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写真と絵画の境目は、”雨のにおい”の意味と同じかもしれない

写真は光しか撮れない』という記事を以前書きました。
原理的にも比喩的な意味でも、アートの文脈における写真は「光の記録」であると考えています。

さて、今回は美術展のレポと、そこから考えたことの記事。
純粋なレポをご覧になりたい方には向かないかもしれません。

国立新美術館『テート美術館展 光 — ターナー、印象派から現代へ』へ行ってまいりました。
絶賛執筆スランプなので、リハビリがてら考察マシマシ話飛びまくりで書くことにします。


展示作品

ジョン・マーティン《ポンペイとヘルクラネウムの崩壊》
かつてジョン・マーティンに帰属《パンデモニウムへ入る堕天使『失楽園』第1巻より》
ジョゼフ・ライト・オブ・ダービー《トスカーナの海岸の灯台と月光》
ジョン・ブレッド《ドーセットシャーの崖から見るイギリス海峡》
デイヴィッド・バチェラー《ブリック・レーンのスペクトル2》
オラファー・エリアソン《星くずの素粒子》

連休のさなかに行ったところ、展示室に入るまで30分ほど待ちました。
展示室内も混雑していてゆっくりは見られなかったものの、内容としてはお値段以上なので大満足。
オススメです。

芸術家たちが「光」と向き合った歴史

本展示では、印象派やその周辺の時代から、現代に至るまで、様々な時代における「光の追求」を紹介していました。
明るさであったり、戸外制作であったり、点描などの技法であったり。
はたまたインスタレーションで、光そのものを操ったり。

同じ「光」といえど、宗教的な光、自然現象としての光、抽象的な光、物質的な光など、捉え方表現の仕方は千差万別。
展示作品の200年程度の時間の中でも、芸術家たちの苦悩の果てのようなものを見て取れました。

光を描けば闇も描く

光があれば闇がある。
展示作品には闇を描いたものもいくつかありました。

冒頭にリンクを掲載した『写真は光しか撮れない』において、「写真は光の記録であって、闇を撮ることはできない」と結論付けています。
しかし絵画作品においては、黒をはじめとした色を使いこなすことによって、直接的に闇を表現可能なのだろうと思わされました。

では、同じ光景を写真で撮った時、どうなるのか。
やはり物質的な光の記録である以上、写真は光の記録だと考えます。
これは加色混合と減色混合の関係に言い換えられます。

絵画は白(ないし紙の地の色)に色を乗せていきます。
この時は減色混合ですから、色を重ねるたびに黒へと近づきます。
理論が飛躍しますが、「紙の上に闇を描写していける」ことなのだと考えています。
逆に「より鮮やかに描くには」と挑戦したのが、印象派やポスト印象派の画家たち、とくにスーラをはじめとした点描の技法を研究した画家。
彼らによって、風景的な”光”の描写が大きく前進したように思えます。

逆に写真は黒(もとい、何も記録されていない状態)に、光を当てることで記録されます。
純粋に「光を描写する」のであって、光が当たらない部分=闇ではなく”影”です。
闇を表現するには、この影を闇と言い張るか、はたまた被写体をモチーフとして闇とするか、に縛られる難しさがあるように思います。

裏を返せば、この写真に対する制約をどう振り払うのか、という切り口が写真家たちの足跡であるようにも考えられます。
私はその解法の一端も掴めていませんが。

鮮やかすぎる色は偽物か

光と色は、もとを正せば同じものです。
というわけで直近で話題になったテーマを交えて、色について触れてみます。

印象派では、先ほども触れましたが「より鮮やかに」自然を描画することを研究されていました。
本展示でも数十点の作品を見ることができます。
ここでは1つの作品をピックアップします。

フィリップ・ウィルソン・スティーア《ヨットの行列》

カメラだと伝わりにくいかもしれません。
実物はかなり鮮やかな青い海です。
印象派好きな私には心地よい色でした。

さて。
この海の色は本物でしょうか、偽物でしょうか。
そして本物か偽物か、という疑念はそもそも浮かぶでしょうか。

話を写真に変えます。
岐阜県にある通称「モネの池」を撮影した1枚の画像が論争の的になりました。

この色が「本物とはかけ離れている」として論争が起きました。
これは写真ではない、絵画だ、という主張です。

カメラのイメージセンサーで記録される写真というのは、たいてい色がくすんでしまうので、後から編集するのは日常的です。
しかし「加工がやりすぎていること」「『写真』と言っていることで実際にこう見えたり撮れたり、という誤解を生むこと」に指摘が入っています。

端的に言うなら、この色は偽物です。
撮影者さんの好み+SNSでウケる色使いです。
では絵画で問題にならなかった、色の本物・偽物という疑念が、なぜ写真で浮かぶのか。

それは「写真は現実を写す意味役割を持っている」という根底認識が関係しているように思います。

写真と絵画の境目は、”雨のにおい”なのかもしれない

ここでタイトル回収。
ハイパーこじつけタイムです。
あ、ぜんぜん関係ないですが、スーパーとハイパーはそれぞれラテン語とギリシャ語で、同語源なんだけど言語のランク付け的なアレでハイパーの方が上らしいです。

閑話休題。
あなたは「雨のにおい」と聞いて、どんなもの浮かべますか。
もとい、どんな状況を思い浮かべるでしょうか。
おそらくですが、状況的に「雨は降ってないか小降り、いまから本格的に降りそうなとき」を思い浮かべていると予想します。
メンタリズムです。

ギリシャ語の「Petrichor(ペトリコール)」を想定して書きました。
重要なのは「ザーザー降りの時の雨の匂いはあまり想起されない」という点です。

「雨のにおいがする」と「雨の音がする」の2つを並べたとき、明らかに「音がする」方がその時点でそれなりの降水量だと分かります。
なんせ窓なり地面なり屋根なりを、雨が叩いていないと音鳴りませんから。
あと降雨量が多いと、ペトリコールはかき消されてしまいます。
逆に、においよりも音が優位になる状況で「においがする」は、詩的な表現になるのではないでしょうか。

暴論ですが、これは言葉の綾です。
しかし言語での情報伝達は、口頭にしろ文字にしろ、人間のなかでかなり重要な役割を持ちます。
「雨のにおい」という言葉に紐づけられた「時間的・状況的な情報」によって表現が限定的になる点は、写真が「現実の光景をそのまま伝達する」という紐づけに似ています。

写真も絵画も言葉も、情報はすべて加工される

たしか大学で習ったような、でもソースがないので曖昧ですが。
「情報は、加工され伝達される」という定義を覚えています。

情報はけっこう広いカテゴリを内包する言葉です。
光、音、温度、質感、文字、人間関係…
この世のすべては情報で満ちており、我々は情報を得て、加工し、伝達することで社会を営んでいます。

これは古来より同じです。

逆に言うと、世に出回るありとあらゆる情報は、加工されたものであると言えます。
どの部分を切り取るのか、何を伝え何を伝えないのか、どう表現するか。
官能的な情報にも、感じる程度に個人差があるでしょう。
写真だって絵画だってそう、全部加工されているのです。

だからこそ、言葉や映像などを用いて、自分が意図した内容を伝達できるよう情報を付加していくのです。
言葉や各メディアに課せられている制約は、意図を特定しやすくするための情報でもあって、だからこそ「〇〇だから絵画だ」と別の範疇に分類したくなる作用につながる。

「嘘を嘘であると見抜けないと~」
かの人が言っていたりしますが、目の前の事柄が果たしてどう加工されているのか、吟味する余裕は持ちたいものですね。

まとめ:SNSは光も闇もある。こわい。

上記の1件は、とにかくみんなポジショントークで殴り合ってて怖かった。

批判派は「撮って出しではこう!」「こんなの写真じゃない!」。
たぶんあなたがメディアに対する定義や使途に囚われすぎてる。

擁護派は「好きなように加工していい!」「インフルエンサーならバズらないと!」。
加工を否定しちゃうと自分もダメになるからね、仕方ないけど。

テート美術館展は「光」をテーマにしていたので明るい展示でした。
でも「光と闇」展だったなら、SNS炎上事件簿の方がよっぽど言い得て妙だったように思えるくらい。

私のポジションは…「程度問題でしょ」なんですけど、そうすると線引きを誰が決めるんだ問題に引きずり込まれるのがなんとも。
私だって空を浅葱色にしてますし。
モネの池の1枚は彩度上げすぎだろと思ってしまうので、とりあえずXでは触れないように…くわばら。

とりあえずリハビリで、ダラダラと3,500字かけたのでよし。
あとは内容の面白さを充実させたいもんです。
これをリハビリと呼ぶのか定かではないですけど。
がんばると決心する夏の日でした。

おわり。

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