールを、あんなに細長いバットの芯で捉えるには、とても複雑な情報処理が必要なはずですが、頭の中で球速と距離からバットを振るタイミングを計算したり、ボールとの位置関係をシミュレーションしたりして、バットを振っているわけではありません。
 つまり人間の知識とは、頭に収納され、明確に意識できる知識(形式知)だけでなく、体が覚え込んでいて、無意識の反応で使いこなしている知識(暗黙知を含めた身体知)もあり、それらが日々の行動に活かされているということです。
 そして後者の知識は、生まれながらにして体に備わっているわけではなく(もしそうであれば、練習もせずに自転車に乗れたりバッティングができたりするはずです)、五感で受け止めた経験が身体化されているものです。

 ムサビに通っていた数年前、どうにも自分が理解しきれなかった言葉に、「造形言語」と「身体性」がありますが、「身体性」とは結局のところ、この身体知を生かすことを指しているのではないか。
 デザインとは、形式知だけでなく身体知も生かされ、人間の知がフル活用される行為であると認識していますが(身体知が自然に表出しやすいから、デザイナーやクリエイターはエモかったり面倒くさかったりするのでしょう)、それは自然人だけでなく、法人や組織にも当てはまるはずです。
 デザインを経営や事業に活用しようということの本質は、情報処理偏重となっているビジネスの世界で、忘れられがち・軽視されがちとなっている身体知を呼び起こすことにあるのではないか。なぜならば、情報処理・形式知のみを突き詰めていくと、行き着く先は同質化・個性の喪失であり、自社らしさの発現・固有性のある新たな価値創出には、その組織に蓄積された、それぞれが差異を有する身体知を生かすことが不可欠と考えられるからです。そして何より、身体知が作動していないと日々は堅苦しいものになり、仕事に面白さを感じにくくなってしまうでしょう。

 そうすると、会社の「人格」の言語化において求められるのは、業種が何で従業員が何人で自社製品の特徴は何々で、といった形式知を捏ねくり回して言葉を捻り出すことでも、顧客やパートナーに刺さりそうなキャッチーな言葉を探し当てることでもなく、組織に身体化された、つまりその組織で働く人々の心底にある、未だ言語化されていないものを表出させて、その中から「たしかにそうだよね」と思える共通のものを探り出し、それをしっかりとイメージできるような言葉を絞り出すことにあるはずです。本当の意味での共感や意識共有は、身体知のレベルでの結びつきがないと発現しないでしょう。
 「腹落ちする」という言葉は、まさに知識が身体化されるさまを示しているように思いますが(「腹心」とかもそうですね)、だからこそ時間や空間を共有すること、それも頭だけでなく、身体知レベルでの交流の場を設けることが必要になってくるわけです。

形式知だけでなく身体知で交流する

 そして、この身体知レベルでの交流には、形式知の横槍(既成概念とか思い込みとかいうやつ)が邪魔になったりするので、「人格」の言語化を進めるプロセスでは、一旦お休みしておいていただく必要があります(現象学でいうところのエポケー・判断停止)。「○○は***というものだ」という頭に刷り込まれた知識のやり取りではなく、「自分は○○したときに***と感じた」といった経験を言葉にして語り合い、「そうそう」「それめっちゃわかるわ」という、身体知レベルで同じ感覚を共有できるものこそが、組織の「人格」、会社の「人格」の基盤であるはず。各人が有する身体知は、同じ組織に属する者として、無意識のうちに日々の仕事の経験によって形成されたものだからです。

 余談ですが、酒席を共にすると仲が良くなるというのも、おそらく強制的に判断停止の状態が生じて、身体知レベルでの交流が図られるからでしょう。下戸の自分は、意識的にエポケーするしかないですが…
 また、セミナーやミーティングのことを、デザイナーは「セッションする」と表現したりしますが(他にも「講演」や「レクチャー」ではなく「話題提供」や「インプットトーク」、「講師」ではなく「スピーカー」だったりしますね)、「セッション」はエポケーして語り合うからこそ「セッション」となるのであり、かつて「なぜセッションなんですか?セミナーやミーティングとどう違うんですか?」とSASIの近藤氏に質問したところ、「ジャスバンドの演奏みたいなのがセッションですよ」と回答されたのも、おそらくそういう趣旨なのでしょう。

身体知から人格を形成する

 そうやって共有された感覚こそが、組織の組織たる所以、自社が社会に存在する理由、まさに本質であると言えるでしょうが、そのモヤっとした感覚をイメージできる言葉を探し出し(あるいは創り出し)、言語化して形式知に置き換えることによって、組織の中で広く共有して、個々人に身体化(まさに「腹落ち」)させることが可能になります。そして、ルーティーンに追われて「人格」への意識が薄まりつつあるときにも、形式知化された言葉が身体化された「人格」を呼び起こすキーとして作用しますが、そうしたプロセスを経ることなく身体化されていない標語を社内に貼りまくったところで、期待薄なのは明らかではないかと思います。

人格(形式知)を身体化する

 身体知(暗黙知)を共同化するとともに形式知として表出化させ、それらを連結化→内面化させることで、スパイラル状に知識を創造・進化させるのが、野中郁次郎先生のSECIモデルです。久しぶりにSECIモデルに関する本を読んだところ、以前にも増して「腹落ち」感があったのですが、「人格形成」におけるアイデンティティやビジョンの言語化は、そのスタートラインと捉えることもできるのではないでしょうか。
 AI云々は形式知レベルを合理化・効率化する話であり、やっぱりこのあたりにこれからの企業のあり方の鍵があるように思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?