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言葉の前提と世田谷の街

「うちの周りなんて何もないよ、田舎だよ」

生まれも育ちも世田谷区の友人2名にそう言われて、「ちょっと何言ってるのかわからない」と心底思ったのは今から10年くらい前の話。まだわたしは10代だった。

わたしが生まれ育ったのは新潟県。さらにいうと、新潟の人に地元の名前を言ってもわかってもらえないくらいには知名度のない田舎で育った。(一応新潟市に隣接してるんだけどな。)小学校も中学校も、まわりはぐるり田んぼに囲まれている。見渡す限りの田んぼ。それ以外は何もない。本当に何もなかった。

だから世田谷区で生まれ育った友人の言葉が理解できなかったのだ。電車は10分に1本は来るだろうし、それに乗ればすぐに渋谷にも新宿にも着く。コンビニだってそこら中にあるし、人もたくさん住んでいる。そのどこが「何もない」なんだろう。なんだってあるじゃないか。そう話すと友人たちは困ったように笑った。「だって、本当に何もないよ?」と。

あれから10年くらい経った今日、世田谷区をてくてくと歩いていたときに、彼女たちの言葉を思い出していた。

「本当に何もないよ?」

わたしは世田谷の街を眺めながら思う。見渡す限り住居が並んでいて、コンビニも駅前か大通りに出ないとないし、ごはん屋さんもない。きっと夜道は静かなんだろう。……たしかに、何もない。渋谷や新宿の繁華街に比べれば、の話だけれども。

まだ若かったあのころのわたしは「何もない」や「田舎 / 都会」の定義が人によってまちまちであることに気づいていなかった。今になれば当たり前すぎて笑ってしまうけど、言葉の意味は同じでもそのニュアンスは人によってバラバラである。わたしにとっての「田舎」と、ほかの人の「田舎」は、きっと違う。山を想像する人、海を思い浮かべる人、田んぼを思い出す人、さらには住居の数、コンビニまでの距離、小学校の設備、私立公立の立ち位置……イメージは人によってきっと違うんだろう。

だからなんだって言う話ではないけれど、そういうちょっとしたイメージの違いで話が噛み合わなくなることはあるし、もしかしたらいらない争いが生まれてしまうこともあるのかもしれない。いや、わたしにはあった。

「おかしいな」と感じたとき、前提の確認が必要な場面がきっとある。あるんだよ。

そんなことを思いながら、世田谷区を歩いていた。10年も前の思い出話。わたしも友人も、それぞれに大人になったはず。元気だろうか。久しぶりに会いたいなあと、柄にもなく思いながらわたしはもう一度、世田谷の街を見渡した。

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